『聖書信仰とその諸問題』への応答2(藤本満師)

その1

藤本満先生によるゲスト投稿の第2回目です。第1回目の記事には多くのアクセスをいただき、投稿当日の当ブログアクセス数はこれまでの最高記録を更新しました。この主題についてどのような立場を取るにせよ、関心の高さを感じています。寄稿くださっている藤本先生には心から感謝しています。

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2 1970~80年代日本の福音派における論争

『聖書信仰とその諸問題』(以下、『諸問題』)では、1970~80年代における福音派内の論争を拙著よりも詳しく取り扱っています(27~32頁)。その中で、JPC(日本プロテスタント聖書信仰同盟)の機関誌であった『聖書信仰』編集の責任をもちながら、その「ゆらぎ」の故に1983年のJPCの総会において、村瀬俊夫氏とともに引責辞任をした中澤啓介氏のことも取り上げてくださいました。感謝なことに、中澤氏の言葉が引用されています。

「その総会後、本論文を執筆した筆者(中澤氏)と機関誌の編集長だった村瀬俊夫氏は、引責辞任することになった。筆者は、本論文の中身はあまりに常識的なものであり、なぜこの程度のことが問題視されるのかがわからなかった。ただ、日本の福音派の神学的状況は、欧米に比べてかなり遅れていることだけは明らかになった。日本の福音派が、自らの聖書学と神学方法論は近代の認識論哲学以前のスコットランド常識哲学に基づいていることに気づき、その狭い神学的ゲットーから脱却しない限り、未来の展望は開かれていかない。筆者自身は、そのように確信した。そこで、しばらくの間福音派の中では冬眠することを決め込んだ」(『諸問題』、29~30頁)。

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『聖書信仰とその諸問題』への応答1(藤本満師)

以前当ブログで藤本満先生の著書『聖書信仰 その歴史と可能性』(いのちのことば社)の紹介をさせていただき、それに関連して先生にゲスト投稿をいただいたこともありました。

『聖書信仰』は現代日本の福音派プロテスタント教会の聖書観のルーツを歴史的に検証し、その意義を問い直す意欲作でしたが、福音派内で活発な論議を呼び起こしました。そんな中、同じいのちのことば社から『聖書信仰とその諸問題』が出版されました。同書は藤本先生の『聖書信仰』だけをとりあげて論じた本ではありませんが、藤本先生の名前は随所に登場してその主張にたいする反論がなされています。表題からしても『聖書信仰』が中心的な批判対象であることはほぼ間違いないと言ってよいでしょう。

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私はこのような問題に関してオープンな議論ができる雰囲気を作ることこそが、キリスト教会の健全化につながると考えていますので、こうした動きは歓迎したいと思いますし、異なる立場の方々の間でさらなる対話が進んでいくことを願っていました。

そんな中、嬉しいニュースが飛び込んできました。藤本先生ご本人より、この本に対して応答を計画しておられるので、それを当ブログ上で寄稿できないかというお問い合わせをいただいたのです。願ってもないお申し出に、二つ返事でお引き受けさせていただきました。これを機に聖書信仰に関する議論がさらに深まっていくことを願っています。貴重な投稿をいただいた藤本先生には心から感謝いたします。 続きを読む

N.T.ライト『新約聖書と神の民』について(山口希生氏ゲスト投稿 その2)

その1

山口希生さんによるゲスト投稿の2回目をお送りします。お忙しい中、寄稿してくださった山口さんに心より感謝します。

4月には山口さんを講師として『新約聖書と神の民』出版記念講演会も行われるとのことです(詳細はこちらこちらをご覧ください)。日本でのライトをめぐる議論がさらに活性化する、素晴らしい機会になると思います。

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『新約聖書と神の民』原書
The New Testament and the People of God

第二回

ユダヤ・キリスト教の創造主信仰

ユダヤ教とキリスト教が共有する根源的な信仰とは、この物質世界は善なる神の創られた世界であり、元来は非常に「良い」世界だったという信仰です。創造主である神への信仰ということです。この創造主信仰と対立するのは、物質的世界を劣ったもの、一時的なものと見なすプラトン主義、この世界が劣った神によって創造されたという「グノーシス主義」、さらにはサタンによって創造されたという「カタリ派」などの一群の宗教的思想です。これらの宗教思想は現世を悪い世として悲観的に見て、この世の人生の喜びを否定し、極端な禁欲主義を推奨します。キリスト教においても「この世との分離」が強調される面がありますので、一見するとグノーシス的禁欲主義もキリスト教的だと理解される場合があります。しかし、その根底にある世界観は全く正反対であると言えます。キリスト教が掲げるビジョンとは、この世の消滅ではなく刷新だからです。 続きを読む

N.T.ライト『新約聖書と神の民』について(山口希生氏ゲスト投稿 その1)

今回は新しいゲスト投稿者をお迎えします。N. T. ライト教授の指導の下で昨年セントアンドリュース大学から博士号を授与された山口希生(のりお)さんです。山口さんは最近新教出版社から日本語版(上巻)が出版されたライトの主著『新約聖書と神の民』の翻訳者であられます。同書について2回にわたって投稿をいただく予定です。

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『新約聖書と神の民』(上)

第一回

新約聖書の権威

この度邦訳出版されたN.T.ライトの「新約聖書と神の民」はずばり「新約聖書」についての本です。この比類のない書をどう読むべきか、特に神の民としての現代の教会がそれをどう読むべきかということが本書で問われています。新約聖書は教会にとって最も大切な書ですが、その「権威」は近代以降、常に挑戦を受けてきました。啓蒙主義が隆盛してゆく中で、まず新約聖書の記述の史実性、特に奇跡についての記述が疑問視されました。また、人々が抱く多様な価値観を等しく認めようというポストモダンの時代が到来すると、新約聖書の提示する倫理の規範性そのものが批判の対象となりました。このような現状を踏まえつつ、ライトは新約聖書の持つ「権威」を高く掲げます。しかしライトはその権威を学校の校則のようなルールとして捉えているわけではありません。端的に言えば、新約聖書の権威はストーリーの中にある、とライトは主張します。新約聖書全体が物語るストーリーは、私たちが世界をどのように理解し、その世界の中でどう行動すべきかを教え導いてくれる、そういう権威あるストーリーなのです。 続きを読む

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その7)

その1 その2 その3 その4 その5 その6

『聖書信仰』書評

藤本満先生によるゲスト投稿ですが、最終回の今回はフェミニズム神学について語ってくださいます。

私は男性がフェミニズム神学を論じることも、白人やアジア人が黒人神学を論じることも、重要であると考えています。「フェミニズム神学は女性がする神学」というステレオタイプが固定してしまうと、そもそも男女間の間にある隔ての壁を突き崩す可能性を持った神学が、より一層両者の溝を深めるセクト的神学にとどまってしまうのではないかと思います。ですので、今回藤本先生がフェミニズム神学を取り上げてくださったことを感謝しています。

藤本

しばらく間が空いてしまいました。先生のブログ読者の方々にも申し訳ないと思います。ところで、このブログの主催者のaboutのところをご覧になるとわかるのですが、山﨑ーランサムが御名字です。ご結婚されるとき、奥様の名字と合体させたとうかがいました。神さまが与えてくださった知恵です。

さて、寄稿は今回で最後なのですが、山﨑ランサム先生が投げてくださいました質問の中から、以下のものを取り上げさせてください。あくまで問題意識程度ですが、少し書かせてください。

Q.「結びにかえて」ではフェミニズム神学とフェミニズムの聖書解釈を本書で論じなかった点について触れられ、福音主義の立場からいずれ論じてみたいと書いておられます(398頁)。この点について、概略だけでもお聞かせ願えますか?

「フェミニズム神学」、またそれ以前に影響を与えた「解放の神学」が1970-80年代の遺物で、一世を風靡して消えていったと理解すべきではないと思います。解放の神学を考えてみます。解放の神学は、南米のキリスト教(特にその貧富の格差)が、ヨーロッパ植民地支配を依然として引きずっていて、その格差構造を教会が支えているという批判でした。社会経済構造の批判など、この神学はマルキシズムを援用したものであると批判されてきました。キリスト教的な解放運動がいつの間にか反政府勢力のイデオロギーと合体したなど、この神学が生み出した問題も多々ありました。

しかし、その神学的展開は出エジプトに始まる聖書の「解放」の神学的な本質を鋭く描き出しました。神学的運動としての「解放の神学」は今は活発ではありません。しかし、ここで指摘された、依然として世界を支配している「植民地支配の構造とキリスト教」というやっかいな問題は、しっかりとキリスト教神学の中心的課題と見なされるようになりました。現在、日本の教会で最も用いられている教会史の書物は、フスト・ゴンサレス『キリスト教史』上・下だろうと思いますが、この本が面白いのは、ゴンサレスがキューバ出身の教会史家だからでしょう。

格差構造を抱えた社会は、神学的には「聖書信仰」が厳しく批判の対象とすべき問題です。それは旧約聖書が厳しく批判するエジプト、アッシリヤ、バビロン、いやそればかりかイスラエル王国そのものの支配を見ればわかります。ブルッゲマン(『預言者の想像力』鎌野直人訳)は、同じ批判を見事に現代アメリカに適用します。私たちは聖書信仰のスタンスから、ヒットラーの第三帝国を、大日本帝国を、常に世界の覇者であろうとするアメリカを批判できます。支配する側ではなく、苦しむ人びとの側に十字架の主と共に立ち、悪(人)の支配から解放してくださる神に希望をもって行動することができます。確かに解放の神学は、「聖書」全体ではなく、「解放」のモチーフに振り回された感はありました。それでも、この問題にスポットを当てたという意味での貢献は、否定できないでしょう。

フェミニズム神学(最近は黒人女性の解放を目指すウーマニズムの立場からの神学も含みます)は、解放の神学から派生し、特に女性の視点からキリスト教神学を見直すというものでした。女性の視点、女性の経験から聖書を解釈し直すとは、未だかつてない大きな影響をキリスト教会に与えてしかるべきものです。なぜなら、古代から現代に至るまで、社会とキリスト教には父権的構造・考え方が染みついているからです。ハーバード大学の神学部に女性の入学が許されたのは1955年、つい60年前の出来事だったとは、いかにキリスト教が父権的であるかの象徴かもしれません。

さて、フェミニズム神学の幕が開けたときには、かなりショッキングな発言が出てきました。たとえば、この神学の礎を据えた一人であるローズマリー・リューサー(Rosemary Ruether)はこんな過激なことを言います。十字架を前に弟子たち(男性)はイエスを見捨てて逃げてしまいます。しかし、ゴルゴダの丘で主の十字架を見届けたのは数名の女性の弟子たちでした。さらに復活された主は、マグダラのマリアら女性の弟子たちに現れます。そのことを告げられたペテロは疑います。復活の主がご自身の存在をつぶさにお示しになったのはマグダラのマリアに対してでした(ヨハネ20:11-18)。主の復活を弟子たちに教えているのは彼女です(18)。リューサーは、もしマリアが復活の証人の第一人者と認められていたら、もし彼女が当時の社会で使徒となることを許されていたのなら……と想像を膨らませます(Ruether, Sexism and God-Talk)。

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復活のイエスに出会うマリア(フラ・アンジェリコ)

グノーシス文書で『マグダラのマリアによる福音書』がありますが、そんなことをリューサーは論じているのではありません。もし当時のイエスの共同体における女性の地位が男性と平等であったら、福音書の中身はどうなっていたのだろうか、と。もちろん、私たちは主が使徒として男性を立てられたという現実、また彼らが中心となって初代教会が構成され、教会権威が立ち上がり、やがて正典聖書ができあがっていったということに啓示の摂理があることにうなずいています。つまり、神の啓示はこの世に示され、それが父権的社会であるなら、その現実は神の啓示の摂理の中にあることを。

しかし、だからと言って、記されていないことを単なる想像として葬り去ることにも納得がいきません。たとえば、こういうことです。創世記16章にアブラハムの妻サラの奴隷ハガルのことが記されています。ハガルはエジプト人の女性であり、奴隷です。しかし、神はハガルを祝福されます。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる」(16:10)。これは、アブラハムが受けたのと同じ祝福です。それを女性であり奴隷であるハガルは、直接神から受けています。さて、聖書はハガルの子孫ことをその後記していません。それどころか、ユダヤ人やイスラームの人びとは、ハガルから生まれたイシュマエルをアラブ人の祖先と見ています。では、16:10で約束された祝福は、その後、どのように果たされたのでしょうか。少なくとも、その祝福は「絶えてはいない」と言うべきなのではないでしょうか。私は、イシュマエル民族に流れる神の祝福を描き出せるなどと考えているのではありません。しかし、少なくとも「記されていないから途絶えてしまった」と考えるべきではないと思っています。

記されていないところから、様々なことを知ることはできません。マグダラのマリアがどのように福音を体験し、どのような影響を初代教会の共同体に与えたのかを掘り下げて考えるには限りがあります。

ここで「記されていないこと」をたぐり、あるいは記されていても「社会的な背景が強い箇所」に注目しますと、聖書信仰の論理の道筋は、やがて以下に述べる問題に直面します。それを私は卑怯にも、論じることを避けます。しかし、こういう問題は考えなければならない、とだけ提示させてください。

まず、フェミニズム神学が提示してくる課題は、聖書信仰の基本中の基本である命題に関わります。「聖書は救いと信仰の実践において誤りなき」神の言葉であり、その側面において十全であると信じます。ところが、仮にそれが父権社会に傾いていたら、「いや」傾いていたとは言いたくありません。女性の経験・視点を覆い隠すように神の言葉を解釈していたら、神の言葉は、十全たり得ないでしょう。あるいは現代の複雑多岐の実践課題に対する結論を誤りなき神の言葉からどのように導き出すかに至っては、私たちの考えていること行っていることは、おおよそ無誤無謬からはほど遠いと考えるべきでしょう。

私たちは、「主張だけは」男女平等の世界に生きていると思います。しかし、この主張は比較的新しいもので、それが叶わなかった一つの妨げにキリスト教の男性優位主義が存在していたことを認めることも大切であろうと思います。

さらに、父権的な枠組みを、神の言葉の本質と考えるのか、それともそれを一つの社会背景として考えるのか。神は人を男と女とに造られ、男性主導、女性従属的な役割を授けられたのか。それとも男性も女性も神の像にあって等しく創造され、等しくあがなわれ、新に造られているのか。

個別の事象で言えば、コリントの教会に向けてパウロが記した、教会における女性の役割が取り上げられます(1コリント11:3-16、14:34-35)。これをそのまま受け取ることだけが聖書信仰とは言えないでしょう。これを父権的な枠組みの中、歴史的な制限の下にある教えと見なす(相対化する)ことも、聖書信仰に抵触するとは思えません。寄稿(1)で述べたように、神の啓示は旧約聖書であれ新約聖書であれ、歴史的現実の中に現されるからです。

絹川久子氏による『沈黙の声を聴く――マルコ福音書から』(日本キリスト教団出版局、2014年)などは、かなり詳しく当時の社会的背景に照らして、福音書に描かれる女性や弱者の叫び、またそれに応えるイエスを描いています。同時に、荒井献氏の『新約聖書の女性観』(岩波書店、1988年)などを読むと、初代のキリスト教共同体が、父権制の強いユダヤ・ギリシャ・ローマの世界にあって、独特な女性解放的要素に富んでいたことを説いています。あるいは、こんなことも考えます。日本は、女子ミッションの高等教育がとても盛んな国です。にもかかわらず、女性の社会進出が非常に遅れた国でもあります。女子ミッション教育は、父権制の強い日本社会を破ることができなかったのだろうか? それはなぜなのか? 東京基督教大学で教え、また東京女子大学の学長もなさった湊晶子氏は、福音派におけるフェミニズム神学(健全な意味で)の論客です。そのあたりをお聞きしてみたいとも思います(参考、湊晶子『女性のほんとうのひとり立ち』、いのちのことば社)。

福音主義神学会の学会誌32号(2001年)には、「女性教職論」との特集テーマのもと、湊晶子「女性教職の歴史神学的考察」、國重潔志「米国福音派における女性教職論」、稲垣緋紗子「賜物に性による差はあるのかとの問いをめぐって」が所収されています。

最後に一言。昨年、私は徳島にある大塚美術館を訪れる機会を得ました。その時、聖書をテーマとした絵画に造詣の深い町田俊之先生をお迎えして、様々な絵画についてご説明をいただきました。有名な17世紀オランダのレンブラントによる「放蕩息子」を前にして、先生がレンブラントの栄枯盛衰的な人生の最後にこの作品が描かれたことを教えてくださいました。そして、息子を迎える父の手が、右と左が明らかに違うことを。片方は父親の節くれ立った手。もう片方が、やさしい母親の手。まさに、そうだなぁ、と味わい深く絵画に見入ってしまいました。

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レンブラント「放蕩息子の帰還」

実は、山﨑ランサム先生からは、他にもご質問をいただきました。これ以上、私の寄稿で先生のブログスペースを乱すことはやめておきます。せめて先生からのご質問だけは記させてください。私たちの今後の課題となると確信しています。

先生、本当にありがとうございました。

Q.本書でもカール・バルトについてかなり積極的な評価がなされているように、福音主義の聖書信仰も、いわゆる福音派教会の内部だけで議論されてきたのではなく、福音派外のさまざまな立場との積極的対話から実り多いものが生まれてくるように思います。この点について、先生のお考えをお聞かせください。

Q.本書の貴重な貢献の一つに、欧米の福音主義だけでなく、日本における福音主義の歴史についても紹介しておられる 点が挙げられると思います。12章「戦後日本の聖書信仰」では、1980年代の聖書信仰論争までが描かれています。他の章ではより最 近の日本の神学者についても個別に触れておられますが、先生の目からご覧になって、ここ30年の日本の福音派における「聖書信仰」の 理解は、どのように変わってきたとお考えでしょうか?

Q.本書で先生が提唱しておられるような幅のある豊かな「聖書信仰」を、ポストモダンの社会に生きる日本のキリスト 教会が体現していくためには、具体的にどのようなことに留意していくべきと思われますか?教職者として、信徒として有益と思われるアドバイスをいただけると感謝です。

――(藤本ですが、この質問に対する答えは、すでにこのブログに豊かに記されています)

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(以下、山崎ランサムです)

藤本先生が今回取り上げてくださったフェミニズム神学、あるいはラテンアメリカの解放の神学、アメリカ合衆国の黒人神学、韓国の民衆神学等、何らかの形での社会正義の実現がキリスト教の福音の重要な部分を占めるとする一連の神学的運動について、福音的「聖書信仰」の立場からどう考えるかというのは、たいへん重要な問題だと思います。

先生が『聖書信仰』の中で論じておられるように、聖書信仰が真理の啓示としての聖書の側面だけでなく、救いを与える力を持つものとしての「救済論的聖書観」を含むものだとすれば、その「救い」は個人の魂の救済のみならず、社会や究極的には被造物世界全体の回復を射程に入れているものでなければならないと思います。そのような意味で、フェミニズム神学や解放の神学等の主張に全面的に同意することがなかったとしても、それらが提起している社会的正義の問題は、福音主義の聖書信仰にとっても決して無視することのできないものであると思います。

キリスト者といえども自らが生きる文化や社会の制約から完全に自由な「純粋な聖書信仰」を持つことは不可能です。そのような文化的社会的バイアスは、私たちの聖書理解にも必ず影響してきます。たとえばローマ16:7を考えて見ましょう。

私の同国人で私といっしょに投獄されたことのある、アンドロニコとユニアスにもよろしく。この人々は使徒たちの間によく知られている人々で、また私より先にキリストにある者となったのです。(新改訳第3版)

ここで新改訳聖書(新共同訳、口語訳も同様)が「ユニアス」と男性名で訳している人物は女性名の「ユニア」であると、最近の学者の多くは考えています。また、この箇所は彼女とアンドロニコ(おそらく彼女の夫)が(十二弟子ではなく広い意味での)使徒であった可能性を示唆しています。つまり、彼らは「使徒たちによく知られた人々」ということではなく、「使徒たちの中でもぬきんでた人々」ということです。

男性名「ユニアス」の記録はこの箇所以外の古代文献には存在せず、教父時代から中世にかけて、この箇所の人物は女性の「ユニア」であると考えられてきましたが、近代になってこれを「ユニアス」と取る解釈が一般化しました。ジェームズ・ダンはそのローマ書注解の中で、「この人物が男性であるに違いないという思い込みがあるということは、最初期キリスト教の性格と構造についての男性の厚顔さに対する顕著な批判となっている」と述べています。つまり、この人物は「ユニアス」という男性だとしてきた解釈史には、「使徒は女性であるはずがない」という男性優位主義的な偏見が多分に影響していると考えられるのです。

しかし、近年になってこのようなバイアスは多少是正されてきており、それが聖書翻訳にも反映されてきています(もちろんそれだけが翻訳の決め手ではありませんが)。英語圏で広く読まれているNew International Versionの1984年版と2011年版でローマ16:7を比較してみるとそのことがよく分かります。

Greet Andronicus and Junias, my relatives who have been in prison with me. They are outstanding among the apostles, and they were in Christ before I was.(1984年版

Greet Andronicus and Junia, my fellow Jews who have been in prison with me. They are outstanding among the apostles, and they were in Christ before I was.(2011年版

同時に、藤本先生も おっしゃるように、新約聖書が当時の父権社会に生きる人々に向けて語られた神の言葉であるということも忘れてはならないと思います。これは奴隷制についても同様です。福音派は聖書の神的側面を強調しすぎるあまり、当時の人々の世界観や文化的バイアスのレベルにまで神が降りてきてくださっ て語りかけられた、という事実を軽視してしまい、聖書の中にある、本来は福音の価値観にそぐわない文化的要素を「神のことば」の名の下に絶対視してしまう危険性があると思います。

藤本先生、7回にわたって当ブログに貴重な文章をお寄せくださり、心から感謝いたします。ありがとうございました。

(おわり)

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その6)

その1 その2 その3 その4 その5

藤本満先生によるゲスト投稿、6回目は、私(山崎ランサム)とのインタビュー形式でお送りいたします。

聖書信仰

聖書信仰』(再刷おめでとうございます!)

このたび、寄稿の最後に山﨑ランサム和彦先生が質問され、小生が少し応答し、必要があれば、山﨑ランサム先生がさらに応答する、という形式を取っています。読者のみなさまも、先生の質問に対して、様々なお答えがありますでしょう。私の拙い返答にご辛抱ください。

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Q1.どのような神学も歴史の真空状態の中で生み出されてくるものではなく、神学者が生きている具体的な歴史的状況に 必然的に影響を受けるものだと思います。本書における先生の主張をよりよく理解するために、先生ご自身の神学的背景について、簡単に お教えください。

私はインマヌエルという群の中で、牧師の家庭に育ちました。きよめ派の教団で、1945年に群を創設された蔦田二雄先生は、戦後、長老派の常葉隆興先生らと、JPCの旗揚げに貢献された人物です。ですから、私の育った教団は、聖書信仰のど真ん中を歩んできました。しかし、私の周囲でウォーフィールドを読んでいる人・プリンストン神学の聖書観がどのようなものかを論じる人を見たこともありませんでした。しかし、とても伝道的で霊的に真実な群で、純粋に「聖書は神の言葉」であり、滅びる者には愚かであっても、救われる私たちには神の力であると真実に信じてきました。つまり、聖書論の神学的な掘り下げには弱くても、聖書の救済論的な役割はしかと捉えていました。――そういう私に芽生えたのが、聖書信仰はウォーフィールド型だけではないのではないか?という疑問です。

また、あるとき、ふと気がつきました。それなりの理由はあるのでしょうが、日本福音同盟(福音派の集まり)に、本来その中心にいるべき、日本改革派教会が入っていません。また長老教会も、必ずしもその中に入っていません(語弊があったらお許しください)。以前中心におられた村瀬俊夫先生は1980年代の論争で離れていかれました(現在は、福音同盟の社会委員会の委員を務めておられます)。――ここから生まれたのは、日本の福音派を考慮した、聖書信仰の歴史的な変遷を解明してみたいという願いでした。どのようにしてこうなってしまったのだろう?

日本の福音派においては、聖書信仰は、型にはめられたようで、議論にもならないのが現状ではないかと思いました。それは、「信仰」であって「神学」ではないのだから、論じるべきことではない、かのように。一度、バケツをひっくり返してみよう、などと思ったのではありません。少し足跡を検証してみようと思ったまでです。

 

Q2.本書にも登場する神学者トーマス・オーデンは、「復古正統主義(Paleo-Orthodoxy)」を提唱し、 古代の教父や公会議に代表される「古典的キリスト教」の重要性を強調してきました。本書は福音主義の聖書信仰を宗教改革まで遡って描き出していますが、宗教改革以前の「聖書信仰」を今日の福音的キリスト者はどのように評価すべきとお考えでしょうか?

少し字数をいただいて、あらためて宗教改革の聖書主義(聖書信仰)を説明させてください。1517年の10月の終わり、ルターは贖宥状(免罪符)を売り歩いて、大金を稼いでいる教皇サイドに抗議文を出します(ヴィッテンベルクから印刷を通してあっという間に広がります)。教皇サイドとルターは、最終的に1521年のヴォルムスで開催された神聖ローマ帝国の会議にルターが呼び出され、撤回を求められ、それを拒否したことで、決裂します。

「皇帝閣下と諸侯殿が単純な答えを要求されるのですから、歯に衣着せずにお答えします。聖書の証言か明白な根拠をもって納得させられない限り、私は私が挙げた聖句に従います。私の良心は神の言葉にとらえられています。私は教皇も公会議も信用していません。なぜなら、それらがしばしば誤り、互いに矛盾していることは明白だからです。私は何一つ撤回できませんし、そのつもりもありません。良心に反したことをするのは、正しいことではなく、また危険なことだからです。神よ。私を助けたまえ。アーメン。」

ルターの答弁をもってプロテスタント教会が誕生しました。神の言葉、すなわち聖書の生きて働く神の声こそがルターをとらえました。さらに、これまでのカトリック教会は、人間の性質、救いの方法、キリスト者の歩み、等々についての聖書の教えを曖昧にし、時にそれを否定してきたというのが、彼の理解です。今こそ教会は聖書を通して神の真の声を聞かなければなりません。明らかに、プロテスタントの聖書主義の原則は、聖書を教会の上に置きました。

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ヴォルムス帝国議会におけるルター

さて、ヴォルムスの帝国会議は、ルターの答弁で終わったわけではありません。ルターの答弁に応答した審問官の言葉もまた、注目に値します。

「あなたは気が狂っている。どんな目的をもってして、これまで多くの世紀にわたって教会と公会議が討議してきた諸課題に新たに言いかがりをつけるのか。……だれでも公会議と教会の共通理解を聖句によってひっくり返えすような事態を認めたら、もはやキリスト教にはなんら確かな、決定的なことは残らないではないか。」

もし誰もが聖書を味方につけて自分の良心に従うだけでは、その道は、良心の数だけ存在することになります。帝国会議におけるこの言葉もまた、これから先、分裂を繰り返して、諸教派を生み出すプロテスタント教会の将来を予見していたことになります。

そのように考えると、山﨑ランサム先生が挙げてくださったトーマス・オーデンの狙い所が少し見えてきます。彼は、「復古的正統主義」、つまり古代信条を作り上げてきた時代の教会のあり方にならって、聖書主義によって様々に分裂し、多くの教派・神学を生み出してきたプロテスタントを超え、さらに教皇制度と伝統を軸にキリスト教を考える西方カトリック教会を超え、東方教会とも連携を取りながら、それらの分裂が未だなかった時代に目を向けようとしています。

そこでは、教理と霊性の垣根はありません。神学は神学だけをしているのではなく、牧会・伝道・帝国主義との戦い、あらゆることに関わっていました。そこでは聖書が先か教会が先か、というような鶏と卵の論争もありません。鶏も卵も一つのことでした。

オーデンは、そのような古代正統主義のルネサンスは不可能だろうとあきらめていました。ところが、拙著でも紹介しました、初代教父による聖書注解、『古代キリスト教聖書注解』(Ancient Christian Commentary on Scripture)の総編集の働きを進めるにつれ、以前とは異なった感触を得るようになります。この注解書は、初代教父による、存在するすべての聖書注解をデータベース化し、それをもとに聖書の各書各節が、どのように教父たちによって注解されてきたかを解説しています。2001年から刊行が始まり、全29巻が発行されました(InterVarsity)。またこの注解書は、世界で七か国語で同時刊行されてきました。

各巻の編集者は、プロテスタントやカトリックの聖書学者だけではありません。ユダヤ教の聖書学者、東方教会の聖書学者も含まれています。そして、各巻の編集者に共通して見られる、古代の正統主義への憧憬、そこに立ち返る姿勢をオーデンは見て取りました。拙著は「聖書のひとり歩き?」という章をもうけましたが、プロテスタントの流れの底流に、ともすると聖書とその解釈が、教会・伝統を離れて一人歩きする傾向があり、それを反省して、どのような動きがあるのかの一端を紹介しました。

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Q3.本書では欧米と日本の聖書信仰について主に書かれていますが、日本以外のアジア諸国、アフリカ、中南米の教会の中で、聖書信仰というテーマについて注目すべき動きをご存じでしたら、お教えください。

回答は持っていないのですが、この質問の重要性を強調させてください。1910年の統計では、プロテスタント教徒の58%が欧州、31%が米国、11%がその他の国でした。ところが、2010年の統計ですと、欧州はわずか12%、米国は15%、そしてアフリカ・南米・アジアに73%、となっています。さらに、73%のうち、かなりの割合が聖霊派・ペンテコステ派です。福音派の分布が、欧米以外に、しかもそのかなりの%が聖霊派である、というのが現実です。

山﨑ランサム先生が挙げてくださった地域で「聖書信仰」がどのように論じられているのか、私にはまったくわかりません。しかし、これは十分に考察に値するテーマです。これを神学的に論じる研究者がだれかというよりも、この課題がそれらの地域でどのように扱われているのか、論争はあったのか、米国的な理解がどのように浸透しているのかに、私も興味があります。山﨑ランサム先生は、動向をご存じでしょうか?

聖書信仰の実践・適用という見地からですと、拙著でも取り上げました、デヴィッド・ボッシュ『宣教のパラダイム転換』は、南アフリカのオランダ改革派です。彼のメッセージは、未だに植民地的社会構造に縛られている世界からの叫びでした。ローザンヌ会議に出席したペルーのサムエル・エスコバール(Samuel Escobar)は、福音派における解放の神学と社会構造の変革を訴えた人物でした。

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藤本先生、お忙しい中、私からのとらえどころのない質問に一つ一つ丁寧にお答え下さり、心から感謝いたします。Q3でご質問した、(日本以外の)アジア・中南米・アフリカ諸国における「聖書信仰」については、私も正直なところほとんど知らないのが現状ですが、ごく限られた範囲で知っていることをお分かちしたいと思います。

アジア神学協議会(Asia Theological Association: ATA)は福音主義に立つアジアの神学教育機関の集まりですが、そこが出版しているアジア聖書注解Asia Bible Commentary)というシリーズがあります。これはATAがジョン・ストットによって創始された Langham Partnershipとの提携のもとに刊行中のプロジェクトですが、その目的はアジアの聖書学者による、アジアの牧師や教会指導者、神学生等のための聖書注解を生み出すことにあります。

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アジア聖書注解シリーズ

アジア聖書注解シリーズのユニークな特徴は、「アジアに文脈化された聖書講解」という点にあります。その編集方針では、注解本文において釈義 exegesis と適用 application をはっきりと分離することはせず、聖書講解の中にアジアというコンテクストにおける適用と、アジアにおける聖書解釈の歴史を織り込んでいくことが明確にうたわれています。つまり、歴史的・文法的解釈のスタンダードな手法である、まずオリジナルの歴史的文脈において聖書が「意味したこと」を釈義し、しかるのちに現代の教会の置かれている文脈に適用する、という二段構えの構造を意図的にくずし(あるいはゆるめ)、現代のアジアにある教会に語りかける神のみことばとしての聖書のインパクトに重点を置いて聖書を読んでいこうという試みであると言えます。これは、藤本先生がおっしゃってこられた、「救済論的な聖書観」に基づくアプローチの一例といえるでしょう。

もちろん、注解書は実際に聖書を解き明かしてなんぼの世界ですので、実際に生み出されてくる注解の善し悪しは個別に判断されなければなりません。また、メインラインの聖書解釈では、アジア人の視点から聖書を解き明かそうという試みは、これまでにもありました。しかし、従来はそのようなアプローチに対しては、福音派からは「ポストモダン的な読み手応答批評」「主観的な読み込み eisegesis」として否定的にしか評価されてこなかった気がします。けれども、近年になってこのような聖書解釈の方法論がアジアの福音派の聖書注解の方針としてはっきりうち出されていること自体、注目すべき動きであると思います。

(続く)

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その5)

その1 その2 その3 その4

藤本満先生によるゲスト投稿の第5回をお届けします。今回は、前回の物語論に関連して、物語と説教について語っていただきます。お忙しい中執筆のご労をとってくださった先生に心から感謝します。

聖書信仰

聖書信仰』(いのちのことば社)

物語と説教

「あとがき」で、私自身が「物語と説教」に目覚めた話を記しました。そのきっかけを与えてくれたノンフィクション作家の柳田邦男さんに言及しました。実は、私はあの文章を、「聖書は神の創造と救済の物語であり、その中へと私たちの物語が取り込まれ、どこかで神の国の新たなる舞台を演じることになる」というような、壮大な神学的想定で記したのではありません。それはもっと小さな物語論で、自分が務める礼拝講壇(説教)のために、小さな物語をどのように捉えて用いているか、ということを紹介してみたかったのです。――もちろん、小さな物語論も、大きな物語論の欠片(かけら)ではありますが。

柳田さんの『ガン五〇人の勇気』の中に「涙して洗った茶碗」と題されたエピソードがあります。それは末期がんの友人に病院に呼ばれ、洗礼を授けてくれ、と頼まれた牧師の話です。牧師は病室にあった茶碗を涙を流しながら洗い、そこに水を入れて、洗礼を授けます。友人は洗礼を受けた後、晴れやかな表情を見せ、主の祈りを教えてくれと頼み、しばらくして息を引き取ります。最後を迎えた友人は、洗礼を受けたという事実を頼りに、死の陰の谷を行きます。

あるとき、私はこの話を引用してどこかに執筆しました。すると、「洗礼とはそういうものではない!」というお叱りのお手紙をいただきました。その方は、神学的な洗礼の定義でこのエピソードを読まれたのでしょう。でも、この方は、神の憐れみにしがみつくように死線を越えていく一人の人間の苦悩と信仰はわからなかったのです。ましてや、こういうエピソードを伝えている作家の意図も、それを引用した私の意図も頭にはなかったと思います。単純に、洗礼の神学的な定義で私の文章を読まれたのでした。

極端な話かもしれません。しかし、命題的な説教が、それが教理的であれ釈義的であれ、時に、聴衆の心にまったく届かない、聴衆の人生に触れていないのではないか、と思うことがあります。教理や釈義が、場違いに顔を出し、聞いている人びと、彼らの物語にまったく不似合いなのです。

クリント・イーストウッド監督・主演の「ミリオンダラー・ベイビー」(2004年)という映画があります。アカデミー賞主要4部門を獲得した名作です。2008年の「グラン・トリノ」は、まったく違う内容ですが、私はこれを続編のように思っています。この二つの作品には、カトリックの司祭が出てきます。イーストウッド演じる主役は、人生の複雑さをすべて体験したような老齢で頑固な男です。かたや司祭は、両作品とも若いのです。結婚も離婚も、世の中の複雑なことには手を染めず、神学校を出て、神に仕え、きれい事を人びとに説いているようなセッティングです。しかし、この二つの映画で、司祭の役割はかなり違います。2004年の映画では、司祭は世の中の矛盾を何一つ背負えない、人生の複雑な局面で場違いに登場する司祭です。しかし、2008年の映画では、司祭はその矛盾の中に入り込んで行きます。

人の物語の複雑さ、善とも悪とも言えない人間の弱さ。でも、くずおれるだけではなく、ひたむきに前を向く。弱さを引きずりながらも、自分の愚かさを乗り越えようとし、悪と戦い、真理に手を伸ばそうとする。痛みや傷に引き裂かれながらも、生の尊さを実感し、信念を貫く。人生に裏切られても、生きる意味は失わない。そういう生き方をしたいのですが、なかなかできない。せめて自分の最後だけでも、そのように生きたいのですが、痛み苦しむだけで、言葉にもならない。

先の柳田さんは、誰もがこうした物語を書くことはできない、しかし共感することができる、と考えました。そこでガン患者五〇人のそれぞれの最後を一人あたり数頁でまとめることによって物語とし、いわば五〇人分の、死の迎え方、生きてきた意味を読者に提供しました。

説教をする者は、御言葉に描かれている情景、神の御思い・働き、それに応答する信仰者、時にそれに応答し損ねる、あるいは逆らう私たちの姿を描きます。それは単なる物語ではなく、神の声です。御言葉を語る説教者は、そこに罪に対する神の宣告、赦し、愛、希望、と神の声を響かせたいのです。そのとき、聖書の物語を今の私たちの物語へと適用するよう、説教者は苦心するのでしょう。

でも、逆に私たちの物語を聖書の御言葉に吸い込ませるという手法も可能だろうと思います。つまり、神の言葉(上)を人の世界(下)に解釈・適用させるだけでなく、人の物語(下)を神の言葉(上)へと吸い上げる手法も可能であろうと。これを単に説教の「組み立て」「構成」の問題ではなく、神の言葉の「力」として考えてみました。

一言で申し上げたら(自分でも何を言っているのか明確ではないのですが……)、「物語」には、神の言葉である聖書にも、人の物語である「お話」にも、とても心を打つ深みがあります。神の言葉を「命題的に」語ることに一生懸命で、いつの間にか、人の物語をどう理解し、どう用いるかを忘れるような説教者にはなりたくない、という反省が私にあります。さらに、神の物語(御言葉)には、人の物語を吸い上げる力があり、矛盾や恐れの多い人の物語が聖書の中へと吸い上げられ、まるで聖書の物語を生きているかのように、主イエスがその矛盾と恐れを包むように私と共に歩んでいてくださることを実感できる力が、御言葉にはあるのではないか、と。私たちは今もエマオへの途上を主と共に歩んで、自分に起こった人生の出来事と神の御言葉(あの時は旧約聖書)を重ねているのではないでしょうか。

 

東日本大震災の年に、私の尊敬している教会員が息子さんを失いました。ご夫妻は教会のために長年労され、年齢故に仕事を退いて、これからは宣教地を回って様々に奉仕したいとの夢を与えられていました。すでにケニアとボリビアと台湾を訪れ、奉仕をされました。私たちの誰もが、このご夫妻が大きな試練につぶされそうになっている姿に心を痛めました。

納骨式の後、食事の席でした。お父さんは立って、家族の前でこんな話をしました。「震災で津波がやってくる。懸命に港に船をつなぎ止めた漁師たちの船はすべてやられました。しかし、その中に、津波に向かっていった漁師もいました。彼らは生き延びたそうです。ですから私たちも、これから津波に向かって船出します」。

その姿、その証しに、私は感動しました。そして、説教の中でその話を使わせてもらいました。どこかで物語はつながります。震災時の漁師、息子を失った父母、同じような境遇にある人びと、そして私たちを雲のように取り巻いている多くの聖徒たち(ヘブル12:1)。証しは、聖書と比したら「お話」なのでしょう。しかし、証しが主の恵みをゆびさすとき、神の御言葉は生きて動き出します。つまり大きな物語が小さな私たちの物語を吸い込み、大きな物語の中に私たちの出来事が組み込まれてしまいます。

上述の出来事は、私自身が体験したものではありません。しかし、私はこの兄姉は教会共同体を代表してこの試練を味わい、希望の神に近づかれたのだと思っています。聖書の中の出来事は、歴然とした過去性を帯びています。しかし、私たちはすーっとその中に引き込まれて、自分もまた十字架の下に立ち、復活の墓を目撃していることになります。神の言葉は、私たちの小さな物語を取り込もうと待っています。そのやっかいで不条理な物語さえも。その意味でも、人生の出来事・私たちの物語を読める人になりたいと思います。

 

もう一つ。

これは、スティーブ・ジョブス氏のスピーチです。スタンフォード大学の卒業式で語られたものです。

わずか、これだけの時間で、これほどインパクトのある式辞。卒業式は、英語ではコメンスメント(はじまり)です。それは彼のこれまでの物語であり、聞いている卒業生はそれが自分の物語となるであろうことを予想し、将来の扉を開けます。みなさんは、この式辞を聞きながら、どこかの聖書の言葉をすぐに連想するだろうと思います。

私は、自分が担当しているキリスト教概論の学生に、最後にこれを見せて、授業期間を終えます。そしてあらためて思います。ほとんどの学生にとって、私の授業は馬耳東風であろうと。どうしたら人の物語を、御言葉の舞台の中へと招き入れることができるか。「はぁ」とため息をつき、疲れて帰途につきます。そうして、説教が空回りする疲れを抱えて、笑顔で「いってらっしゃい」と教会員を送り出します。

 

山﨑ランサム先生、本当にありがとうございました。先の4回の原稿で、少しは自分の言おうとしていることを把握できました。この原稿で、大いに自分の言いたいことがわからなくなりました。混迷から少し抜け出すために、次回、先生と対話できたらと願っています。

先生が差し伸べてくださった友情に心から感謝します。

(続く)