今週の日曜日(5月31日)はペンテコステ(聖霊降臨日)でした。それに先立ち、『舟の右側』誌に依頼されて、6月号にペンテコステのメッセージを書かせていただきましたので、同誌の許可を得てこちらにも掲載させていただきます(ただし聖書の訳をはじめ、いくつか変更を加えてあります)。内容的には過去記事「王なるイエスの元年」と重なる部分もありますが、そこで書いた内容を、もう少し広い聖書の文脈の中で捉え直したものです。
聖霊降臨と新時代の幕開け
それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。 (使徒2・ 33)
ペンテコステおめでとうございます。教会暦では、復活祭から50日目にあたる日曜日を聖霊降臨の日として祝います。これは、イエス・キリストの昇天後、エルサレムにいた弟子たちに聖霊が注がれたできごとを記念するもので、キリスト教会にとってはクリスマスや復活祭と並んで重要な祝日です。
十字架につけられた後、3日目に復活したイエスは40日間にわたって弟子たちに現れた後、天に昇っていかれました。主はその際、エルサレムを離れないで、聖霊の訪れを待つようにと彼らに命じられました(ルカ24・49、使徒1・4-5)。その約束通り、ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が注がれたのです。
五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。(使徒2・1-4)
この有名な「聖霊降臨」のできごとは、教会誕生の瞬間として有名ですが、そこで起こったことは、実際には何を意味しているのでしょうか? ある人々は弟子たちが「異言」を語ったことを強調します。けれども、この時弟子たちが語った言葉がパウロが手紙で語っている異言(1コリント14章を参照)と同じものであるかは定かではありません。宣教への力が与えられたできごと(使徒1・8参照)として理解する人々もいます。しかし、聖霊降臨を孤立した特異なできごととして捉えるのではなく、より大きな聖書的文脈の中に位置づけていく時に、さらに深い意味が見えてきます。 続きを読む