アドベント―夜明けを待ち望む

今日から教会暦ではアドベント(待降節)に入りました。これはクリスマスに先立つ4つ前の日曜日から始まる約4週間の期間を指しますが、西方教会(カトリック・プロテスタント)の暦はアドベントから始まりますので、これらの教会にとっては今日から新しい年を迎えるということになります。

アドベントという言葉はラテン語で「到来」を意味するadventusという言葉から来ています。これはもちろんイエス・キリストの到来を意味していますが、それには二つの意味があります。

まず第一に、この期間は約二千年前にキリストが人となって降誕されたできごとを覚え、それを待ち望む期間です。これはすでに起こったキリスト降誕のできごとを覚え、救い主を待望する神の民イスラエルの祈りに心を合わせる期間ということができるでしょう。

けれども、アドベントの意味は、たとえば日本でいう「もういくつ寝るとお正月」のように、ただクリスマスの祝日を待ち望む準備期間というだけではありません。ここで待ち望まれる「到来」は二千年前のキリストの到来を意味しているだけでなく、やがて将来起こる2度目の到来、再臨を待ち望むという意味合いもあります。地上での歩みを終えたイエスは復活後天に挙げられましたが、やがてこの地上に帰ってくることが約束されています(使徒1章9-11節)。その時キリストは神の国を完成し、王として統べ治められるのです(1コリント15章23-28節)。つまり、アドベントには過去と未来に二回にわたって行われるキリストの到来を待ち望むという、二重の意味があるのです。

このように、救いの歴史においてキリストは二度来られるわけですが、このことを聖書は美しいイメージで表現しています。

「わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」。(黙示録22章16節)

ヨハネが見た終末についての幻(4章1節「これから後に起るべきこと」)は22章5節までで終わっており、16節の時点でヨハネは彼にとっての現在(紀元1世紀末)に帰ってきていますので、ここで語られている明けの明星としてのイエスは再臨のイエスではなく初臨のイエスを指していることが分かります。

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明けの明星とは金星のことで、日の出に先立って東の空にひときわ明るく輝く星です。この星が昇ると、夜明けが近いことが分かります。同様に、イエスが二千年前に来られたと言うことは、神の救いのドラマが最終段階に入り、神の国の完成がすぐそこまで来ていることを表しています。新約聖書の記者たちは一様に、彼らが終わりの時代に生きていることを意識しており、神の国を完成するためにイエスが再び来られることを待ち望んでいました。パウロはまさに夜明けというイメージを使って、そのことを表現しています。

なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。(ローマ13章11-12節)

初臨のイエスが夜明けの近いことを告げる明けの明星であるなら、再臨のイエスはまさに昇る太陽そのものと言えるでしょう(ルカ1章78節、マラキ4章2節参照)。イエスが二千年前に来られたときには、その存在に気づいたのはごく一部の人々に限られていました。けれどもキリストが再び到来する時、その輝きは世界のすべてを照らし、すべてを明らかにし、新しい時代が始まるのです。

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私たちはキリストの初臨と再臨の間の時代に生きています。いわば、明けの明星が既に輝き、東の空が白み始めていく中、太陽が地平線から昇ってくるのを今か今かと待ち構えている、そういう時代を私たちは生きているのです。

教会にとって、一年が待ち望むことから始まる―これはクリスチャンとしてのアイデンティティの重要な側面を教えてくれると思います。待ち望むことはクリスチャン信仰の重要な特質を表しています。私たちは完成された存在ではありません。常に未完成であり、成長の過程にあり、旅の途上にある存在といえます。教会とは、終わりの時代にあって、キリストの到来、神の国の到来を待ち望む共同体にほかならないのです。

「待つ」ということは、いつも易しいわけではありません。この地上に満ちる悪や苦しみに直面したとき、私たちは旧約時代の神の民のように、「主よ、いつまでなのですか。」(詩篇13篇1節)とうめくこともあります。けれども、すでにキリストが一度来られ、再び来られる約束が与えられている新約時代の私たちは、花婿の到来を待ち望む花嫁の喜びを抱きつつ、 「しかり、わたしはすぐに来る」と言われるイエスに対して、「アァメン、主イエスよ、きたりませ。 」と確信を持って祈ることができるのです(黙示録22章20節)。

Veni, Veni, Emmanuel(讃美歌94番「久しく待ちにし」)

 

エペソ書とキリストの戦い(1)

所属教会のサンデースクールで何回かに分けてエペソ書の学びをしてきましたが、今日は最終回で6章を取り上げました。この章は「神の武具」「霊的戦い」で有名な箇所ですが、エペソ書で霊的戦いについて述べられているのはここだけではありません。この機会に、エペソ書における霊的戦いについてまとめてみました。

エペソ書6章のいわゆる「神の武具」の箇所(10-18節)は霊的戦いを教えている箇所として有名です。エペソ書で霊的戦いというとこの部分だけが突出して有名ですが、実は1章20-21節、2章2節、3章10節、4章27節などを見れば分かるように、霊的戦いはエペソ書全体を貫く大きなテーマであると言って良いと思います。

本書の全体をまとめるキーワードは「神の奥義」です。

8  神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟りとをわたしたちに賜わり、  9  御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。  10  それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。(エペソ1章8-10節)

奥義」と訳されているギリシア語ムステーリオンは英語のmysteryの語源にもなったことばで、「それ以前には知られていなかったが、時が来てある特定の人々に示される内容」のことです。ここでは神の「御旨の奥義」と書かれていますが、パウロが語っているのは、天地創造以来神が歴史を動かしてこられたその目的は何処にあるのか、と言う点について、終わりの時代に明らかにされた啓示の内容です。本書の全体はこの「奥義」の説明と適用であると言っても良いでしょう。

そして、その「奥義」の内容が10節に書かれています:「神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされた」。エペソ書では「天」と「地」という領域が大きな役割を果たしていますが、この二つの領域においてキリストのもとにすべてを一つにされることが、歴史に対する神の目的だということです。本書の内容にしたがってこのことを図示すると次のようになります:

エペソ書の世界観

1章でパウロは、神がキリストにおいてなされた救いの御業をこう表現します:

20  神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、  21  彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。(1章20-21節)

ここに出てくる「支配」「権威」等は単なる抽象的な概念ではなく、パウロにおいては人格を持った霊的存在を表しています。これらは天において神に敵対する霊的勢力なのです。復活し、神の右に挙げられたキリストは、これらすべての敵対勢力に対して優位に立たれたのです。神がキリストにおいて「天にあるもの」を一つに帰されるとは、このことを指しています。

それでは「地にあるもの」についてはどうでしょうか?2章では、神はキリストの十字架を通してユダヤ人と異邦人の間の隔ての壁を打ち壊し、キリストにあってすべての人を一つにする道を開かれた(15節「ひとりの新しい人」)ということが語られます。そして2章の後半ではパウロは教会を神殿にたとえています

20  またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。  21  このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、  22  そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。 (エペソ2章20-22節)

実はこの箇所は、上で見た、天における敵対勢力への勝利というテーマと結びついています。最近出たエペソ書の研究書によると、1:20-2:22までの内容は、古代世界における「神の戦いdivine warfare」のパターンに従っているといいます(Timothy Gombis, The Drama of Ephesians)。それによると、全地の王である神はまず出かけていって敵対する勢力を征服します。凱旋してきた神は勝利のしるしとして神殿を建設し、そこに住みます。そして神の民はその宮に集まって神を礼拝し、その支配を祝うというのです。このパターンは出エジプト記15章や黙示録19-20章にも見ることができます。また、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスがヒスパニアとガリアで大勝利を収めて凱旋する際、元老院はその勝利を記念して「平和の祭壇Ara Pacis Augustae」を築きました。

Ara Pacis

アウグストゥスの勝利を称える「平和の祭壇」

エペソ書においても、同様のパターンが見られます。パウロによると神は世界を創造された全能の神です。そしてこの神がすべての支配と権威の上に御子キリストを挙げられました。キリストの宇宙的主権は同時に神の王権の表現でもあります。神が実際にそのような世界の王であることはどうやって証明されるのでしょうか?それは支配や権威と言った敵対勢力に対して勝利を収められたことによります。それはキリストの十字架によってなされたのです。エペソ2章ではキリストの十字架はユダヤ人と異邦人の和解ということに焦点が当てられていますが、それが同時に霊的な敵対勢力に対する勝利でもあったことは、彼らがキリストによって救われてきたのは「空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていた」状態からであったことからも分かります(2章2節)。十字架が敵に対する勝利であったことは、コロサイ書でさらに明確に書かれています:

13あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、 14 いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。 15 神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。(コロサイ2章13-15節)

そして、この勝利の後、神は教会というご自分の神殿を建てられました。だから教会はいわば地上における神の勝利の祈念碑だと言えます。ただし、ここでは神殿が神の民の集う場所としてではなく、神の民そのものとして表され、そこに神が住まうとされます。このように神殿として集められた神の民は神を礼拝します。それはある意味で、神がキリストによって主権や力に勝利されたことを祝う祝祭です。神が神殿を造られるのは、敵に勝利するという仕事を終えて休むためではなく、ここから万物を統治するという本当の仕事が始まるのです。そしてクリスチャンが御国を受け継ぐということは、そのような神のご支配に参加させていただくということです。ですから黙示録には新しいエルサレムに住む聖徒たちについて、「彼らは世々限りなく支配する。」(22章5節)と書かれています。

このように、キリストの十字架と復活、そして教会の誕生という救済史における一連の流れは、敵対勢力に対する神の勝利という霊的戦いの背景を考える時に初めて良く理解することができます。それと同時に忘れてはならないのは、神がどのようにしてこれらの敵に勝利されたか、ということです。先ほどのゴンビスは、それはイエス・キリストの十字架の死という、最も勝利とは遠いと思われるような出来事を通してであったと言います。つまり、神の勝利は弱さと自己犠牲的な愛と死という、この世が考える軍事的勝利とは正反対のできごとを通して表されるのです。このことは聖書が教える霊的戦いを考える上で大変重要だと思われます。クリスチャンが霊的戦いを考える時、この世的な「戦い」「戦争」のイメージや価値観で戦うことがないように充分に注意しなければなりません。拙著『平和の神の勝利』の中に「愛による戦い」という短い章がありますが、そこではクリスチャンが愛し合って一致していくことが最大の霊的戦いであると書きました。私たちは十字架を魔除けのように使うのではなくて、十字架を背負い、イエスに倣ってその後についていく時、初めて本当の意味で敵に勝利することができるのです。

(続く)

「主の祈り」を祈る(3)

(シリーズ過去記事  

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

今回から「主の祈り」の内容を細かく見ていきたいと思います。

「天にまします・・・」

まず、この祈りは神に対する呼びかけから始まります。日本ではクリスチャンでなくても、「旅の無事を祈ります」「成功を祈ります」など、「祈る」という表現はよく使われます。けれどもそれらの人々が誰に対して祈っているのかは明らかでない場合が多いです。おそらく多くの人々が「祈る」という時、それは特定の神仏に対して祈願しているというよりは、「~であってほしい」という漠然とした願望を表しているように思います。けれども、ユダヤ教の厳格な一神教信仰に生きていたイエスと弟子たちの文脈にあっては、祈りを捧げる対象は唯一の生ける神以外にはありえませんでした。しかし問題は、その神がどのようなお方であるという理解のもとに祈っているか、ということです。これは私たちが主の祈りを祈るときにも意識すべき重要な問題です。

まず、この神は「天」におられる神です。ここで言う「天」は必ずしも物理的な空間をさすわけではなく、第一義的には「神のおられるところ」です。これに対して私たちが住むこの世界を「地」といいます。過去記事で触れたように、N・T・ライトによると、聖書の世界観はこの天と地が部分的に重なり合い、かみ合う世界観であるといいます。特定の時と場所において、天と地が出会い、神と人とが出会うことができる―祈りとはまさにそのような「場」の一つと言えるでしょう。

さて、1世紀のユダヤ人たちは基本的に次のような世界観を持っていました。

AncientHebrewCosmology

古代ヘブライ人の宇宙像(© 2012 Logos Bible Software)

この宇宙像では、基本的に世界は「天」「地」「地下(よみ)」からなる三層構造で捉えられていました。当時のユダヤ人は、「空」は地の上をおおう固いドーム状の物質で、神はその上に住んでおられると考えていました。したがって、神のおられる場としての「天」は基本的には物理的空間としての「天」と重なってイメージされていたと考えられます。ただし、この神は上空の天に常にとどまっている存在ではなく、頻繁に地上の世界のできごとに介入し、人々とやりとりをし、みこころを行われる存在として描かれています。そのような、地上における神の臨在と働きをライトは「天と地が重なる」と表現しているのだと思います。ライトが終末において「天と地が一つになる」という時に意味しているのは、神の臨在と支配が天においてだけでなく地においても完全にあらわされ、神が「すべてにおいてすべてとなられる」(1コリント15章28節)ということだと理解できます。

ところが問題は、このような古代ヘブライ人の宇宙像は、現代の私たちにとってはまったくなじみのないものであるということです。私たちは、空は固いドームのような物質ではなく、地球の周囲には果てしない宇宙空間が広がっていることを知っています。そのような宇宙像においては、「天」を単純に「空の上」と考えることはできません。日本における「上方」とイスラエルにおける「上方」はことなりますし、宇宙空間を何億光年突き進んでも、神にたどり着けるとは思えません。このような現代の宇宙像において、神はどこにおられると考えたらよいのでしょうか?

一つの方法として、私たちは「天」はSFやファンタジー小説に登場するパラレルワールドや異次元世界のように、この地球と隣り合わせに存在し、目には見えないけれどもすぐそこにある世界と考えることができるかもしれません。C・S・ルイスのナルニア国はまさにそのような世界として描かれています。科学的宇宙像を持った現代人が、どのように聖書的な神のすみかとしての「天」をイメージできるかについては、たとえばPaula GooderがWhere on Earth Is Heaven?という小冊子にコンパクトにまとめています。

それでは、現代の私たちはどのようにして「天におられる神」に祈ることができるのでしょうか?それには2通りの方法があると思います。

第1は、聖書時代の人々が持っていた古代の宇宙像に入り込んで、その世界観のレンズを通して「天」をイメージして祈るということです。この方法では、私たちは文字通り自分たちの上方のどこかに「天」という領域があり、そこに神がおられることを想像します。私たちが祈る時、天に窓が開かれて、天におられる神の御前に私たちの祈りが香の煙のように立ち上っていくことをイメージすることができます。

第2の方法は、「天」に関する聖書の言語表現を、現代の私たちの科学的宇宙像に適合するように「翻訳」して、その理解にそって祈ることです。例えば上記のようなパラレルワールドとしての天をイメージし、私たちの世界のすぐとなりに存在する見えない世界におられる神に向かって祈ることができます。

私は現代のクリスチャンはどちらの方法で祈っても良いと考えていますが、個人的には最初の方法で祈る方が好みです。これはもちろん、「現代科学に基づく宇宙像が間違っていて、古代ヘブライ人の世界観が正しいのだ」と信じこむことではありません。しかし、私たちは聖書を読む時に、そのナラティヴが創り出す物語世界をイメージし、その中に入り込んで、そこで起こるできごとを追体験し、その中で語られるメッセージを受け取ることができます。実はこれが、ナラティヴ一般の正しい読み方でもあると思います。私たちはルイスの「ナルニア国」やトールキンの「中つ国」が実在する場所でないことを知っていますが、それがあたかも実在する場所である「かのように」、想像力(イマジネーション)を用いてその中に入り込むことなしには、それらのナラティヴを本当に味わうことはできません。祈りにおいてもそのような想像力は大変重要であると思います。けれども、どうしても現代の科学的宇宙像を離れては神をイメージできないという人は、第2の方法で祈ることもできるでしょう。

いずれにしても、「天は本当はどこにあるのか」ということよりもっと重要なのは、「天と地はどのように関わっているのか」ということだと思います。祈りは天におられる神に対して、地に住む者たちがささげるものです。天と地はことなる領域です。私たちは、いつでも神の存在を身近に感じられるわけでも、神の意思が私たちの周囲でいつも実現しているわけでもないことを知っています。にもかかわらず、私たちが祈る時、天と地が重なり合い、天に通じる窓が開かれるのです。

(続く)

 

N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(6)

(シリーズ過去記事     

今回は第3部「イメージを反映させる」を概観したいと思います。この部分で著者ライトは、第2部で提示したようなキリスト教信仰の要点に基づいて、今日の私たちがクリスチャンとして生きるとはどういうことなのかについて語っていきます。

すでに見たように、第2部でライトはクリスチャンの世界観と、クリスチャンが語る物語(救済史)を提示しました。世界観はいわば舞台設定であり、救済史はその舞台上で展開していく神のドラマであると考えられます。しかし、聖書の物語は紀元1世紀の初代教会の物語で終わる、単なる過去の歴史物語ではありません。聖書の物語は今も継続中であり、私たちはその現在進行中の物語に参加するように招かれているのです。

つまり、現代の私たちがクリスチャンとして生きると言うことは、天と地が部分的に重なり合うダイナミックな世界観を持ち、その天地が最終的に合一する終末のビジョンを意識しつつ、聖書の物語を継続するようなかたちで生きるということなのです。

具体的に言うとそれは、教会という共同体、神の民に属する者として生きるということです。ライトによると、教会の目的は、神を礼拝することと、この世にあって神の王国のために働くことであり、そのために互いに交わりを持つことでもあります(15章)。

まず、教会は神を礼拝する民です(11章)。そこでは、神による創造と救いの物語として聖書が読まれ、イエスとその死の物語の告知として聖餐式が行われます。ライトによれば、礼拝もまた、天と地が出会う契機の一つなのです。また、教会は祈る民でもあります(12章)。特に主の祈りは、キリスト教が何であるかを端的に表す祈りとして重視されます。主の祈りは天と地の間を生きるイエスの生き方にならうという意思表明です。そしてクリスチャンの祈りとは、天と地の狭間に立って、その二つが永続的に重ねられることを求めてうめくことでもあります。

ライトは教会の中心的目的は個人の霊的成長でも究極的救いでもなく、「宣教(ミッション)」であると言います。教会は福音を宣べ伝える共同体なのです。では「福音」とは何でしょうか? ライトによると、これは神がイエスの死と復活においてご自分の王国を開始されたという、すでに起こったことに関する「良い知らせ」を意味します(290-291ページ)。そのメッセージに対して、信仰と悔い改めをもって応答する人々は、神が全世界を正そうとするプロジェクトの先駆けとして「義とされる(正される)」―─これがパウロの言う「信仰義認」の意味であると、ライトは言います(295ページ)。バプテスマを受けて教会に加わるとは、神の創造から新しい創造に至り、イエスの死と復活が中心であるような神の物語の中に参加し、神のプロジェクトの一部となることなのです(303ページ)。

聖書の物語はどのような結末を迎えるのでしょうか? それは、これまで断続的かつ部分的にしか重なってこなかった天と地が最終的に完全に重なり合い、神の栄光がすべてをおおいつくすことです(16章)。ライトによると、「死後天国に行く」ということは、聖書の物語の結末ではありません。聖書の物語の結末は、私たちが肉体を脱ぎ捨てて天にある霊的楽園に昇っていくことではなく、新しいエルサレムが地上に降りてきて、神が、肉体をもって復活した人々と共に住まわれることです(黙示録21章1節以下)。「復活」とは、人が死んでキリストともに過ごした後(いわゆる「死後のいのち」)、新しい肉体をもってよみがえることであり、ライトはそれを「死後のいのちの後のいのち」と呼んでいます(306ページ)。そしてこの復活への信仰こそがキリスト教の終末的希望の中心であるといいます。聖書の物語の結末では、この物質的世界は見捨てられるのではなく造り直され、復活した人々は新しい被造物世界に住んで神と共にそこを治めることになります。これこそ、聖書の物語が指し示すクリスチャンの救いのビジョンなのです。

このようなキリスト教の希望は、第1部でライトが取り上げた4つの「声の響き」、すなわち義への希求、霊的なことがらへの渇望、人間関係への飢え、美における歓びという、人間の基本的な求めに応えるものであると言います(16章)。神は世界に義をもたらそうとしており、教会はイエス・キリストの福音と聖霊の力によって、その義の実現のために地上で働くように召されています。またイエスに見られるような神と人との関わりに生きる生き方に進むように召され、新しい創造の美を先取りして祝うように召されているのです。

クリスチャンは、このような終末の希望を抱きつつ、今を生きています。クリスチャンであるとは、「私たちの前に開かれた新しい世界、神の新しい世界のただ中を、イエス・キリストに従って歩んでいく」ことなのです(334ページ)。

(続く)

N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(4)

その1 その2 その3

前回に引き続いて、第2部「太陽を見つめる」を見ていきます。前回とりあげた第5章では、ライトはキリスト教の世界観を提示しました。すなわち、神がおられる場としての「天」と、人間が住む場としての「地」は、完全に一致しているわけでも完全に分離しているわけでもなく、部分的に重なり合い、かみ合っている関係でとらえられています。

第6章から第10章まで、いよいよライトはキリスト教が提示する物語(ストーリー)とはどのようなものかを語り始めます。第5章で彼が世界観について語ったのは、いわばその物語のための舞台を設定する作業だったと言って良いと思います。

キリスト教のメッセージとは何かということについて、ライトは第5章の冒頭で次のように語っています。

クリスチャンは、神と世界についての真実の物語(ストーリー)を語っていると主張する。(81頁)

ここで彼が使っている「物語(ストーリー)」ということばに注目する必要があります。ライトはキリスト教のメッセージとは、抽象的な教理の体系ではなく、なによりも一つの物語であると主張しているのです。

キリスト教のメッセージの中心的な資料は言うまでもなく聖書です。では聖書とはどのような本なのでしょうか?多くの人々は、聖書とは人がいかに生きるべきかのマニュアル、救われるために何をすべきで何をしてはいけないかが書かれているルールブック、または、神についてのさまざまな情報が述べられている百科事典のようなものであると考えています。聖書にそのような側面がないわけではありませんが、それらは聖書の本質をとらえた理解ではありません。実際に聖書を手に取ってみれば一目瞭然ですが、聖書はマニュアルやルールブックや百科事典のように、主題別に系統立てて整理されて書かれている書物ではありません。時にはそのように読める部分もありますが、それらはさらに大きな全体の一部に過ぎないのです。

聖書を全体としてとらえたとき、最も適切な理解は、それを一つの長い物語(ストーリー)として読むことです。旧新約聖書66巻からなる正典聖書は全体としてみれば、宇宙と人類の創造に始まり、人類の救済と宇宙の再創造に至る、一つの壮大な物語であると言うことができます。

(先に進む前に一言ことわっておきますが、ライトが聖書について「物語」や「ストーリー」と言う時、それは必ずしも「作り話」「フィクション」という意味ではありません。聖書学ではそのような誤解を避けるために「ナラティヴ」という用語を使うこともあります。)

西洋のキリスト教において、聖書はしばしば神や世界、人間についての命題(「神は愛である」「すべての人は罪人である」等々)を含む書物であり、神学の任務は聖書のあちこちに断片的に含まれるそのような命題を抽出して、聖書以外の情報源(人間の体験や理性や伝統など)も加味しながら体系的に整理しなおすことであると考えられてきました。そのような営みを「組織神学」といいます。

組織神学は、キリスト教の信仰内容を秩序だって提示するにはたいへん有益ですが、一つの問題が生じます。つまり、組織神学においては、神のことばである聖書は、命題的真理を抽出するための単なる素材に過ぎなくなってしまうということです。神学者の務めは、聖書という鉱床から様々な神についての命題という原石を掘り出し、磨き上げ、種類ごとに整理して陳列することであって、ひとたび見事な宝石のコレクションが完成したら、もはや元の鉱床が顧みられることはありません。同様に、もし神学者たちが聖書に含まれるあらゆる命題的真理を正確に抽出し、緻密な体系に組み立てていくことによって、「完璧な組織神学書」が書かれることができた暁には、もとの聖書そのものは、果汁を絞り尽くされた後のオレンジの皮のように、用済みになってしまうのでしょうか?

もちろん、実際にそのようなことが口に出されることはありません。神のことばとしての聖書には、(少なくとも形式的には)今も昔も十分な敬意が払われ、尊重されています。けれども実質的には、聖書は神についての命題的真理という宝物が豊富にしかしランダムに詰め込まれた宝物庫のようにみなされていることが多いように思います。これは神学者だけの話ではありません。多くのクリスチャンが「デボーション」と称して日々聖書を読んでいます。しかし、しばしばそこで読まれる断片的な聖句は聖書全体の大きなストーリーラインの中で理解されるのではなく、その日の箇所からいかに貴重な「霊的教訓」を得ることができるかということに関心が寄せられています。そのような聖書理解は、多くの場合オリジナルの文脈から切り離された解釈で、聖書記者の意図とはかけ離れたものであるばかりでなく、そもそもそのような「教訓」を適用すべき自分たちが、歴史における神のご計画の中でどのような位置にあるのかも顧みられずになされることが多いため、かなり偏った主観的な解釈と適用に終わってしまうことが少なくありません。

組織神学がまったく無用の長物だというつもりは毛頭ありません。しかし、長らく西洋のキリスト教では聖書の命題的側面がナラティヴ的側面に対して過度に重視されてきたことは事実です(恐らくこれと関連して、新約聖書学において、福音書がパウロ書簡に比べて相対的に軽視されがちな傾向もあったと思います)。これに対して、20世紀になって聖書のナラティヴ的側面を重視しようとする流れが起こってきました。ライトもその流れの中にあると考えることができます。

物語は要約してしまうとその魅力やインパクトを失ってしまいます。言い換えると、ナラティヴは単なる命題の集合に還元することはできないのです。ナラティヴを本当に理解するためには、その全体を読み、味わい、その物語世界に入り込んでいって、一連の出来事を追体験していくことが必要になってきます。そして、ライトによると、これこそがまさに聖書の正しい読み方なのです。クリスチャンは聖書を物語として読み、聖書に描かれている神の物語を語り告げる民なのです。その物語とは、神がいかにして人類と被造物世界の救いを達成されるかという救いの歴史、「救済史」にほかなりません。

このように、本書において、ライトは前回見たような天と地が部分的に重なりあう世界観を縦糸に、救済史を横糸にして、キリスト教とは何かを描き出していきます。次回は、ライトが描く聖書の救済史について具体的に見て行きたいと思います。

(続く)

 

 

N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(3)

その1 その2

今回は第2部、特にその中の第5章「神」について見ていきます。

第二部 太陽を見つめる
第5章 神
第6章 イスラエル
第7章 イエス―神の王国の到来
第8章 イエス―救出と刷新
第9章 神のいのちの息
第10章 御霊によって生きる

第1部でライトは、人間の持つ4種類の渇望について記し、それらがこの世界を越えたもう一つの世界、またそこから語りかけている存在(=神)を指し示していることを論じました。第2部ではこれを受けて、ではその「もうひとつの世界」あるいは「神」はどのようなものなのかについて、キリスト教が語る物語を紹介していきます。

第2部の冒頭に置かれた第5章は世界観の問題を扱った章で、本書の中でもきわめて重要な位置を占めている部分です。ここでライトは、神(と神のいる世界)が、私たちの世界とどのように関わっているのかについて、キリスト教がどのようなモデルを提供しているかを説明しますが、この部分はクリスチャンである読者の多くにとっても示唆に富むものであると思います。

まずライトは、そもそも「神」について考えるとはどういうことか、ということから説き起こします。

神についての大論争、すなわち神の存在、神の性質、この世界でなされる神のわざについての多くの論争は、太陽が輝いているのにそれを確かめようと、空に灯りをかざすような愚かな行為である。同じように簡単に陥りがちな過ちは、神がいるとしても、まるで私たちの世界にある独立した実在、あるいは音楽や数学のように、努力して学べば神に近づけると思って語ったり考えたりすることである。そして、この世界にある物体や存在を扱うのと同じテクニックで扱えるかのように思うことである。(中略)クリスチャンの立場から言えば、神について語るのは難しい。なぜならそれは、太陽を見つめるようなものだからだ。目がくらむ。それよりもっと簡単なことがある。太陽から目をそらし、陽が昇ったことですべてが明るく照らし出されている事実を楽しむことである。(82-83頁)

ここでライトが言おうとしていることは、神はもともとこの世界の中に存在しているお方ではないということです。宇宙空間をどこまで突き進んでいっても、決して神を見出すことはできません。人間が神を見出すことができるのは、神がご自身のいる世界から「こちら側」に現れるときにのみ、可能になります。つまり、神の世界と私たちの世界という二つの異なる世界が存在することになります。聖書では前者を「天」、後者を「地」と呼びます。もちろん、ヘブル語やギリシア語でも「天」という言葉は空間的な場所としての「空」を意味することもありましたが、それとともに「神の住処」としての重要な用法があります。そしてこの「天」は、一般に考えられている「天国」すなわち死者の魂が最終的に憩う場所、ということではなく、今現在神がおられる(この物質世界とは異なる)「場」なのです。そこで問題になるのが、そのような神の場としての「天」と人間の場としての「地」はどのように関わり合っているのか、ということです。ここでライトは世界観についての3つの選択肢を提供し、比較検討していきます。

選択肢1:神の場と私たちの場は重なりあって一体となっている

このタイプの世界観では、神の場と私たちの場は渾然一体となっています。神は世界のあらゆるところに存在し、世界そのものが神であるか(汎神論)、あるいは世界のすべてが神の中に含まれます(汎内在神論)。すべてのものに、そして自分の内面に神性を見出すことができるという考えは現代も人気がありますが、ライトによるとこの世界観の欠点は、悪の問題を扱うことができないということです。全てが神であるなら、なにか悪いことが起こった時に、一体どこに訴えたら良いのでしょうか?

選択肢2:神の場と私たちの場は明確に分けられている

2番目のタイプの世界観では、神(々)と人間とは互いにかけ離れており、無関係に生活しているとされます。神(々)は存在するとしても、地上の出来事には関心もなければ干渉することもないというのです。これは古代のエピクロス派の哲学や近代の理神論に見られる考えで、神を信じると言う現代人の多くもこのような世界観を持っているとライトは指摘しています。ライトは、この世界観の問題点は、彼が第1部で取り上げたような、この世界を越えた世界を指し示す「声」に耳をふさがなければならないことであると言います。恐らくライトが言いたいことは、このような世界観を持つ人々にとって、この世界を越えた神の世界への渇望を意識することは、(それが決して満たされることのないことを知っているがゆえに)耐えがたい苦痛をもたらすことになる、ということなのでしょう。つまり、ここでも悪の問題がその醜悪な顔をのぞかせていることが分かります。たとえ神々がいたとしても、彼らは地上に満ちている問題の解決には何の助けにもならないのです。

選択肢3:神の場と私たちの場は重なりあい、かみ合っている

最後のタイプの世界観は、古典的ユダヤ教とキリスト教に見られるものです。

天と地は完全に一体として重なり合ってはいない。しかし、その間に大きな溝があって隔てられているのでもない。その代わり、いろいろ異なった仕方で重なり合い、かみ合っている。(92頁)

これは1番目と2番目の世界観の中間にあるものと言えますが、それらのように白黒はっきりしたものではなく、複雑な様相を呈していますが、これこそがライトが本書で提唱していく世界観なのです。この世界観によると、神は天におられ、人間は地にいます。けれども、天と地は特定の時と場所において重なり合い、神が人と出会うことができるというのです。それは、聖書にしばしば登場する神顕現の記事(たとえば神が燃える柴においてモーセに現れたできごと)に見ることができますし、旧約聖書において天と地が重なる典型的な場所はエルサレムにある神殿でした。

さて、ライトによると、この(聖書的)世界観の利点は、悪の問題を適切に取り扱う(少なくとも真剣に受け止める)ことができることです。なぜ聖書の神はこれほどまでに地上の世界に積極的に関わり続けるのでしょうか?それは、ご自分が創造した世界に対する愛のゆえであるといいます。第1部で取り上げられた様々な「声の響き」は、世界と人間に対して語りかける神のラブコールにほかならないことが分かります。ライトによると、この神は「愛する被造物が堕落し、反抗し、その結果苦しみに陥っている事実を大変深刻に受け止めている」神です(96頁)。そして、神は事態を打開するために、行動を起こします。それが聖書に描かれている救いの物語(ストーリー)、イスラエルに始まり、ナザレのイエスにおいて一つのクライマックスに達し、終末において天と地が一つになることによって完結する物語なのです。

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上にも述べたように、第5章は世界観について論じた章で、本書全体読み解く上でも中心的な重要性を持っています。クリスチャンであっても、ライトが提示する「キリスト教の(つまり聖書的な)世界観」に対して新鮮な驚き、あるいはむしろショックを覚える人がいるかもしれません。つまり、クリスチャンであるからといって自動的にある特定の世界観を持つようになるわけではない、ということです。

本書では特にライトは「選択肢2」の理神論的世界観に基づくキリスト教理解に厳しい批判の矢を向けています。

クリスチャンの信仰について広く普及している誤った理解の多くは、この点を既存の理神論の枠に当てはめて理解しようとするところからくる。理神論的キリスト教を次のように示すことができる。遠くかけ離れたところにいる厳格な神が、ある日、唐突に何ごとかを決断する。そして神がご自身の子をこの世界に遣わしたのは、彼を通してどのように私たちがこの世界から逃れ、神と一緒に住むことができるかを教えるためだった。そしてさらに、神ご自身の不可解で気まぐれな要求を満足させるため、残酷な運命をその子に課して断罪した、と。(96-97頁)

あるクリスチャンにとっては、このような批判は不当なカリカチュアに思えるかも知れません。けれども、理神論的な世界観が近代西洋のキリスト教、そしてその影響を受けた日本を含む非西洋世界のキリスト教に大きな影響力を及ぼしてきたことは確かであると思われます。そのような世界観を持つクリスチャンにとって神は普段の生活には何も影響をもたらさず、神を信じることの意義といえば、せいぜい死んだ後に天国に行くことができる、というだけのことです。したがって、そのような人々の生活態度は非キリスト教徒のそれと実質的にほとんど変わらないものになってしまっているのです。

米国の宣教学者・人類学者ポール・ヒーバートはこのような状態を「排除された中間領域の欠陥The Flaw of the Excluded Middle)」と呼んで批判しました。簡単に言うと、近代西洋キリスト教の世界観では、神が支配する超自然的な領域と、自然法則が支配する領域とが切り離されてしまい、両者が相互作用する中間の領域が欠落してしまっているということです。(余談ですが、2007年に亡くなったヒーバート教授は私の母校であるトリニティ福音主義神学校で長年教鞭を取っておられ、私の留学時にはまだ存命中でした。私は先生のクラスを取る機会はありませんでしたが、キャンパス近くの同じ教会に通っていました。)

またこれとは反対に、「選択肢1」の汎神論的世界観の影響を受けたキリスト教の危険もありうると思います。そこでは、神が私たちの地上での生活に積極的に関わっておられることが強調されます。それは時には超自然的な病のいやしや悪霊からの解放といったことがらも含みますが、より「自然な」関与もあるでしょう。このような地上の人間生活への神の関与は確かに聖書に書かれていることであり、ライトが提唱する「天と地が重なりあう」世界観とも適合します。これが「選択肢3」の世界観と異なるところは、目の前の地上的な問題の解決に過大な重要性を付与するあまり、それがクリスチャン生活の主要な関心事になってしまい、やがて天と地が一つになり、神がこの世界そのものを贖われるという終末的な視点が希薄になってしまうことです。同時に、現時点においては天と地は完全に重なっているわけではないという、「いまだ」と「すでに」の終末論的緊張関係が解消されてしまい、すべての問題が「いま、ここで」解決されるべきだと思い込んでしまう危険性もあります。

ライトが主張しているのは、「天と地が重なり合い、かみ合う」世界観を採用するならば、このような両極端の誤りを避けることができ、聖書のストーリーが意味をなすものとして理解できるということです。

(続く)