2022年活動報告

しばらくブログの更新を怠っているうちに、もう12月になってしまいましたので、今年一年の活動を振り返ってみたいと思います。

『福音と世界』新約釈義連載(ルカ福音書)

こちらの記事でも書きましたように、『福音と世界』誌で釈義の連載を仰せつかりました。最初はいつまで続くかという思いでやっていましたが、なんとか一年終えることができて感謝しています。

  

聖書釈義は終わりのない営みで、やろうと思えばどこまでも深掘りができる世界です。どこまでやってもやり切ったという感覚を得ることができないので、毎回「もっとできたのではないか」という後悔の念とともに原稿を提出しています。けれども、逆に定期的な締切があることで区切りをつけて前に進んでいくことができるのはありがたいことです。何よりも、個人的に最も思い入れのあるルカ福音書の釈義に心ゆくまで没頭できるのは無上の喜びです。毎月数節というカタツムリのようなスピードで進めていますが、来年も楽しみながら取り組ませていただきたいと思います。

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信仰、理性、疑い、そして聖書

神学校で教えていると、多くの学生が知的な学びと信仰や霊性との間に葛藤を覚えるという現実に毎年直面します。神学や聖書学などの学びを通して自らの信仰を理性的に反省していくうちに、それまでの人生で育んできた信仰理解との間に齟齬や違和感を感じることがあります。また、これまで何の疑問も感じていなかったテーマについて、同じキリスト者の間でも多様な考えがあることに混乱を覚えることもあります。学べば学ぶほど聖書や神が分からなくなるということも起こってきます。

実はこれは珍しい現象ではありません。神学校とは少し環境が異なりますが、アメリカの福音主義キリスト教系大学における、同じような問題について、次のような記事があります。

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祈りII(詩)

祈りII―詩的変奏―

黒く乾いた炭の上に
一片の香を そっと載せ
静かに 火を待ち望む

やがて火がともると
一すじの祈りが生まれ
炉の中でくゆり立つ











細く
細く
天に
向かって
のぼり
たゆたい
ひろがり
やがて 虚 空 に 消 え る

祈りが終わったとき
世界はいつものように回り続け
天は黙って見下ろしている

あとに残るのは
堂に満ちる芳香 静寂 そして
雪白の灰

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“Jesus Creed” (スコット・マクナイト)への寄稿2

先日公開した「聖書のグランドナラティヴ再考」(1)(2)の英語版を、スコット・マクナイトのブログJesus Creedに寄稿しましたので、このブログでもお知らせします。日本語の原稿に多少手を加えてあります。

Putting the Bible Together: Re-visioning the Grand Narrative of the Bible

JesusCreed

Jesus Creedへの過去の投稿記事、またマクナイト博士については、こちらをご覧ください。

 

小文字のキリスト教

これが当ブログ通算100回目の投稿になります。開設したのが昨年の11月16日でしたから、ほぼ1年かかったことになります。毎日のように更新されるブログに比べるとまことに遅々たるペースですが、ここまで続けることができて感謝しています。当初はここまで続くとは正直思っていませんでした。いつも読んでくださっている方々に心から感謝します。

ということで、今回は現在進行中のシリーズはお休みして、以前から考えていることをお分ちしたいと思います。

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何年も前のことになりますが、はじめて英語で使徒信条を読んだ時、日本語では「我は・・・聖なる公同の教会・・・を信ず。」と訳されている部分が英語では”I believe in . . . the holy catholic Church”となっているのを知って、とても興味深く思いました。これはもちろん、いわゆるローマ・カトリック教会を指しているわけではありません。英語のcatholicカトリコスというギリシア語に由来する言葉で、「普遍的」という意味があります。ですから、プロテスタントに限らずすべての教派のクリスチャンが使徒信条を唱える時には、キリストのからだとしての普遍的な(「公同の」)教会に属しているということを告白しているのです。これに対してローマ・カトリック教会はRoman Catholic Churchと言いますが、ここでのCatholicは大文字で書かれ、ローマ教皇を最高指導者とする特定の教派を言います。

同じことはorthodoxということばについても当てはまります。これは本来は「正しい教え・賛美を持つ」を意味するギリシア語オルトドクソスから来ており、使徒たちに遡る正統的な信仰を意味します。しかし、大文字でOrthodox Churchというといわゆる東方正教会という特定の教派を指すことになります。

キリスト者としての自分の位置づけはといえば、敢えていうなら「福音派Evangelical Christianity」に属する者です。この言葉は一般的な用法で言えば、聖書の権威とイエス・キリストへの信仰による個人的回心を重んじる保守的プロテスタントの諸教会を指しますが、語源的には福音(エウアンゲリオン)に根ざしている教会、という意味です。

このような大文字(Catholic, Orthodox, Evangelical)小文字(catholic, orthodox, evangelical)の表現には興味深い違いが表れていると思います。それぞれ、元来は全キリスト教会に当てはまるべき重要な特質(普遍、正統、福音的)を表した形容詞でありながら、それを大文字化して特定の教派の名称にしてしまうと、あたかもその特質がその教派の専売特許であるかのような錯覚を与えてしまう危険性があるのではないかと思います。そしてそのような「大文字化」の背後に、自分たちのグループのみが神の真理を代表しているという排他的独善性が見え隠れするように感じているのは私だけでしょうか。

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このことに関して興味深い記述がパウロのコリント人への手紙の中に見いだせます:

さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。みな語ることを一つにして、お互の間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい。 わたしの兄弟たちよ。実は、クロエの家の者たちから、あなたがたの間に争いがあると聞かされている。はっきり言うと、あなたがたがそれぞれ、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」と言い合っていることである。(1コリント1章10-12節)

コリント教会の中心的な問題は、教会に分派があったことです。それぞれのグループは特定の指導者を担ぎ上げて、「パウロ派」や「アポロ派」「ケパ(ペテロ)派」などに分かれて争っていました。ところがここで興味深いのは、そのような分派の中に「キリスト派」とでもいうべきグループがあったということです。これは何を意味しているのでしょうか?クリスチャンが「わたしはキリストにつく」と言うことのどこが問題なのでしょうか?

おそらく、ここで言われているのは、「自分たちだけがキリストに忠実なグループである」と主張し、他の人々を見下しているような分派ではないかと思われます。「私たちはキリストにつく」と言えば、他のクリスチャンたちはキリストについていない、ということを暗に意味します。「キリストへの忠誠」という、クリスチャンにとって最も大切な特質も、それが排他性を帯びてくるときに、教会に分裂をもたらし、神の国の働きを妨げる結果になってしまうということです。同様に、現代の私たちも自分たちだけが「普遍的」「正統的」「福音的」な教会であるという自負を持つとき、コリントの「キリスト派」と同じ過ちを犯していることにならないでしょうか。

この大文字と小文字の違いは、自分にとってキリスト者としてのアイデンティティを考える上でとても重要です。私はいわゆるカトリック(大文字のCatholic)信徒ではありませんが、公同の(小文字のcatholic)教会に属するクリスチャンとして、同じ信仰を共有する他教派のキリスト者と交わり、彼らから学んでいきたいと願っています。同様に、私は大文字のOrthodox Church(正教会)に所属してはいませんが、初代教会につながる正統的な(orthodox)信仰を保持する者でありたいと願っています。さらに、私は広い意味での福音派Evangelicalに属する者ですが、いわゆる「福音派」だけが福音に根ざした(evangelical)キリスト教であるとは思っていません。福音派であろうとなかろうと、イエス・キリストの良い知らせ(福音、エウアンゲリオン)を受け入れ、これを宣べ伝える人々とは神の家族であると思っています。

もちろんこれは、キリスト者が特定の教派に属することを否定するものではありませんし、私も歴史の中で培われてきたそれぞれの教派的伝統の意義は十分に認めています。しかし、ここで述べてきたようなキリスト教の特質は、本来全教会の共有財産であるべきものだということを意識するだけで、教派的背景の異なる兄弟姉妹とも偏見なく交流を持つことができるようになるのではないかと思います。ですから、evangelicalなカトリック信徒やcatholicな正教徒がいてもいいし、orthodoxなプロテスタントのクリスチャンも当然あってしかるべきだと思います。

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「神学する」というと、自分の所属する特定の教派や伝統の独自性に強調点が置かれることが多いですが、時には一歩下がって、自分の信仰をより大きな、よりジェネリックな「キリスト教」の枠組みの中で見つめ直してみることも必要であると思います。N・T・ライトは端的にクリスチャンであることについて書きましたし(Simply Christian、邦訳は『クリスチャンであるとは』)、C・S・ルイスは「ただのキリスト教」(Mere Christianity、邦訳は『キリスト教の精髄』)について語りました。同じような問題意識の下、私はcatholic, orthodox, evangelicalといった「小文字のキリスト教 small-letter Christianity」という信仰のあり方を追い求めていきたいと思います。

「福音」とは何か(関野祐二師ゲスト投稿 その1)

前回の投稿で、次回の投稿では「本ブログ初となる、ある試みを行おうと考えています。」と書きましたが、今回はこのブログで初めてゲストブロガーをお迎えしたいと思います。先日の公開講演会で講師を務めてくださった関野祐二先生ご本人が寄稿してくださることになりました。お忙しい中、寄稿依頼に快く応じてくださった先生に心から感謝いたします。

この投稿は、基本的に講演会で先生がお話しくださった内容に基いて書いていただきましたが、この中で取り上げられている主題は、海外の福音派キリスト者の間で近年盛んに議論されていながら、日本の福音主義キリスト教会ではまだ紹介され始めたばかりのものもあります。したがって、福音主義のフォーマットの中でこのような話題を取り上げること自体に違和感や拒否反応を覚える方々もおられるかもしれません。しかし、個々の結論に同意するしないは別として、自分と異なる意見に謙虚に耳を傾け、建設的な開かれた議論を展開できる「違いの違いが分かるキリスト者として、寛容に受け止めていただけることを願っています。

それでは、お楽しみください。

関野祐二2013年4月

お邪魔します。人気コンサートの舞台に友情出演で引っ張り出されたような不思議な感覚です。下手なパフォーマンスでブログの品位を落とさぬよう気をつけますから、どうぞおつきあいください。

今回講師を務めた5月11日の中部春期公開講演会「『福音』とは何か」は、昨年11月に行われた全国神学研究会議「福音主義神学、その行くべき方向 ――聖書信仰と福音主義神学の未来――」の延長線上にあります。私たち福音派の依って立つ福音主義神学とは何か、そのアイデンティティと方向性を探る作業をしていけば、必然的に「福音」の中身をも問われることになるからです。福音主義は「福音への献身、コミットメント」が身上。では何をもって福音(よい知らせ)と考えるのかですが、「主イエスの十字架による救い」と答えるのは正解ですし、聖書メッセージの要約かつ結論としての模範解答でもあります。ただ、あの東日本大震災を契機に、十字架のメッセージを含めた、より包括的(ホリスティックな)福音が問われるようになり、もっと全人格的、全生活的な「よい知らせ」を旧新約聖書全体から受け止めたいという機運が高まりました。逆に言えば、今までの福音理解がどちらかというと個人的、霊的、未来的な意味に偏り、この世の具体的状況における生き方の問題(たとえばキリスト者として被災地に駆けつけ何をすべきなのか)から乖離した内容に傾きがちだったとも言えましょう。

その一方で、欧米を中心に福音理解とそれに関連するホットイシューがさまざま研究され、議論されるようになってきました。福音派にとってふさわしい(安全な?)テーマかどうか、どんな内容なのかはひとまず脇において項目だけ並べれば、物語神学、開かれた神論、パウロ研究の新たな視点(NPP)、聖書の無誤性理解、創世記1~3章の解釈、関連するアダムの歴史性と原罪、被造物統治/管理などなど。残念ながら、日本の福音派ではどれもまだ議論が始まったばかりの状況で、だからこそ昨年11月の全国神学研究会議がこうした事がらを取り上げ、正面から福音主義アイデンティティを探求する場となったわけです。

実は「『福音』とは何か」という問いかけは自分自身にとっても古くて新しいテーマ。2010年3月15日の『リバイバルジャパン』に、同じタイトルで寄稿しているからです。長くなるのでその内容をここで詳しくはお伝えしませんが―――いや、せっかくですから少しだけ。Ⅰコリント15:1でパウロがコリント教会員に「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう」と改まった口調で語るその福音とは、「キリスト復活、私も復活」がポイントでした。神の贖い物語の結論として主イエスが死からよみがえり、それを信じる私たちも復活した人生をこの地上に先取りされた神の国で生き、神の物語の一端を担いつつ、新しい価値観を生きて神と人に仕え、からだの復活と救いの完成を待ち望む―――

あれから約5年が経ち、その間に社会では震災や原発事故、急速な右傾化をはじめ多くの出来事が発生、個人的にも先に挙げたような神学テーマとの格闘を経験して、「福音」理解がより包括的に(ある意味で振れ幅大きく)なってきたような気がします。以下、その一端を紹介しましょう。

まず「福音とアダムの史実性」ですが、このタイトルだけでびっくりし、つまずいてしまわぬよう願います。なぜ今「アダム」なのか、それは、「福音とは何か」を探求する上で、創世記1章~3章の解釈がとても重要であり、とどのつまり創世記1~3章をどう読むかは「アダム」という存在をどう考えるかに集約され得るからです。創世記1~3章は、神が「自然」を創造した目的と、神のかたちとして創造した人が「自然」すなわち「地」を管理する使命を与えられたことが記され、福音によって本来の姿に回復させられた人間が、神との協働により本来の意味で地を統治/管理すべきことを教えます。また創世記1~3章は、人間が罪を犯し、この世界が当初の状態からどう変わってしまったのか、最初の罪はどのように後世へと伝達されたのか、壊れてしまった「地」と堕落した人間は福音によってどう「贖われ」、新天新地へとつながるのか、その原点を示します。そして創世記1~3章は、聖書と科学の関係性や聖書の無誤性を考える際、その記述を字義通り読むべきか否か、一般の自然科学分野で今や常識とされる進化論(進化生物学)や人類の起源との関係性や整合性をどう判断するか、重要な箇所。以上三つの意味で、創世記1~3章における「アダム」の存在理解は鍵となるのです。

「福音」とは、天国行きの希望を与える意味でもたいせつですが、今この地上で生かされている私たちの生き方を決定づける「よい知らせ」でもあるはず。ならば、この世の学問的常識とも真摯に向き合わなければなりません。これまで福音派の私たちは、どちらかというと自然科学を無神論的営みとして信仰の対立軸と捉え、創世記冒頭の記事を単純に字義的解釈し、24時間×6日間で宇宙は無から創造され、特別創造された完成体としてのアダムとエバからすべての人類が発祥し、罪も遺伝的に後の全人類へと伝達されたと解釈するのが一般的でした。聖書記述をそのまま字義通り読むことが霊的であるとされ、疑問を差し挟む者には、無誤性を否定しているとか、福音的でないとの批判が浴びせられる傾向があったのです。近年、古生物学における化石記録の研究成果に加え、分子生物学によるヒトゲノム(人間のDNA)研究の急速な進歩によって、現世人類(ホモ・サピエンス)が約15万年前のアフリカ起源であると推定され、キリスト教界でも一般の自然科学に価値を見いだすグループにおいては、創世記1章~3章に記録された創造と堕落記事の意図や解釈、文学的性質、古代近東の文化的背景理解とともに、最初の人アダムの史実性問題が浮上してきました。これは、アダムとエバが歴史的にも最初の人類で後のすべての人類はアダムとエバという一組の夫婦から始まったのか、人が「神のかたち」として他の生き物と区別されたのは、いつどのようにしてなのか、原罪はどのように始まり次世代へ伝達されたのかなど、福音理解と根本教理に直接かかわる、きわめて重要なテーマなのです。鍵はやはり「アダム」の存在とその意味合いです。

ホイートン大学の旧約学教授ジョン・ウォルトンは、著書『創世記1章の失われた世界 ――古代宇宙論と起源に関する議論――』(邦訳未刊、2009年)、続編の『アダムとエバの失われた世界 ――創世記2章3章と人間の起源に関する議論――』(邦訳未刊、2015年3月)において、次のように述べています。創世記は古代文献であって、現代科学の書物ではない。古代世界の文脈に沿ってテキストを読み、著者が真に伝えたかったこと、当時の聴衆が明瞭に理解したことを知るのが真の字義的解釈であり、それは我々現代人の伝統的に理解してきたこととかけ離れている。創世記1章は古代近東の文脈から考えて宇宙的神殿落成の観点から読むのが妥当であり、物質の起源よりも機能的起源(特に人間の機能、function)の叙述として読むべきである。宇宙的神殿は人間の益のために諸機能がセットアップされ、神が被造物との関係性の中で住まわれるのだ。創世記1章から5章において、「アダム」という用語は多様な方法で使われ、人類全体を指す場合、原型的な(archetypal)人を指す場合、人類の代表者を指す場合、固有名詞の場合、特異的に用いられる場合とがある。「土地のちりで人を形造り」「あばら骨をひとりの女に造り上げ」は原型的な表現であり、物質的起源の主張ではない。新約聖書は、アダムとエバに関し、生物学的な先祖としてよりも、我々全員に当てはまる原型的な存在として関心を持っている。にもかかわらず彼らは過去現実に存在していた実在の人物であった。

不十分な紹介で恐縮ですが、ウォルトンの主張は米国の福音主義神学会でも注目を集めており、日本において「福音とは何か」を創世記のアダム理解から探求するに際し、賛成や反対いずれの立場であっても、彼の問題提起を真摯に検討する必要があると思われます。スコット・マクナイトやN.T.ライトなど、日本でも評価の高まりつつある聖書学者たちがウォルトンの研究を評価していることも付記しておきましょう。

(続く)

関野祐二先生講演会「『福音』とは何か」

昨日5月11日(月)、日本福音主義神学会中部部会の春の公開講演会が金山キリスト教会を会場に開かれました。毎年中部部会の春の講演会は、中部以外の地区の先生を講師としてお招きしていますが、今年は関野祐二先生(聖契神学校校長)をお招きして、「『福音』とは何か」というテーマでお話しをいただきました。

関野師講演会2 関野氏講演1

関野先生は昨年11月に関西聖書学院で行われた福音主義神学会の全国研究会議でも、教理部門の主題講演を担当されました。こちらのサイトにその時のレジメと講演動画(部分)がアップされています。その講演内容を元に、『福音主義神学』45号に「震災後の日本における福音主義神学の教理的課題」という論文を発表しておられます。

これらの講演及び論文では、現代福音主義神学の多様な課題を概観する内容になっていましたが、今回の中部部会の講演会では、さらにテーマを絞って、「福音」についてお話しをいただき、ディスカッションの時を持つことになりました。

「福音(良い知らせ)」は単に「福音派」と呼ばれる人々だけでなく、すべてのキリスト者の信仰の基盤であり、中核であるべきものです。しかし、クリスチャンは「福音」をあまりにも身近に感じているがゆえに、その言葉の意味内容を良く把握しないままで使ってしまっている部分があるのかもしれません。また、近年英米の福音主義キリスト教会の内部でも、罪の赦しと魂の救いに特化した個人主義的な福音理解を超えて、福音とは何かを改めて問い直す動きが起こってきており、そのような問題意識は日本でも共有されるようになってきました。その象徴的な事件が、スコット・マクナイトの『福音の再発見』が邦訳出版されたできごとでしょう。今回の講演会でも、約20名の方々が参加してくださいましたが、これは小所帯の中部部会にしては多い方でした。このテーマへの関心の深さを伺わせます。

当日は私が司会を務め、まず先生から約90分の講演をいただき、それを受けて会場からの質疑応答とフリーディスカッションの時を持ちました。自分と異なる見解を最初から切り捨てようとするのではなく、相手の立場を尊重した実り多いディスカッションができたと思います。後で関野先生からいただいたメールでも、「講演会では、従来の福音派でははじかれてしまうような話も皆さんがよく聞いてくださり、ディスカッションにも加わって、いわゆる『斜に構える』ような方が誰もいらっしゃらなかったのが幸いでした。」とおっしゃっていただけました。

「『福音』とは何か」というテーマでは、当ブログでも以前に投稿したことがありましたが(その1 その2)、関野先生はまた少し違った視点からこのテーマにアプローチしてくださいました。私自身も大変良い刺激を受け、多くを学ばせていただくことができて感謝しています。

余談ですが、関野先生とは講演会前に中部部会の理事会と昼食をご一緒しながら楽しい交わりの時が与えられました。天体観測がご趣味という先生は、同じく天文マニアのT理事と星や望遠鏡の話で大変盛り上がっておられました。講演会の後はすぐに東京に戻られ、聖契神学校で夜の授業を教えられたということです。お忙しいスケジュールの中、名古屋まで来てくださった関野先生と、参加者の皆様に感謝いたします。

さて、肝心の先生の講演内容については、次回の投稿でご紹介したい思います。その際、本ブログ初となる、ある試みを行おうと考えています。

おことわり:私は中部部会の理事長という立場にある者ですが、このブログ記事の内容はあくまで私個人の見解であり、中部部会の見解を代表するものではありません。)

 

 

 

 

 

 

鏡を通して見る

このブログのタイトル「鏡を通して (Through a Glass)」は新約聖書コリント人への第一の手紙13章12節から取っています。

「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。」(口語訳)

For now we see through a glass, darkly; but then face to face: now I know in part; but then shall I know even as also I am known.(KJV)

ここでパウロは終末(世の終わり)について語っています。「その時」というのはキリストの再臨の時であり、神の国の完全な到来の時です。その時には教会は神ご自身とキリストを直接知ることになるとパウロはいいます(黙示録22:3-4参照)。

しかし、このことは逆に言えば、「その時」が来るまでは、私たちは神を直接かつ完全に知ることはできないということです。私たちの知識は間接的かつ不完全なものです。この地上に生きている限り、神を完全に知ることは不可能なのです。

そのことをパウロは、「鏡を通して(鏡に映して)」見る、と表現しています。コリントは鏡の生産で有名でした。当時の鏡は金属の表面を磨いたもので、そこに映る像はゆがんでいたりぼんやりとしたものでしかありませんでした。もちろん、当時も上質の鏡は存在したようですが、パウロがここで述べているのは、鏡に映る像は、本物の一部しかとらえていないものだ、ということです。現代で言うなら、ある人を写真でしか知らない状態と、本人と顔を合わせて会った時の違いのようなものと言えば分かりやすいでしょう。

神を間接的に知る手段について、1コリント13章の文脈では、パウロはコリントのクリスチャンたちが重視していた様々な霊的賜物(預言、異言、霊的「知識」)について語っています。しかし、このことは「聖書解釈」ということについても当てはまると思います。

私は聖書は権威ある神のことばであると信じる者であり、その聖書を正しく解釈する道を追求しています。しかし、この箇所は、聖書のすべてを完全に理解し尽くすことは、この地上では不可能であることを示唆しているように思います。少しでもキリスト教に馴染みのある方なら、聖書の事実上あらゆる箇所について、何通りもの解釈が存在することを知っていることでしょう。聖書学を学べば学ぶほど、そのことを痛感させられています。

だからといって、聖書の正しい理解を追求する営みが無益であるということではありません。注意深く聖書を読んでいくことによって、多様な解釈のうちどれが相対的に妥当なものであるのかが分かってきます。聖書を学ぶということは、たゆまぬ努力によって、真理に限りなく肉薄していく試みと言ってよいでしょう。私たちが到達すべき真理は確かにあります。パウロはやがて顔と顔を合わせて見る日が来る、と言っています。私たちはその日を切望しつつ、日々励んでいくのです。

しかし、パウロのこの言葉は、私たちが自分の解釈は常に不完全・部分的であり、誤っている可能性があることを自覚するように教えています。神のことばは誤りがない真理であったとしても、神のことばに対する「私の解釈」はそうではありません。

ここから言えることは、私たちが聖書を学ぶ時、自分の解釈だけが真理であると独断的に主張してはならないということです。私たちは常によりよい解釈を求めて努力し続け、また同じく聖書を読んでいる他の人々の意見にも耳を傾けていかなければなりません。このような態度を「解釈学的謙遜(hermeneutical humility)」と呼びたいと思いますが、これは聖書を読む者がまず身につけるべき重要な徳目であると思います。

このブログも、そのように聖書の世界を「鏡を通して」見る試みの一つです。私たちにできることは、鏡に映る像が少しでも正確なものになるよう、その表面を丹念に磨き上げていくことです。

はじめまして

新約聖書学という分野を学んでいる者です。このブログでは聖書の話を中心に、日々感じたことや考えたことを綴っていきたいと思います。なるべく専門外の方々にも楽しんでいただけるような内容も含めていこうと考えています。
 

ブログに関しては初心者です。ある程度完成された自分の考えを発表する場は他にありますが、ここでは自分の中で発展途上のアイデアであってもあえて公開していこうと思っています。ですから、学問的に見て洗練されていない内容もあると思いますし、過去の投稿内容と首尾一貫していないことを書くこともあるかもしれません。また、ここはあくまでも個人のブログですので、ここで表明される私の意見は必ずしも私の属する団体や組織の意見を代表するものでないことを予めお断りしておきます。
 
それでは、よろしくお願いいたします。