ピーター・エンズ著『確実性の罪』を読む(7)

その1 その2 その3 その4 その5 その6

これまで、『確実性の罪(The Sin of Certainty)』に基づいて、聖書的な信仰のあり方について探求してきました。著者のエンズによると、聖書が証しする信仰とは、神についての正しい思考にこだわるものではなく、不確実性の中でも神に信頼するということでした。なぜこのことが大切なのでしょうか?それは、私たちの神についての確信が揺るがされるようなできごとが人生にはしばしば起こるからです。エンズはそのようなできごとを否定したり避けたりしようとするのではなく、むしろそれらが語りかける内容に耳を傾けることをすすめます。

エンズは第6章で、2013年の夏に自身が運営するブログ上で行なったアンケート調査について書いています。彼はブログの読者に次のような質問を投げかけました:

あなたがクリスチャンであり続けることの最大の障害となっているものを一つ二つ挙げてください。あなたが繰り返しぶつかる障害物は何ですか?そもそもなぜ信仰を持ち続けているのかと疑問に思うような、あなたにつきまとって離れない問題とは何ですか?

これらの質問に対して、エンズは数多くの率直な(しばしば匿名の)回答を受け取りました。それらは、大きく分けて次の5つのカテゴリに分けられるものだったと言います: 続きを読む

N.T.ライト『新約聖書と神の民』について(山口希生氏ゲスト投稿 その2)

その1

山口希生さんによるゲスト投稿の2回目をお送りします。お忙しい中、寄稿してくださった山口さんに心より感謝します。

4月には山口さんを講師として『新約聖書と神の民』出版記念講演会も行われるとのことです(詳細はこちらこちらをご覧ください)。日本でのライトをめぐる議論がさらに活性化する、素晴らしい機会になると思います。

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『新約聖書と神の民』原書
The New Testament and the People of God

第二回

ユダヤ・キリスト教の創造主信仰

ユダヤ教とキリスト教が共有する根源的な信仰とは、この物質世界は善なる神の創られた世界であり、元来は非常に「良い」世界だったという信仰です。創造主である神への信仰ということです。この創造主信仰と対立するのは、物質的世界を劣ったもの、一時的なものと見なすプラトン主義、この世界が劣った神によって創造されたという「グノーシス主義」、さらにはサタンによって創造されたという「カタリ派」などの一群の宗教的思想です。これらの宗教思想は現世を悪い世として悲観的に見て、この世の人生の喜びを否定し、極端な禁欲主義を推奨します。キリスト教においても「この世との分離」が強調される面がありますので、一見するとグノーシス的禁欲主義もキリスト教的だと理解される場合があります。しかし、その根底にある世界観は全く正反対であると言えます。キリスト教が掲げるビジョンとは、この世の消滅ではなく刷新だからです。 続きを読む

N.T.ライト『新約聖書と神の民』について(山口希生氏ゲスト投稿 その1)

今回は新しいゲスト投稿者をお迎えします。N. T. ライト教授の指導の下で昨年セントアンドリュース大学から博士号を授与された山口希生(のりお)さんです。山口さんは最近新教出版社から日本語版(上巻)が出版されたライトの主著『新約聖書と神の民』の翻訳者であられます。同書について2回にわたって投稿をいただく予定です。

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『新約聖書と神の民』(上)

第一回

新約聖書の権威

この度邦訳出版されたN.T.ライトの「新約聖書と神の民」はずばり「新約聖書」についての本です。この比類のない書をどう読むべきか、特に神の民としての現代の教会がそれをどう読むべきかということが本書で問われています。新約聖書は教会にとって最も大切な書ですが、その「権威」は近代以降、常に挑戦を受けてきました。啓蒙主義が隆盛してゆく中で、まず新約聖書の記述の史実性、特に奇跡についての記述が疑問視されました。また、人々が抱く多様な価値観を等しく認めようというポストモダンの時代が到来すると、新約聖書の提示する倫理の規範性そのものが批判の対象となりました。このような現状を踏まえつつ、ライトは新約聖書の持つ「権威」を高く掲げます。しかしライトはその権威を学校の校則のようなルールとして捉えているわけではありません。端的に言えば、新約聖書の権威はストーリーの中にある、とライトは主張します。新約聖書全体が物語るストーリーは、私たちが世界をどのように理解し、その世界の中でどう行動すべきかを教え導いてくれる、そういう権威あるストーリーなのです。 続きを読む

もう一つの座標系

ひとつ前の記事「アドベント―夜明けを待ち望む」で教会暦について書きましたが、「ミルトスの木かげで」のブログではちこさんが教会暦を用いたカレンダーを紹介し、その説明文を引用しておられました。

一般のカレンダーは、ローマ帝国に起源があります。ローマ帝国では、役人たちが一月一日に就任するのです。それとは異なる教会暦カレンダーのフォーマットは、私たちは神の時間の中に生きる、神の国の民であることを日々思い起こさせてくれます。

はちこさんのブログ記事のタイトルは「Happy Christian New Year!」です。つまり、クリスチャンにとっては1月1日ではなくアドベントの始まりが新年なのだということです。そこに表現されている、この世の時間とは異なる「神の時間の中に生きる」感覚はとても大切だと思わされました。クリスチャンは「天に国籍を持つ」存在であり(ピリピ3章20節)、この世と異なる世界観・時空観を持って生きるべき存在です。そのことヨハネの黙示録から見てみたいと思います。

ヨハネが生きていた当時のローマ帝国では、世界は皇帝によって定義されていました。世界の中心は皇帝の住む首都ローマであり、皇帝の家系はギリシア・ローマ神話の神々と結び付けて描かれることによって、世界の始まりと関係づけられていました。そして初代皇帝であるアウグストゥスの到来が人類史の黄金時代の幕開けであると考えられて(宣伝されて)いたのです。つまり、ローマのイデオロギーにおける世界は、首都を中心とした空間軸と、神話的起源からアウグストゥスの到来に至る時間軸によってとらえられていたのです。このような「座標系」は、人々にある特定のしかたで時間と空間を経験し、特定の物語(ナラティヴ)を生きることを要求し、したがって彼らに特定のアイデンティティを与えます。

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アウグストゥス(Photo by Alexander Z.

ところがヨハネが神から受け取った啓示は、これとはまったく異なる時空観を持っていました。彼が見せられた幻では、世界の中心は天にある神の御座でした(4-5章)。この王座から神はすべてを支配しておられるのです。

そして、黙示録における時間は、歴史における三つの重要なポイントによって枠付けられています。最初のポイントは歴史の起点である世界の創造です。このことは黙示録における神が万物の創造者として描かれていることから分かります。

「われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」。(4章11節)

神による創造によって始まった世界の歴史は、二つの出来事によって新しい段階を迎えます。このことをヨハネは「新しい」(ギリシア語kainos)という形容詞を用いて表現しています。ひとつ目は、小羊キリストによる救済のみわざです。ヨハネの見た天の御座の幻では、5章で小羊キリストが登場し、天使たちがその十字架のあがないをたたえます。

彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」。 (5章9-10節)

ここで彼らが歌っているのが「新しい歌」と呼ばれているのは、キリストの救済のわざによって、人類の歴史が新しい段階に入ったことを示しています。

けれども、ヨハネの幻の中ではさらに「新しい」できごとが起こります。それは終末における再創造のわざです。

わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。(21章1-2節)

つまり、黙示録における時間軸は創造からキリストによる救済を経て新創造へと至るものであることが分かります。上の引用箇所では、宇宙の中心である神の御座が新しいエルサレムという形で天から地上へとシフトしてくるダイナミックな動きを見ることができますが、空間的中心は礼拝の対象たる神と小羊であることは変わりません。

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黙示録の世界観

世界の中心は皇帝のいるローマではなく神と小羊の御座であり、新しい時代の始まりは皇帝の到来ではなくイエスの到来でしるされ、それは来るべき新天新地の希望へとつながっていく・・・。これが黙示録の提示している空間軸と時間軸です。ヨハネが提供しているのは、私たちが生きるべき新しい「座標系」、新しい物語、新しいアイデンティティです。

キリスト教信仰とは、この世から隔絶した別世界(「天国」)を夢想する思想ではありません。そうではなく、この現実世界に対するもう一つの見方、世界観を提供するものです。クリスチャンはイエスの到来を起点とする「新しい暦」に従って生き、イエスが来られたことを祝う「新しい歌」を歌い、つねに宇宙の中心である神と小羊の御座を見つめながら生きる存在です。それはこの世から逃れて生きることではなく、この世にありながらこの世とは別の座標系を持って同じ現実を見つめ、そこに新しい意義を見出して生きていくことだと思います。

なお、聖書のクリスマス物語とローマ帝国の関係については、昨年書いたこの記事をご覧ください。

アドベント―夜明けを待ち望む

今日から教会暦ではアドベント(待降節)に入りました。これはクリスマスに先立つ4つ前の日曜日から始まる約4週間の期間を指しますが、西方教会(カトリック・プロテスタント)の暦はアドベントから始まりますので、これらの教会にとっては今日から新しい年を迎えるということになります。

アドベントという言葉はラテン語で「到来」を意味するadventusという言葉から来ています。これはもちろんイエス・キリストの到来を意味していますが、それには二つの意味があります。

まず第一に、この期間は約二千年前にキリストが人となって降誕されたできごとを覚え、それを待ち望む期間です。これはすでに起こったキリスト降誕のできごとを覚え、救い主を待望する神の民イスラエルの祈りに心を合わせる期間ということができるでしょう。

けれども、アドベントの意味は、たとえば日本でいう「もういくつ寝るとお正月」のように、ただクリスマスの祝日を待ち望む準備期間というだけではありません。ここで待ち望まれる「到来」は二千年前のキリストの到来を意味しているだけでなく、やがて将来起こる2度目の到来、再臨を待ち望むという意味合いもあります。地上での歩みを終えたイエスは復活後天に挙げられましたが、やがてこの地上に帰ってくることが約束されています(使徒1章9-11節)。その時キリストは神の国を完成し、王として統べ治められるのです(1コリント15章23-28節)。つまり、アドベントには過去と未来に二回にわたって行われるキリストの到来を待ち望むという、二重の意味があるのです。

このように、救いの歴史においてキリストは二度来られるわけですが、このことを聖書は美しいイメージで表現しています。

「わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」。(黙示録22章16節)

ヨハネが見た終末についての幻(4章1節「これから後に起るべきこと」)は22章5節までで終わっており、16節の時点でヨハネは彼にとっての現在(紀元1世紀末)に帰ってきていますので、ここで語られている明けの明星としてのイエスは再臨のイエスではなく初臨のイエスを指していることが分かります。

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明けの明星とは金星のことで、日の出に先立って東の空にひときわ明るく輝く星です。この星が昇ると、夜明けが近いことが分かります。同様に、イエスが二千年前に来られたと言うことは、神の救いのドラマが最終段階に入り、神の国の完成がすぐそこまで来ていることを表しています。新約聖書の記者たちは一様に、彼らが終わりの時代に生きていることを意識しており、神の国を完成するためにイエスが再び来られることを待ち望んでいました。パウロはまさに夜明けというイメージを使って、そのことを表現しています。

なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。(ローマ13章11-12節)

初臨のイエスが夜明けの近いことを告げる明けの明星であるなら、再臨のイエスはまさに昇る太陽そのものと言えるでしょう(ルカ1章78節、マラキ4章2節参照)。イエスが二千年前に来られたときには、その存在に気づいたのはごく一部の人々に限られていました。けれどもキリストが再び到来する時、その輝きは世界のすべてを照らし、すべてを明らかにし、新しい時代が始まるのです。

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私たちはキリストの初臨と再臨の間の時代に生きています。いわば、明けの明星が既に輝き、東の空が白み始めていく中、太陽が地平線から昇ってくるのを今か今かと待ち構えている、そういう時代を私たちは生きているのです。

教会にとって、一年が待ち望むことから始まる―これはクリスチャンとしてのアイデンティティの重要な側面を教えてくれると思います。待ち望むことはクリスチャン信仰の重要な特質を表しています。私たちは完成された存在ではありません。常に未完成であり、成長の過程にあり、旅の途上にある存在といえます。教会とは、終わりの時代にあって、キリストの到来、神の国の到来を待ち望む共同体にほかならないのです。

「待つ」ということは、いつも易しいわけではありません。この地上に満ちる悪や苦しみに直面したとき、私たちは旧約時代の神の民のように、「主よ、いつまでなのですか。」(詩篇13篇1節)とうめくこともあります。けれども、すでにキリストが一度来られ、再び来られる約束が与えられている新約時代の私たちは、花婿の到来を待ち望む花嫁の喜びを抱きつつ、 「しかり、わたしはすぐに来る」と言われるイエスに対して、「アァメン、主イエスよ、きたりませ。 」と確信を持って祈ることができるのです(黙示録22章20節)。

Veni, Veni, Emmanuel(讃美歌94番「久しく待ちにし」)

 

エペソ書とキリストの戦い(1)

所属教会のサンデースクールで何回かに分けてエペソ書の学びをしてきましたが、今日は最終回で6章を取り上げました。この章は「神の武具」「霊的戦い」で有名な箇所ですが、エペソ書で霊的戦いについて述べられているのはここだけではありません。この機会に、エペソ書における霊的戦いについてまとめてみました。

エペソ書6章のいわゆる「神の武具」の箇所(10-18節)は霊的戦いを教えている箇所として有名です。エペソ書で霊的戦いというとこの部分だけが突出して有名ですが、実は1章20-21節、2章2節、3章10節、4章27節などを見れば分かるように、霊的戦いはエペソ書全体を貫く大きなテーマであると言って良いと思います。

本書の全体をまとめるキーワードは「神の奥義」です。

8  神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟りとをわたしたちに賜わり、  9  御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。  10  それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。(エペソ1章8-10節)

奥義」と訳されているギリシア語ムステーリオンは英語のmysteryの語源にもなったことばで、「それ以前には知られていなかったが、時が来てある特定の人々に示される内容」のことです。ここでは神の「御旨の奥義」と書かれていますが、パウロが語っているのは、天地創造以来神が歴史を動かしてこられたその目的は何処にあるのか、と言う点について、終わりの時代に明らかにされた啓示の内容です。本書の全体はこの「奥義」の説明と適用であると言っても良いでしょう。

そして、その「奥義」の内容が10節に書かれています:「神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされた」。エペソ書では「天」と「地」という領域が大きな役割を果たしていますが、この二つの領域においてキリストのもとにすべてを一つにされることが、歴史に対する神の目的だということです。本書の内容にしたがってこのことを図示すると次のようになります:

エペソ書の世界観

1章でパウロは、神がキリストにおいてなされた救いの御業をこう表現します:

20  神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、  21  彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。(1章20-21節)

ここに出てくる「支配」「権威」等は単なる抽象的な概念ではなく、パウロにおいては人格を持った霊的存在を表しています。これらは天において神に敵対する霊的勢力なのです。復活し、神の右に挙げられたキリストは、これらすべての敵対勢力に対して優位に立たれたのです。神がキリストにおいて「天にあるもの」を一つに帰されるとは、このことを指しています。

それでは「地にあるもの」についてはどうでしょうか?2章では、神はキリストの十字架を通してユダヤ人と異邦人の間の隔ての壁を打ち壊し、キリストにあってすべての人を一つにする道を開かれた(15節「ひとりの新しい人」)ということが語られます。そして2章の後半ではパウロは教会を神殿にたとえています

20  またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。  21  このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、  22  そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。 (エペソ2章20-22節)

実はこの箇所は、上で見た、天における敵対勢力への勝利というテーマと結びついています。最近出たエペソ書の研究書によると、1:20-2:22までの内容は、古代世界における「神の戦いdivine warfare」のパターンに従っているといいます(Timothy Gombis, The Drama of Ephesians)。それによると、全地の王である神はまず出かけていって敵対する勢力を征服します。凱旋してきた神は勝利のしるしとして神殿を建設し、そこに住みます。そして神の民はその宮に集まって神を礼拝し、その支配を祝うというのです。このパターンは出エジプト記15章や黙示録19-20章にも見ることができます。また、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスがヒスパニアとガリアで大勝利を収めて凱旋する際、元老院はその勝利を記念して「平和の祭壇Ara Pacis Augustae」を築きました。

Ara Pacis

アウグストゥスの勝利を称える「平和の祭壇」

エペソ書においても、同様のパターンが見られます。パウロによると神は世界を創造された全能の神です。そしてこの神がすべての支配と権威の上に御子キリストを挙げられました。キリストの宇宙的主権は同時に神の王権の表現でもあります。神が実際にそのような世界の王であることはどうやって証明されるのでしょうか?それは支配や権威と言った敵対勢力に対して勝利を収められたことによります。それはキリストの十字架によってなされたのです。エペソ2章ではキリストの十字架はユダヤ人と異邦人の和解ということに焦点が当てられていますが、それが同時に霊的な敵対勢力に対する勝利でもあったことは、彼らがキリストによって救われてきたのは「空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていた」状態からであったことからも分かります(2章2節)。十字架が敵に対する勝利であったことは、コロサイ書でさらに明確に書かれています:

13あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、 14 いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。 15 神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。(コロサイ2章13-15節)

そして、この勝利の後、神は教会というご自分の神殿を建てられました。だから教会はいわば地上における神の勝利の祈念碑だと言えます。ただし、ここでは神殿が神の民の集う場所としてではなく、神の民そのものとして表され、そこに神が住まうとされます。このように神殿として集められた神の民は神を礼拝します。それはある意味で、神がキリストによって主権や力に勝利されたことを祝う祝祭です。神が神殿を造られるのは、敵に勝利するという仕事を終えて休むためではなく、ここから万物を統治するという本当の仕事が始まるのです。そしてクリスチャンが御国を受け継ぐということは、そのような神のご支配に参加させていただくということです。ですから黙示録には新しいエルサレムに住む聖徒たちについて、「彼らは世々限りなく支配する。」(22章5節)と書かれています。

このように、キリストの十字架と復活、そして教会の誕生という救済史における一連の流れは、敵対勢力に対する神の勝利という霊的戦いの背景を考える時に初めて良く理解することができます。それと同時に忘れてはならないのは、神がどのようにしてこれらの敵に勝利されたか、ということです。先ほどのゴンビスは、それはイエス・キリストの十字架の死という、最も勝利とは遠いと思われるような出来事を通してであったと言います。つまり、神の勝利は弱さと自己犠牲的な愛と死という、この世が考える軍事的勝利とは正反対のできごとを通して表されるのです。このことは聖書が教える霊的戦いを考える上で大変重要だと思われます。クリスチャンが霊的戦いを考える時、この世的な「戦い」「戦争」のイメージや価値観で戦うことがないように充分に注意しなければなりません。拙著『平和の神の勝利』の中に「愛による戦い」という短い章がありますが、そこではクリスチャンが愛し合って一致していくことが最大の霊的戦いであると書きました。私たちは十字架を魔除けのように使うのではなくて、十字架を背負い、イエスに倣ってその後についていく時、初めて本当の意味で敵に勝利することができるのです。

(続く)

「主の祈り」を祈る(3)

(シリーズ過去記事  

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

今回から「主の祈り」の内容を細かく見ていきたいと思います。

「天にまします・・・」

まず、この祈りは神に対する呼びかけから始まります。日本ではクリスチャンでなくても、「旅の無事を祈ります」「成功を祈ります」など、「祈る」という表現はよく使われます。けれどもそれらの人々が誰に対して祈っているのかは明らかでない場合が多いです。おそらく多くの人々が「祈る」という時、それは特定の神仏に対して祈願しているというよりは、「~であってほしい」という漠然とした願望を表しているように思います。けれども、ユダヤ教の厳格な一神教信仰に生きていたイエスと弟子たちの文脈にあっては、祈りを捧げる対象は唯一の生ける神以外にはありえませんでした。しかし問題は、その神がどのようなお方であるという理解のもとに祈っているか、ということです。これは私たちが主の祈りを祈るときにも意識すべき重要な問題です。

まず、この神は「天」におられる神です。ここで言う「天」は必ずしも物理的な空間をさすわけではなく、第一義的には「神のおられるところ」です。これに対して私たちが住むこの世界を「地」といいます。過去記事で触れたように、N・T・ライトによると、聖書の世界観はこの天と地が部分的に重なり合い、かみ合う世界観であるといいます。特定の時と場所において、天と地が出会い、神と人とが出会うことができる―祈りとはまさにそのような「場」の一つと言えるでしょう。

さて、1世紀のユダヤ人たちは基本的に次のような世界観を持っていました。

AncientHebrewCosmology

古代ヘブライ人の宇宙像(© 2012 Logos Bible Software)

この宇宙像では、基本的に世界は「天」「地」「地下(よみ)」からなる三層構造で捉えられていました。当時のユダヤ人は、「空」は地の上をおおう固いドーム状の物質で、神はその上に住んでおられると考えていました。したがって、神のおられる場としての「天」は基本的には物理的空間としての「天」と重なってイメージされていたと考えられます。ただし、この神は上空の天に常にとどまっている存在ではなく、頻繁に地上の世界のできごとに介入し、人々とやりとりをし、みこころを行われる存在として描かれています。そのような、地上における神の臨在と働きをライトは「天と地が重なる」と表現しているのだと思います。ライトが終末において「天と地が一つになる」という時に意味しているのは、神の臨在と支配が天においてだけでなく地においても完全にあらわされ、神が「すべてにおいてすべてとなられる」(1コリント15章28節)ということだと理解できます。

ところが問題は、このような古代ヘブライ人の宇宙像は、現代の私たちにとってはまったくなじみのないものであるということです。私たちは、空は固いドームのような物質ではなく、地球の周囲には果てしない宇宙空間が広がっていることを知っています。そのような宇宙像においては、「天」を単純に「空の上」と考えることはできません。日本における「上方」とイスラエルにおける「上方」はことなりますし、宇宙空間を何億光年突き進んでも、神にたどり着けるとは思えません。このような現代の宇宙像において、神はどこにおられると考えたらよいのでしょうか?

一つの方法として、私たちは「天」はSFやファンタジー小説に登場するパラレルワールドや異次元世界のように、この地球と隣り合わせに存在し、目には見えないけれどもすぐそこにある世界と考えることができるかもしれません。C・S・ルイスのナルニア国はまさにそのような世界として描かれています。科学的宇宙像を持った現代人が、どのように聖書的な神のすみかとしての「天」をイメージできるかについては、たとえばPaula GooderがWhere on Earth Is Heaven?という小冊子にコンパクトにまとめています。

それでは、現代の私たちはどのようにして「天におられる神」に祈ることができるのでしょうか?それには2通りの方法があると思います。

第1は、聖書時代の人々が持っていた古代の宇宙像に入り込んで、その世界観のレンズを通して「天」をイメージして祈るということです。この方法では、私たちは文字通り自分たちの上方のどこかに「天」という領域があり、そこに神がおられることを想像します。私たちが祈る時、天に窓が開かれて、天におられる神の御前に私たちの祈りが香の煙のように立ち上っていくことをイメージすることができます。

第2の方法は、「天」に関する聖書の言語表現を、現代の私たちの科学的宇宙像に適合するように「翻訳」して、その理解にそって祈ることです。例えば上記のようなパラレルワールドとしての天をイメージし、私たちの世界のすぐとなりに存在する見えない世界におられる神に向かって祈ることができます。

私は現代のクリスチャンはどちらの方法で祈っても良いと考えていますが、個人的には最初の方法で祈る方が好みです。これはもちろん、「現代科学に基づく宇宙像が間違っていて、古代ヘブライ人の世界観が正しいのだ」と信じこむことではありません。しかし、私たちは聖書を読む時に、そのナラティヴが創り出す物語世界をイメージし、その中に入り込んで、そこで起こるできごとを追体験し、その中で語られるメッセージを受け取ることができます。実はこれが、ナラティヴ一般の正しい読み方でもあると思います。私たちはルイスの「ナルニア国」やトールキンの「中つ国」が実在する場所でないことを知っていますが、それがあたかも実在する場所である「かのように」、想像力(イマジネーション)を用いてその中に入り込むことなしには、それらのナラティヴを本当に味わうことはできません。祈りにおいてもそのような想像力は大変重要であると思います。けれども、どうしても現代の科学的宇宙像を離れては神をイメージできないという人は、第2の方法で祈ることもできるでしょう。

いずれにしても、「天は本当はどこにあるのか」ということよりもっと重要なのは、「天と地はどのように関わっているのか」ということだと思います。祈りは天におられる神に対して、地に住む者たちがささげるものです。天と地はことなる領域です。私たちは、いつでも神の存在を身近に感じられるわけでも、神の意思が私たちの周囲でいつも実現しているわけでもないことを知っています。にもかかわらず、私たちが祈る時、天と地が重なり合い、天に通じる窓が開かれるのです。

(続く)