ピーター・エンズ著『確実性の罪』を読む(7)

その1 その2 その3 その4 その5 その6

これまで、『確実性の罪(The Sin of Certainty)』に基づいて、聖書的な信仰のあり方について探求してきました。著者のエンズによると、聖書が証しする信仰とは、神についての正しい思考にこだわるものではなく、不確実性の中でも神に信頼するということでした。なぜこのことが大切なのでしょうか?それは、私たちの神についての確信が揺るがされるようなできごとが人生にはしばしば起こるからです。エンズはそのようなできごとを否定したり避けたりしようとするのではなく、むしろそれらが語りかける内容に耳を傾けることをすすめます。

エンズは第6章で、2013年の夏に自身が運営するブログ上で行なったアンケート調査について書いています。彼はブログの読者に次のような質問を投げかけました:

あなたがクリスチャンであり続けることの最大の障害となっているものを一つ二つ挙げてください。あなたが繰り返しぶつかる障害物は何ですか?そもそもなぜ信仰を持ち続けているのかと疑問に思うような、あなたにつきまとって離れない問題とは何ですか?

これらの質問に対して、エンズは数多くの率直な(しばしば匿名の)回答を受け取りました。それらは、大きく分けて次の5つのカテゴリに分けられるものだったと言います: 続きを読む

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その4)

その1 その2 その3

藤本満先生によるゲスト投稿の第4回を掲載します。今回は物語論についてです。

faith-507810_1280

聖書信仰(4) 物語

物語の復権

昨今、聖書の物語性、あるいはナラティブとしての聖書という表現をよく耳にするようになりました。アブラハム、士師、ダビデ、福音書、使徒の働きなど、聖書を切れば必ずと言って良いほど物語が出てきます。1974年にイエール大学のハンス・フライが著した『一九世紀における聖書の物語の陰り』という書物がきっかけとなって、急にナラティブとしての聖書が注目されるようになりました。

なぜそれまで、聖書の物語性が無視されてきたのでしょう。19世紀、リベラルなドイツの学者たちは、歴史の中に全能の力をもって介入してくる神を前提とせずに、聖書を文献として研究します。彼らの多くは、紅海が二つに分かれる物語からイエスの奇蹟や復活の物語に至るまで、神の力にあふれる物語をフィクション(神話)として読み流し、その中から宗教的な真理命題だけを抽出すればよいと考えていました。物語が記述する出来事の詳細は乏しくても、そこから宗教的なメッセージは抽出でき、理性的に解釈し直せる、と。これならば、物語を構成する「史的イエス」(歴史上の人物としてのイエス)と、そこから抽出された初代教会の「使信としてのキリスト」は別物であっても、かまわないことになります。

ここでは詳しく説明しませんが、先のフライの書物以来、聖書の出来事性、そしてそれを描く物語を「軽く見る」ような考え方は、ひっくり返されてきました。物語の復権です。(拙著16 章)

物語(ナラティブ)理解は危険か?

しかし保守的な福音主義は、依然として聖書の物語性を掘り下げることを敬遠します。それは「物語=神話」というような、上述のリベラリズムに対するトラウマが原因しているだけではありません。そもそも物語のもつ「意味の相対性・多様性」に危惧を覚えているのです。物語という文学類型を当てはめて聖書を読むと、読み手の印象によって御言葉の意味と理解は相対的になります。最終的には「託宣」としての権威を傷つけると警戒しているわけです。

もっとも物語の復権を待つまでもなく、言語学は長年、言葉の多様性・多義性(相対性)を指摘してきました。

・言葉の機能は、話し手の考えを一方的に相手に伝えるためだけではない。同じ言葉をもって、人は願い、感謝し、呪い、挨拶をし、祈り、命令し、問いかける。
・言葉は幅広く機能し、その意味も状況に応じて多様である。
・詩的な言葉だけでなく、日常の記述も、時に正確性よりも象徴性を重んじることがある。

この言葉の機能の多様性、意味の豊かさは、近代主義や科学が支配する文化においては「曖昧性」とみなされ、それが欠点であるかのように退けられてきました。この欠点を克服するために依然として、聖書のテキストは「原著者の意図にのみ限定された単一の意味しかもたない」と命題的に定義することを志してきました。

確かに、聖書の言葉を象徴的に理解しすぎ、主観的な体験で解釈していけば、限りなく相対的なものとなり、神の啓示は、星の数ほどの理解で解釈されるでしょう。これが物語論の危険性であることは認めるべきでしょう。しかし、危険性と共に可能性は莫大です。現時点で聖書の物語性を主張する人びとは、そのような相対主義を考えているわけではありません。ですから、彼らが提示している可能性に耳を傾けるべきであろうと私は思います。

物語論は、近代主義が言葉の中に、一つの意味、しかも普遍的に通用する客観的な意味を見いだそうとしたことによって、かえって、本来聖書が有している物語のダイナミズムを減じてきた現実を指摘します。マクグラスは次のように述べています。

「聖書の物語性を認めることは、聖書の啓示の豊かさを回復させることになる。この方法論は、福音主義の啓示の客観的知的真理へのこだわりをあきらめることでも弱めることでもない。それは単に、啓示は、客観的真理よりはるかに多くのことを含むことを認めること、またその豊かな啓示を教理へと還元してしまうことを防ぐ知恵を与えることにほかならない。」(拙著315 頁、参照357-360 頁)

では、物語のダイナミズムとは、どのようなものでしょうか。

物語のダイナミズム

プリンストン神学校のウィリアム・ジョンソンは次のように述べています。「物語は固定化されたものではなく、ダイナミックなものであり、それゆえ、新しい場面で新しい事柄が追行されている。換言すれば、聖書的物語は、単に私たちに神の本性について語るだけではない。現在、神がどのようなお方であるのか(神のアイデンティティ)をたえず、新しい仕方で私たちに明らかにし続ける。」(拙著314 頁)。追行されるとは、聖書の物語と私たちの物語が重なり合うことです。この考え方にそって、聖書の物語性を強調する何人かの聖書学者を紹介してみましょう。

石田学は、聖書の物語が語られるとき、「聖書の出来事や民の体験がきわめてドラマ的な仕方で、教会の会衆の想像力の中で再構築され、追体験される」と言う。「現代に生きて聖書を読む読者は、彼ら自身の生活が現代に生きる神の民としての生き方を変容され、形成されるような仕方で、聖書のドラマと自分たちのドラマを相関させるように導かれるべきである」(拙著314 頁)。そうなると、聖書の物語理解は、聖書は神の言葉であって、それを解釈して今日に適用するという、以前の聖書信仰の「上から下へ」の理解だけでは不十分です。物語は、託宣的理解を超えた聖書の言葉の「力」と「機能」を提示していることになります。

ブルッゲマンは、支配者の側に立つ者と抑圧される民の物語(ファラオとイスラエルの民、列王記のソロモンをはじめとする王族と貧しい民)を、現代アメリカ社会の物語と重ねます。彼は、神の正義と平安を歌っている御言葉が、実は利権者の方便にすぎないことを見抜いて、支配者・利権者と対峙する預言者の姿を浮き彫りにします。そのとき彼は、聖書のテキストがどのような「意味を持っていたのか?」ではなく、どのような「意味を持っているのか?」こそが、私たちが取り組むべき課題だと言います(拙著327 頁)。

その意味でブルッゲマンは、物語である聖書が、出来事や教えの「記録」ではなく、「記憶」であると言います。神の言葉は過去に固着しているのではなく、現在と未来のエネルギーにあふれている、と。古代の特定の文化と密接に結びついた物語は、過去の記録ではなく、信仰共同体の記憶として繰り返し体験され、受け継がれ、神が語られるものだと言うのです。

英国のR・ボウカムは、聖書全体を物語として見ることを主張します。聖書は不変の教理や道徳の教典ではなく、第一義的に物語(多様であっても統一性がある)である。物語は、読者をその物語の中へと引き込む力を持っています。私たちが聖書に描かれる大きな物語に登場する人物や出来事に自分自身を重ねるとき、聖書は私たちの人生、また世界の諸問題への取り扱いについて示唆を与え、その最終的な解決を教えてくれます。私たちは大きな物語の中に取り込まれて、変貌していきます(拙著332頁)。

山﨑ランサム先生もレビューしておられるN. T. ライトはさらにこんなことを主張します。彼は聖書の物語を大きく五つの舞台に区切って、次のように神学的な流れで解釈します。

「私たちは創世記一章と二章(創造の物語)を、あたかもこの世界が当時のままであるかのように読むことはしない。また、創世記三章(堕落の物語)を、創世記一二章(信仰の民)を知らされていないかのように、さらに出エジプト(旧約の解放と契約)を、さらに福音書(キリストにある契約)を知らされていないかのように読むことはない。また私たちは福音書を、それがまさに第四の舞台から第五の舞台へと移行するために記されているという事実を知らないかのように読むことはない。」

この第五の舞台を演じているのは教会です。現在の私たちは、第五の舞台に立っていて、キリストの十字架と復活礼拝の中で再現し、その恵みを担いながら、和解の福音の使者として世界に出て行きます。

ライトと共に米国のヴァンフーザーも、第五の舞台を生きる私たちと聖書の関係をダイナミックに定義します。第五の舞台に生きる私たちは、単に正典が基準となってそれに従って生きているだけではありません。正典ドラマは、物語を解釈する者をドラマの役者としても取り込んでいきます。聖書の理解は知の問題である以上に、行動の問題となります。どの時代にあっても信仰者は皆、神の国の物語の中でそれぞれの役割を演じます。そこで私たちは、この物語の中へと取り込まれているのか、自分はどの場面でだれを演じているのか、自分の人生は聖書のどの場面といま関わりをもっているのか、神はいま何をしようとしておられるのか、自分はどう応答するのかが問われているというのです。ヴァンフーザーによれば、聖書は私たちに、舞台で言う台詞を提供しているのではなく、「聖書のテキストが示唆し、意味している」ことを理解し、そこで「演じる」、すなわち神の物語の中で生きることを求めている、と。聖書の解釈は「私たちの見方、考え方、行動の仕方を刷新し変貌させる。……聖書は神のコミュニケーション行為の媒体であって、それによって真理が伝えられるだけでなく、読む者が変貌されていく」。(拙著258-260 頁)

――これくらいにしておきます。

物語のダイナミズムが注目するとき、私たちの「聖書信仰」理解も新しくされるはずです。アイルランド・メソジストのウィリアム・エイブラハムは、ボウカムやライトを引用しながら、次のように言います。「私たちは基準、正典的標準、正統主義、知識という表現から、神の国、救い、解放、備え、変貌といった表現にシフトした。私たちは認識論から救済論へとシフトした」(拙著334 頁)前者の表現の鍵を握っていたのは「命題」です。そして、後者の鍵を握っているのは「物語」です。

聖書の物語理解が聖書信仰の中に入り込み、従来の近代主義的真理と託宣にそった聖書信仰を超えて、さらに豊かな可能性が探り、「聖書こそ神の言葉である」との信仰理解がさらに深まっていくことを期待します。

(続く)

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その3)

その1 その2

藤本満先生によるゲスト投稿、第3回をお届けします。

81fhol0DEQL._SL1500_

聖書信仰』(キンドル版)

前置き(あらためて)

あの本を著して以来、私は「包括的福音主義」者と呼ばれているらしいのです。そのカテゴリーに入れていただけることに何ら不満はありません。私は神学が信仰信条という枠にはめられたものではなく、モザイク的でよいと主張しています。また、批評学やポスト近代による近代主義批判に耳を傾けようという姿勢を表明しています。ただ、私が提示したかった趣旨は、少し観点が違います。

私は、「聖書信仰」を神学的に論じる場合、改革派・長老派系の論ばかりに偏っていると感じてきました。もちろん、聖書信仰の巨人にプリンストン(当時は厳格な改革派神学)のウォーフィールドのような人物がいましたので、神学的にはそちらの論が中心に展開されて当然と言えば、当然だったのです。日本で聖書信仰を神学的に論じてきたのは、岡田稔、また戦後に訳されたパッカーと、いずれもウォーフィールドに傾倒していきました。

しかし、ここであらためて救済論的な視点で論じる聖書信仰の復権を、拙著は掲げました。その意図は、これまでの聖書信仰の中心をそのままにして枠の範囲を外へと広げるというよりは、何も中心点はそこ(ウォーフィールド型)だけではなかったのではないか、という主張です。そこで、聖書信仰に「第二の視点」の導入を試みました。

少し言い換えてみましょう。福音派は、「聖書は誤りなき神の言葉」という命題で括るのが一般的です。この命題はさらに二つのタイプに分かれます。第一のタイプは、17世紀のウェストミンスター信仰告白のように、「誤りなき」という範囲を救いと信仰生活の領域を想定します(無謬論)。もう一つのタイプは、19世紀後半のプリンストン神学や20世紀後半のシカゴ宣言のように、聖書に記されているすべての事柄に誤りがないとして、その範囲を科学や歴史にまで広げます(無誤論)。

「誤りなき」という定義づけで、どちらを選ぶか?と問われれば、私は前者を選びます。それは後者の方は、リベラリズムと同じ土俵でリベラリズムを批判することで、かえって聖書の本質を見失っていると思うからです(拙著17章B「聖書はモダンの客観性を超える」)。

しかし拙著は、上記二つの選択枝とは異なる次元での「聖書信仰」を提示しました。それが、敬虔主義や信仰復興運動に見られた、聖霊が御言葉を用いて神の力を働かせ、人の罪深さを確信させ、神の愛を心に注ぎ、神の平安を与える、聖書はいわば「実効力を持った救いの導管」です。言うなれば、伝道的・救済論的な聖書信仰です。

この次元での聖書信仰は、神学的考察を欠いた「一般の信仰者レベル」の聖書「感」とみなされてきました。しかし、決してそうではありません。「導管」(means, channel)という用語は、英国教会の中で脈々と息づいてきました。そして神の言葉・聖書は神の創造・贖い・新創造の導管であるという表現を、最近ではリチャード・ボウカムやトム・ライトが頻繁に用いています。

私は、この次元における聖書信仰を「あえて」ウォーフィールド型と区別して論じました。しかし、本当はそれを別物として区別する必要はないのでしょう。それを一つのことと論じれば(拙著18章A「神の口と神の手」)、それは聖書信仰の豊かさをさらに掘り下げることになるのではないかと思うからです。

私が山﨑ランサム先生のブログへ寄稿させていただきましたのは、もちろん、先生からのお招きがあったからです。加えて申し上げるなら、先生が拙著を読んでくださったときに、上述の意図を明確にくみ取ってくださったからです。

 

聖書信仰(3)言葉の限界・言葉の力

近代主義は、世界の客観性とそれを認識する理性、さらに理性の道具である言語、という大前提の上に成り立ってきました。世界には客観的秩序があり、個々人にはそれを把握する力、すなわち理性が備わっている。その理性の道具の筆頭が言語です。

客観的世界が正しく理解されれば、それは真理と呼ばれます。そうしてとらえられた真理は命題的に定義され、さらに種々の命題は論理的に組み合わされて一つの体系を構築するようになります。ですから、17世紀プロテスタント正統主義にあっても、プリンストン神学や、それ以降の米国福音派にあっても、聖書信仰が最終的に到達しようとする先は、しっかりとした組織神学でした。

このような近代主義に対する批判は、拙著でも取り上げましたが、山﨑ランサム先生のブログに掲載されている「確かさという名の偶像」の連載を読んでいただければ、よくわかります。

近代主義に染まった聖書信仰を、たとえば、福音派のバーナード・ラムは次のように批判します。「命題的啓示を強調する昨今の福音主義の強調が、実のところヘーゲルの純粋概念言語の一つの表れにすぎないとは驚くべきことである」(拙著9章B)。神が無限であるとしたら、有限である人間がその言語をもって無限なる神をとらえることはできない、と考えるのが普通ではないか、とラムは述べています。あるいは戦後日本の聖書信仰を率いてきた村瀬俊夫先生も、こう述べています。「十全に霊感された言語とは、どういう言語なのか。考えられるのは『絶対的な意味をもつ、不可謬である言語』という概念である。しかし、そんな概念の言語を歴史的次元における文化的現象の中に求めるのは、〔すべて歴史的なものは相対的であることを免れないのであるから〕不可能である」(拙著12章C)。

これらはいずれも近代主義に染まった逐語霊感説への批判です。言語はそこまで普遍的な役割をになうことができるのでしょうか? ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」という表現を使って、それぞれの世界を体験する感じ方・とらえ方・表現法は、同じであるはずはなく、一つの世界の言語をもってして普遍性を主張することはできないことを主張しました。言語は社会性を帯びています。それはすなわち言葉の個別性であり限界性です。

スイスのソシュールは、人は言葉によって単に客観的な事実や実在世界を写し取って把握するだけでなく、言葉の世界を編むことによって社会や文化を創り上げると述べました。そして、人が現実を把握し、編み上げているのは、純粋理性を助ける普遍言語によってではなく、特定の時代・世界における、その時代・世界に固有な言語によります。ですから、この時代・世界に生きるとき、私たちの存在のあり方も出来事の経験の仕方も、またそれを解釈する方法も、決して普遍的なものではありません。

しかし、この言語の持つ制限に着目したからと言って、聖書のテキストに神秘性・聖性は失われたと結論する必要はありません。以下に3つの主張を挙げておきます。

①たとえば、福音派の言語霊感説とはおおよそ立場を異にするポール・リクール(フランスの哲学者、人生の後半でシカゴ大学神学部教授)でさえ、次のように述べます。リクールは、キリスト教は聖書が書かれたヘブル語、アラム語、ギリシャ語という言語に特権を与えることをせず、他の言語に自由に翻訳し、それがあらゆる文化言語で読まれることを期待してきたことに注目します。つまり、聖書の聖性がテキストそのものにあるのではないと考えるからこそ、翻訳が可能であり、そこには批評的精神も許されてきた。これが聖書とコーランの決定的な違いだと言います。(コーランはムハンマドがアッラーから受けた啓示を一言一句書き留めたものですから、翻訳は許されません。アラビア語こそが神聖な言語であり、そこに直接的な啓示があるからです。)

しかしリクールは、それでもユダヤ教もキリスト教も、聖書のテキストに独特な聖性を与えてきたことを信じます。聖書が神の言葉であるのは、聖書の「テキストの世界」がテキストの前方(テキストによって繰り広げられる世界)に「読者の世界」を引き込む神性な力を有しているからだとリクールは言います。読者がテキストを受け入れるとき、テキスト世界と読者の世界が交わり、読者を変容させる力が働くというのです。それは、寄稿2で取り上げた聖霊が御言葉を用いるからです。

②さらに、言語の歴史性・文化性という制約を大胆に乗り越えるバルトの発言も紹介してみます。教義学的方法ではなく、歴史的方法を自覚に取り入れてキリスト教を解釈しようとしたトレルチという人物がいます。彼は、全人類の唯一の中心点を、歴史のただ一点(キリストの出来事)に見ることは、「古代の、あるいは中世の、牧歌的な小規模で狭い世界像」に過ぎず、そこからキリスト教の絶対性はおおよそ証明できないと結論しました。

しかし、これに対してバルトは次のように応えます。キリスト教は、その絶対性を証明できなくても、その「真理性」を堅持することができ、そして真理性は絶対性を凌駕する、と。キリスト教の真理の物語は、著しい浸透性・拡散性をもっていて、たとえ真理がからし種のように小さく見えても、歴史の中で大きな枝をはることができるのである、と。私はなんとも胸のすく答えだと思います。つまり言語の普遍性を歴史的文脈による制限・制約にゆずったとしても、その真理性まで消し去る必要はないのです。

③あるいはマクグラスは次のように主張します。きわめて限定的な(狭い)、妥協のないキリスト論的スタンスこそが、福音主義の伝統である。かつてリベラリズムが普遍的理性・普遍的経験を支えにキリスト教信仰の真理性を説明しようとしたのとは違い、また聖書を普遍的土台としてキリスト教信仰の真理性を弁証しようとしたモダンな福音主義とも違い、聖書が証しするキリストと福音こそが、きわめて限定的であっても、それは普遍的インパクトをもっている。そのことを常に説いてきたのが福音主義ではないか、と(すべて拙著14章D)。私はこれもまた爽快な答えだと思います。確かに私たちは世界の片隅にあって、キリスト教言語がおおよそ通用しない日本で、聖書の語る真理性を堂々と主張してきました。聖霊は、このユダヤ的な概念さえも用いて、人の心を打つ、と信じてきました。

①~③のどの主張も、近代主義に基づいた理性の普遍性と言語の客観性に固執しなくても、そして言語学の一般的な理解を受け止めたとしても、それによって聖書信仰が崩れるわけではない、という主張を支えていると私は考えています。

日本に育ち、日本語しか話さない私であれば、日本語でしか物事を考えられないし、日本語にない概念については語ることができません。ですから、聖書信仰に立つ聖書学者は、様々なツールを駆使して古代の世界に入り込み、当時の状況の中で言葉を釈義し、現代の私たちにも理解できるような方法で聖書を翻訳し、その言葉の意味を教えてくれているのではないでしょうか。そして前回の寄稿で聖霊の働きに言及したように、聖霊は、過去の記者と現在の読者との橋を架け、聖書の言葉を現代の私たちに生き生きとした神の言葉として響かせるのではないでしょうか。

 

ポスト近代主義から学ぶことができるのは、言語の限界性だけではありません。その力強い可能性も教えてくれます。注目したいのは、「言語行為」(スピーチ・アクト)という考え方です。言葉を発するときに、発言者はその言葉の出来事の中に入るという「言語行為」の理論は、イギリスのJ・オースティンやアメリカのJ・サールによって明らかにされ、真理や歴史事実の記述言語としての聖書の考え方を大きく変えてきました。聖書の言葉を聖霊が用いて今日に力を及ぼすだけでなく、言葉そのものに現在的な発言者の力も含まれているという考え方です。「光あれ」「これはわたしのからだです」という言葉は、単なる記述言表ではなく、発言した者がそれを実現する力のある言葉である。

先のリクールが聖書観にこの考え方を導入しました。福音派のヴァンフーザーも特にこの考え方を取り入れて聖書信仰を論じていますので、それをここで紹介しておきます(詳しくは拙著18章)。

ヴァンフーザーは「聖書即啓示」、「聖書=神の命題」という考え方が、きわめて近代主義に染まった聖書観であると批判しつつも、啓示の「言葉」性にこだわります。神が絶対的な超越者であるとしても、その神が人格的存在であるとしたら、人に対して何かを行うだけでなく、人と出会い、人に語りかけ、人格と人格をめぐるコミュニケーションを取ろうとされることに何ら不思議はない、と。その主要な手段が言葉です。偶像が言葉を発することができないのであれば、真の神である第一の証しが、その言葉にあるといっても過言ではありません。

言葉のコミュニケーションを考えつつ、ヴァンフーザーは「言語行為論」に立って、コミュニケーションにおける言葉の「実効力」を論じます。人が人に対して言葉を発するとき、それは言葉だけのことではなく、言葉の意味するところが行動となる、いわゆる言葉の後を追いかけて行動が伴うというのです。ですから、人は言葉によって人と出会い、言葉のコミュニケーションによってつながれていきます。神が人と出会われるとき、神は人のために語られます。神が、何かを命じ、警告し、約束し、赦す言葉を発せられると、その言葉はむなしく神へと戻ることはありません。神は発せられた言葉に真実であり、スピーチとそれに基づくアクトを通して、人は神がいかなる方であるかを体験します。また神が語りかけるとき、それは過去や将来についての叙述に限りません。問いかけ、警告、約束、祈り、賛美、物語、手紙等、様々なジャンルを用いて、神は私たちに「実効力」の伴う言葉をもって語りかけるというのです。

ヴァンフーザーは、言語行為として神の言葉を考えるとき、もはや「聖書は神の言葉である」あるいは「聖書は神の言葉となる」という区別は意味をなさないと言います。そもそも言葉をコミュニケーションと考えるならば、聞き手の応答はコミュニケーション成立のために必須です。聖書それ自体が神の言葉であるとしても、聞き手がそれに応答しない限り、神の言葉としての有効性はありません。聖霊の働きによって、神の言葉が聞き手・読み手に受け止められてはじめて、コミュニケーションが成り立ち、神の言葉が成立していることになります。その両方を含めない限り、人格と人格が交わるコミュニケーションとしての言葉は成立していません。言葉の真髄は、真理の言表にあるのではなく、コミュニケーションの「力」にあります。

だからこそ、神の言葉は、その目的とするところを達成します。この目的とは、最終的に何でしょうか。ヴァンフーザーは、それが神の言葉の具現化(embodiment)であると考えます。神の言葉は、契約の民の生涯・言葉・行動において今日的意味をもって新たに繰り返し具現化されていきます。「神は、聖書の中の律法・知恵書・詩歌・黙示・預言・物語とあらゆるジャンルにある言葉によってキリスト者の存在を形づくっていく。つまり聖書は、キリストにあって神がなされたことの現実を神の民の生の中に具現化していくために『神が定められた手段』(ordained means)である」と。

私が冒頭に記した「前書き」の課題を、ヴァンフーザーは現代の言語論を取り入れた神学理解をもって見事に、繊細に論述しています。しかも彼が、ウォーフィールドの引用をもって、自身の主張を締めくくっているところに、さらに奥へと歩を進めることができる「聖書信仰のあり方」を示しているよう思います。

「聖書は……啓示の一記録たるにとどまらず、それ自身神の贖罪的啓示の一部である。すなわち、神が世を救いつつある贖罪的行為の記録としてだけではなく、それ自身これらの贖罪的行為の一つとして、神の国樹立・建設という大事業にそれ自らの果すべき役割を持つものとして、考えられている。」(『聖書の霊感と権威』、一六〇頁)

 

*次回は、物語論についてお話します。

確かさという名の偶像(25)

(シリーズ過去記事 第1部          10 第2部 11 12 13 14 15 第3部 16 17 18 19 20 21 22 23 24

グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回は「結びのことば:信仰をどう生きるか」を取り上げます。

この最後の章でボイドは、彼自身が信仰と疑いをどのように生きているかについて語ります。たしかに、私たちは信仰の歩みの中で自分が信じていることがらについて深い確信を抱くようなときがあります。それについてボイドは言います。

私はそのような時を大切にはする。しかし、それらを追求することはしない。時として確信を持つことができるなら、それは賜物である。けれども心理的な操作によって確信を持とうと努めることは、決して適切なことでも健全なことでもないと思う。(p. 251)

それでは、確信ではなく疑いを抱いてしまうときにはどうすればよいのでしょうか?

疑いが長引くときには、私はただ一歩下がって、すでに何度も探求した、「なぜ私は自分が信じていることを信じているのか?」という問題をもう一度検討してみるだけである。疑いとは、乗り越えなければならない問題ではない。それはさらなる探求への招きなのである。それは信仰の敵ではなく、友なのだ。(p. 251)

ボイドは、イエスが神の究極の自己啓示であるということについて、それが真理であるかのように生きる人生にコミットするために必要なだけの確信さえあれば、疑いや確実性の感覚は、彼自身の信仰の歩みとはまったく無関係であると言います。このコミットメントによって、ボイドはイエス・キリストに対する信仰を持って毎日を情熱的に生きることができる一方で、信仰に対するさまざまな反論を探求し、それを自らの信仰の再検討のために役立てると同時に、同じような問題で葛藤している人々を助けることができるようになると言います。このような柔軟な信仰の姿勢は、疑いを恐れて極力それを排除しようとする信仰のモデルとは大きく異なっていることが分かります。

benefit-of-the-doubt

本書においてボイドが展開してきたような、確実性を追求せず、疑いを排除しない信仰のあり方は、今日大きな意義を持っていると思われます。「十字架につけられたイエス・キリスト」を信仰と神学の中心に据え、このキリストにおいてご自身を完全に啓示された愛なる神との人格的な契約関係から与えられるいのちをよりどころにして生きていくとき、たとい疑いや苦しみや知的チャレンジに直面しても、それらを信仰に対する脅威としてではなく、むしろ信仰を深め成長させる契機として受けとめることができるのだと思います。

ますます多様化し、情報化する現代社会において、キリスト教信仰は教会外からのさまざまなチャレンジ(たとえば宗教多元主義や科学と信仰の問題など)に直面しているだけでなく、教会内に存在する教理的・実践的多様性も無視できなくなってきています。福音派と呼ばれる保守的プロテスタント教会も例外でないことは、先日紹介した藤本満先生の『聖書信仰』を読めば明らかです。以前なら日曜日に所属教会で聴く礼拝説教が主な情報源であった信徒の人々も、今ではインターネットで簡単に様々な情報にアクセスすることができ、自分が育ってきた教会的伝統以外のあり方に触れることができるようになりました。私は個人的にはこれは健全で好ましいことだと思っていますが、同時にそれは自分の信仰のあり方をたえず吟味することを迫られる時代ということでもあります。絶対的な真理を確実性を持って信じることに信仰の本質を見いだすという、今日広く見られる確実性追求型信仰のモデルは、このようなチャレンジに対して硬直した融通のきかない対応しか見せることができず、一方では世に対して効果的な証しをすることができず、他方では知的に誠実であろうとする真摯な信仰者をつまずかせる危険性があると思います。

ボイドが本書で展開しているような確実性追求型信仰への批判は、モダニズム的な信仰のあり方に対するポストモダニズムの立場からの批判ということができます。確実性追求型の信仰は、客観的な真理が存在し、適切な方法(それは知的な神学的探求であるかもしれませんし、霊的な宗教体験かもしれません)を用いさえすれば、その真理を正確に把握することができると考える点で、モダニズムの考え方に基づいています。ポストモダニズムの立場では、そのような、絶対に確実な知識を持つことは不可能であると考えます。なぜなら、すべての知識は認識する主体が置かれている特定の文化的・歴史的なコンテクストによって影響を受けると考えるからです。

このことから、保守的なクリスチャンの中にはポストモダニズムを敵視する人々もいます。けれどもそれは一面的な見方です。ポストモダニズムも一様ではなく、いろいろな立場がありますが、大きくハードなポストモダニズムとソフトなポストモダニズムの二つに分けて考えることができます。ハードなポストモダニズムは客観的な真理の存在そのものを否定するラディカルな相対主義で、このような立場は当然神の存在を前提とするキリスト教信仰とは相容れません。しかし、ソフトなポストモダニズムでは客観的な真理の存在を否定するわけではありません。この立場がモダニズムと違うところは、客観的な真理は実在するが、それを絶対的な確実性を持って認識することはできないとするところです。

私はこのようなソフトなポストモダニズムの認識論はじつは非常に聖書的な立場ではないかと考えています。それはパウロの次の言葉に通じるものです。

わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。(1コリント13章12節)

ここでパウロが言うように、たしかに客観的な真理としての神は存在しますが、限界のある被造物である人間には神のすべてを絶対的な確実性を持って知ることは(すくなくとも今の世では)不可能です。それでは、神を知ろうとする試みには何の意味もないのでしょうか?そうではありません。確かに絶対確実な知識を持つことは不可能だとしても、たえず自己の認識を批判的に吟味していくことによって、ちょうど数学における漸近線のように、真理に到達することはできなくても、それに近づいていくことはできるのです。私たちはそのことを謙虚に認め、他者から学びつつ、成長していく必要があります(このことについては以前書いたこの記事をご覧ください)。

確実性追求型信仰の落とし穴は、このように真理に向かって成長していくプロセスを無視して一足飛びに真理を手にしようとするために、自分が現在手にしている知識の体系(それは往々にして、最初に信仰を持った教会で教えこまれた教理であることが多いのですが)を絶対視してしまい、それを死守することが信仰であると思ってしまうところにあります。ボイドの提唱する信仰モデルでは、信仰者はより柔軟で謙遜な歩みをすることが可能になります。そしてそのような信仰の歩みにあっては、疑いや迷い、考えを改めることは決して避けるべきことではなく、むしろ成長のために必要なものであることが分かります。

しかし、確実性追求型信仰の問題は、それがポストモダンの現代社会では「うまく機能しない」ということだけではありません。ボイドが指摘する最大の問題は、本シリーズのタイトルにもあるように、確実性追求型信仰では「確かさ」ということが偶像、すなわち信仰者にとってのいのちの源泉となってしまうということだと思います。十字架のイエス・キリストを通してご自身を啓示された愛なる神との人格的関係からではなく、自分の信条に対する心理的な確実性の感覚(それが知的な神学的体系によるものであれ、何らかの宗教的体験によるものであれ)からいのちを得ようとする試みは失敗に終わります。なぜなら、そのような信仰者にとっては、自分のアイデンティティや存在価値や安心感は、いかに確実な真理の体系を把握・所有しているかどうかにかかっているからです。したがって、自分の信じているシステムが何らかの知的議論や人生の体験によって脅かされるなら、たちまちそのようなアイデンティティや存在価値や安心感は失われてしまいます(だからこそ、そのようなタイプの信仰者は自分の持っている確実性の感覚が脅かされないようにあらゆる手を尽くします)。言い換えれば、確実性という偶像はいのちを与えることができないのです。

ブログではあまり紹介できませんでしたが、本書ではボイドの個人的な信仰の歩みについてもかなりの紙数が費やされています。彼の祈りの生活など、興味深い内容が多いですが、中には普通なら他人に明かしたくないような失敗や罪についても赤裸々に綴られています。それは本書の神学的な内容を身近なものにするだけでなく、彼が自分の信仰を生きている証しとして貴重なものであると思います。ボイドは自分の弱さをさらけ出し、信仰の歩みの紆余曲折について語り、もっとも驚くべきことには、自分が本書で主張していることがらですら、絶対的な確信があるわけではないことを認めるのです(そしてそれは、確かに本書の中心的主張と首尾一貫した態度です)。彼がそのようにできるのは、いのちの源を自らの「信仰の強固さ」や「神学の正しさ」にではなく、イエス・キリストにおいてご自身を啓示した神との人格的関係に置いているからこそと思えるのです。

*     *     *

長きにわたって連載してきたこのシリーズも、今回が最終回です。このシリーズを通して、これまで日本でほとんど知られていなかったボイド神学の一端を紹介することができたと思います。連載中から、何人もの方々からフィードバックをいただき、彼の神学に対する関心が広まりつつあることを実感しています。重要なことはボイド師の主張すべてを無批判に受け入れることではなく(それはまさに、彼が本書を通じて主張してきた信仰のあり方に反することです)、彼の問題意識を受けとめ、私たちの信仰や生活のあり方に関わってくる部分があれば、それを批判的かつ創造的に取り入れていくことだと思います。グレッグ・ボイドの神学については、今後も折に触れて紹介していきたいと思います。

(完)

藤本満著『聖書信仰』を読む

たいへん素晴らしい本が出版されました。藤本満先生(イムマヌエル綜合伝道団高津キリスト教会牧師・イムマヌエル聖宣神学院教師)による、『聖書信仰―その歴史と可能性』(いのちのことば社)です。

聖書信仰

本書は昨年11月に行われた日本福音主義神学会全国研究会議における、藤本先生の発表を元にしています。私もその場にいて先生の発表を拝聴し、深い感銘を受けた者の一人でしたので、本書の出版を心待ちにしていました。出版後早速入手して、研究会議の感動を新たにしつつ読了しました。

本書の主題は、タイトルにもあるように「聖書信仰」です。この言葉は、福音主義キリスト教の核心をなすものとしてしばしば語られますが、それはそもそもどのようなものなのでしょうか?藤本先生は本書の冒頭で次のように述べておられます。

「聖書信仰」という表現には、あたかも聖書を神やキリストと同じく信仰の対象であるかのような印象を与えるので、違和感を覚えるかも知れない。ただ、この日本語の表現は、戦前から岡田稔等が、いわゆる聖書の逐語霊感説・十全霊感説に立つという聖書理解を、当時一世を風靡した高倉徳太郎の『福音主義キリスト教』と区別するために用いてきたことに端を発している。私はこのような「聖書信仰」の定義づけを固守するために本書を記しているのではない。むしろ、「聖書を誤りなき神の言葉」とするという福音主義の聖書理解を歴史的な流れにそって検証することで、この言葉に含まれる真意を明らかにし、さらに今後の可能性を論じてみようと思っている。(16頁、強調は引用者)

今日の福音主義では、「聖書信仰」は逐語霊感(神の霊感は聖書記者の言葉の選択のレベルにまで及んでいる)、十全霊感(聖書はその全体が霊感されている)、そして無誤性(聖書は科学や歴史に関することがらを含め、すべての内容に関して誤りがない)といった諸概念と関連づけて語られることが多いですが、藤本先生はそのような福音主義の聖書観が形成されてきた歴史的過程を宗教改革にまで遡って丁寧にあとづけ、さらにポストモダニズムなどの現代的課題にも触れながら、将来の可能性を探っておられます。

特に、聖書信仰の歴史をたどることによって、福音主義における聖書理解には歴史的に豊かな多様性があったことを説得力を持って描き出している前半部分の議論はたいへん貴重です。先生ご自身の表現によりますと、福音主義の「聖書信仰」という「水槽の中には複数の流れがあり、その中を泳ぐ魚の種類が多」かった(392頁)ということです。

宗教改革に端を発するプロテスタントの聖書観の歴史は決して単一のラインで発展してきたわけではありません。本書ではそれが大きく二つの流れでとらえられています。一方は17世紀プロテスタント正統主義につながる主知主義的に真理を追求する流れで、これはプリンストン神学からファンダメンタリズムを経て、主にアメリカの保守的な新福音主義に受け継がれ、さらに日本の福音主義にも大きな影響を与えてきました。この流れでは、客観的な真理の啓示としての聖書の側面が強調され、「誤りのない聖書」というア・プリオリな前提から出発して神学の体系を構築していこうとしました。上で述べたような、逐語霊感・十全霊感・無誤性といった今日の福音派に馴染み深い概念はここから生じ、無誤性は自由主義と聖書批評学に対する防波堤の役割を果たすようになっていきます。

もう一つの流れは18世紀の敬虔主義と信仰復興運動につながるもので、神が今日聖書を通して人間に語りかけ救いに導く力という、聖書の機能的・救済論的な側面を強調します。藤本先生は「信仰的な批評学believing criticism」を掲げて、聖書批評学に対してより開かれた態度を見せるイギリス福音主義もこの流れの中に位置づけています。

本書によると、今日のアメリカや日本の福音主義「聖書信仰」に直結する重要な歴史的転回点となったのは、1970年代にアメリカにおいて福音派の保守勢力が、その聖書観を一気に硬化させたことです。1976年にハロルド・リンゼル著『聖書のための戦い』(「 これほどまでに時代を後退させ、過去に論争を蒸し返した本はなかったであろう。 」152頁)が出版され、その2年後には「聖書の無誤性に関するシカゴ声明」が出されました。この声明は聖書の無誤性を強力に打ちだし、「これまで存在してきた福音主義の聖書理解の『幅』を否定した」ものであったとされています(213頁)。このような限定された形での「聖書信仰」は日本の福音派にも影響を与え、日本プロテスタント聖書信仰同盟(JPC)が1987年に発表した「聖書の権威に関する宣言」においても、基本的にシカゴ声明の路線が踏襲されています。日本では1980年代に聖書論に関する論争が行われましたが、議論の深まりが見られないまま簡単な幕引きがなされてしまったため、「日本においては、シカゴ宣言によって、福音派の聖書信仰は身動きが取れない定式にはめ込まれることになったのである。」というのが藤本先生の評価です(215頁)。

本書の後半では、近年における聖書論の展開を概観しつつ、福音主義「聖書信仰」の可能性を探るという内容になっています。ここで取り上げられているのは主にシカゴ声明に典型的に見られるようなモダニズム的聖書観にポストモダンの立場から加えられている批判(命題中心主義や基礎付け主義への批判、物語や共同体の強調など)に対して、より柔軟に対話をしていこうとする態度です。

いまやポスト近代による近代の批判は定着しているのではないだろうか。近代主義が批判されれば、近代の思想的背景をもって形づくられた聖書観も批判を受けて当然である。そのような批判がなされるときに、過剰な拒否反応は不要ではないだろうか。(18頁)

このような藤本先生の主張は、前半の歴史的分析で明らかにされた福音主義聖書観の多様性というコンテクストに照らして考える時、決して単なる時流への迎合ではなく、むしろかつての福音主義が持っていた豊かな聖書観を取り戻していこうという呼びかけであることが分かります。ハンス・フライの「寛容な正統主義generous orthodoxy」という表現を引きながら、「福音主義にはそもそも、そのような『寛容さ』が歴史的に備わっていた。」と先生は言われます(393頁)。そして、福音派の教会がそのような素晴らしい歴史的遺産を継承しつつ、新しい考えにもオープンな姿勢で対話を深めていくことが、これからの福音主義の発展のために必要であるというのです。

聖書を誤りなき神の言葉として信じている純粋な信仰に水を差すつもりはない。ただ、信仰者が聖書を読んで様々な疑問を持つとき、それらの疑問を一辺倒に「聖書信仰」という看板で抑えつけ、批評学を批判し、聖書とは本質的にどのような書物であるのか、聖書をめぐる様々な考え方を無視するようであれば、それは先に紹介したマーク・ノルの言う「福音主義のスキャンダル」である。(394頁)

上で見た福音主義聖書論の二つの大きな潮流、すなわちプロテスタント正統主義の流れと敬虔主義の流れからいうと、本書のシンパシーは明らかに後者にあります。しかし、藤本先生は決して前者を敵に回すことは意図していないと明言されます。そこには「あれかこれか」の二者択一ではなく、その多様性をむしろ福音主義の豊かさとして積極的に評価していこうと言う姿勢を見ることができます。

聖書信仰は新たな多くの可能性を取り込んでモザイク的で良いと筆者は思っている。なぜなら、福音主義の聖書信仰は歴史的にそのようなものであったからである。(398頁)

本書は福音派の中ではかなりセンシティブな問題に正面から取り組んだ意欲作といえます。藤本先生の「聖書信仰」理解や個別の論点について同意しない方もおられるかもしれません。しかし、「霊感」や「無誤性」に関する議論がともすると感情的な水掛け論やレッテル貼りに終始してしまう危険性をはらんでいることを考えると、本書のように歴史的なコンテクストの中に議論を位置づけることによって、より冷静で有意義な対話が生まれてくるのではないかと思います。そして、論争を引き起こす可能性のある本書をあえて世に問うた出版社の英断にも拍手を送りたいと思います。教職者・神学生はもちろん、広く福音派のクリスチャンに読んでいただきたい、おすすめの一冊です。

 

N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(4)

その1 その2 その3

前回に引き続いて、第2部「太陽を見つめる」を見ていきます。前回とりあげた第5章では、ライトはキリスト教の世界観を提示しました。すなわち、神がおられる場としての「天」と、人間が住む場としての「地」は、完全に一致しているわけでも完全に分離しているわけでもなく、部分的に重なり合い、かみ合っている関係でとらえられています。

第6章から第10章まで、いよいよライトはキリスト教が提示する物語(ストーリー)とはどのようなものかを語り始めます。第5章で彼が世界観について語ったのは、いわばその物語のための舞台を設定する作業だったと言って良いと思います。

キリスト教のメッセージとは何かということについて、ライトは第5章の冒頭で次のように語っています。

クリスチャンは、神と世界についての真実の物語(ストーリー)を語っていると主張する。(81頁)

ここで彼が使っている「物語(ストーリー)」ということばに注目する必要があります。ライトはキリスト教のメッセージとは、抽象的な教理の体系ではなく、なによりも一つの物語であると主張しているのです。

キリスト教のメッセージの中心的な資料は言うまでもなく聖書です。では聖書とはどのような本なのでしょうか?多くの人々は、聖書とは人がいかに生きるべきかのマニュアル、救われるために何をすべきで何をしてはいけないかが書かれているルールブック、または、神についてのさまざまな情報が述べられている百科事典のようなものであると考えています。聖書にそのような側面がないわけではありませんが、それらは聖書の本質をとらえた理解ではありません。実際に聖書を手に取ってみれば一目瞭然ですが、聖書はマニュアルやルールブックや百科事典のように、主題別に系統立てて整理されて書かれている書物ではありません。時にはそのように読める部分もありますが、それらはさらに大きな全体の一部に過ぎないのです。

聖書を全体としてとらえたとき、最も適切な理解は、それを一つの長い物語(ストーリー)として読むことです。旧新約聖書66巻からなる正典聖書は全体としてみれば、宇宙と人類の創造に始まり、人類の救済と宇宙の再創造に至る、一つの壮大な物語であると言うことができます。

(先に進む前に一言ことわっておきますが、ライトが聖書について「物語」や「ストーリー」と言う時、それは必ずしも「作り話」「フィクション」という意味ではありません。聖書学ではそのような誤解を避けるために「ナラティヴ」という用語を使うこともあります。)

西洋のキリスト教において、聖書はしばしば神や世界、人間についての命題(「神は愛である」「すべての人は罪人である」等々)を含む書物であり、神学の任務は聖書のあちこちに断片的に含まれるそのような命題を抽出して、聖書以外の情報源(人間の体験や理性や伝統など)も加味しながら体系的に整理しなおすことであると考えられてきました。そのような営みを「組織神学」といいます。

組織神学は、キリスト教の信仰内容を秩序だって提示するにはたいへん有益ですが、一つの問題が生じます。つまり、組織神学においては、神のことばである聖書は、命題的真理を抽出するための単なる素材に過ぎなくなってしまうということです。神学者の務めは、聖書という鉱床から様々な神についての命題という原石を掘り出し、磨き上げ、種類ごとに整理して陳列することであって、ひとたび見事な宝石のコレクションが完成したら、もはや元の鉱床が顧みられることはありません。同様に、もし神学者たちが聖書に含まれるあらゆる命題的真理を正確に抽出し、緻密な体系に組み立てていくことによって、「完璧な組織神学書」が書かれることができた暁には、もとの聖書そのものは、果汁を絞り尽くされた後のオレンジの皮のように、用済みになってしまうのでしょうか?

もちろん、実際にそのようなことが口に出されることはありません。神のことばとしての聖書には、(少なくとも形式的には)今も昔も十分な敬意が払われ、尊重されています。けれども実質的には、聖書は神についての命題的真理という宝物が豊富にしかしランダムに詰め込まれた宝物庫のようにみなされていることが多いように思います。これは神学者だけの話ではありません。多くのクリスチャンが「デボーション」と称して日々聖書を読んでいます。しかし、しばしばそこで読まれる断片的な聖句は聖書全体の大きなストーリーラインの中で理解されるのではなく、その日の箇所からいかに貴重な「霊的教訓」を得ることができるかということに関心が寄せられています。そのような聖書理解は、多くの場合オリジナルの文脈から切り離された解釈で、聖書記者の意図とはかけ離れたものであるばかりでなく、そもそもそのような「教訓」を適用すべき自分たちが、歴史における神のご計画の中でどのような位置にあるのかも顧みられずになされることが多いため、かなり偏った主観的な解釈と適用に終わってしまうことが少なくありません。

組織神学がまったく無用の長物だというつもりは毛頭ありません。しかし、長らく西洋のキリスト教では聖書の命題的側面がナラティヴ的側面に対して過度に重視されてきたことは事実です(恐らくこれと関連して、新約聖書学において、福音書がパウロ書簡に比べて相対的に軽視されがちな傾向もあったと思います)。これに対して、20世紀になって聖書のナラティヴ的側面を重視しようとする流れが起こってきました。ライトもその流れの中にあると考えることができます。

物語は要約してしまうとその魅力やインパクトを失ってしまいます。言い換えると、ナラティヴは単なる命題の集合に還元することはできないのです。ナラティヴを本当に理解するためには、その全体を読み、味わい、その物語世界に入り込んでいって、一連の出来事を追体験していくことが必要になってきます。そして、ライトによると、これこそがまさに聖書の正しい読み方なのです。クリスチャンは聖書を物語として読み、聖書に描かれている神の物語を語り告げる民なのです。その物語とは、神がいかにして人類と被造物世界の救いを達成されるかという救いの歴史、「救済史」にほかなりません。

このように、本書において、ライトは前回見たような天と地が部分的に重なりあう世界観を縦糸に、救済史を横糸にして、キリスト教とは何かを描き出していきます。次回は、ライトが描く聖書の救済史について具体的に見て行きたいと思います。

(続く)