きよしこの夜

するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。(ルカ2章13-14節)

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クリスマスに関連して、何年か前に偶然耳にして衝撃を受けた曲があります。それは旧ソ連の作曲家アリフレート・シュニトケによる「きよしこの夜 Stille Nacht」です。同名の有名なクリスマス・キャロルに基づいて作られた曲なのですが・・・まずはお聴きください。 続きを読む

死をもたらす神学

昨年のこの時期に書いた「クリスマスの星」という記事が、今年になってまた読まれているようです。そこでも取り上げた、マタイ福音書の降誕物語を改めて読み返していると、昨年とは違う側面に目が留まりました。

異教徒の占星術師である東方の博士たちがエルサレムを訪れて、ヘロデ大王に「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。」と訊ねると、王とエルサレムの住民は不安に陥ります。マタイは次のように続けます:

そこで王は祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生れるのかと、彼らに問いただした。彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしています、『ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう』」。(マタイ2:4-6)

ここで興味深いのは、ユダヤの宗教家また学者であった祭司長や律法学者たちは、キリストがベツレヘムで生まれるはずだということを、聖書から正確に読み取っていたということです。にもかかわらず、彼らは東方の博士たちのようにベツレヘムまで行ってキリストを訪ねようとはしなかったのです。(エルサレムからベツレヘムまでは10キロもありません。) 続きを読む

力の支配に抗して(2)

いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように。(ルカ2:14)

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前回は、シモーヌ・ヴェイユのエッセイ「『イリアス』あるいは力の詩篇」に基づいて、万人を奴隷にする力の支配について考えました。

誤解のないように書いておきますと、このエッセイが好きだからと言って、私はヴェイユがそこに書いている内容のすべてを肯定しているわけではありません。それどころか、プラトン的な二元論、またキリスト教のヘブライ的ルーツに対する不当に低い評価といった、個人的にまったく同意しかねる部分もあります。けれども、そのためにこのエッセイ全体を否定するのは、まさに産湯とともに赤子を捨ててしまうような愚であると思います。私にとってヴェイユが典型ですが、ひとりの人の思想の中に、まったく同意できない部分と、おおいに共感できる部分が同居していることがあります。そこがヴェイユの不思議な魅力になっているとも言えます(過去記事「クリスマスの星」も参照)。

ともあれ、前回紹介した彼女の「力」の概念は非常にすぐれた洞察であり、今日もその輝きを失ってはいません。むしろその意義はますます大きくなっていると言えます。今回はこれを足がかりに、新約聖書に目を向けてみたいと思います。 続きを読む

驚くばかりの

このところアメリカの古い黒人音楽ばかり聴いています。神学校の講義を終えて帰宅するために、深夜ひとり車を走らせているときなど、アコースティックギター1本で歌われる素朴なゴスペルやブルースにほっと心が和みます。

そんなときによく聴く1枚のアルバムがあります。 続きを読む

映画「パウロ~愛と赦しの物語」

私はふだんあまり映画を観る方ではありませんが、先週の金曜日に、11月に日本公開される映画「パウロ~愛と赦しの物語」公式サイト)の試写会に行ってきました(ご招待くださったいのちのことば社様に感謝します)。日本公開前の映画ですので、その内容を細かく紹介することは控えたいと思いますが、試写を観た感想を簡単に記したいと思います。

この映画は使徒パウロの最後の日々を描いたものです。皇帝ネロによって帝都ローマのクリスチャンたちは壮絶な迫害を体験していましたが、その中で捕らえられたパウロは死刑を宣告され、牢獄で死を待つ身となっていました。そんなパウロを福音書記者ルカが訪れるところから話は始まります。ストーリーはこの二人と、ローマのクリスチャンたち、そしてパウロを収監するローマ人の看守長を中心に展開していきます。 続きを読む

悪魔の解釈学(3)

さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。 するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。
‭‭(ルカ福音書‬ ‭15章1-2‬ ‭節)

その1 その2

ヘヴィーメタル(あるいは大衆文化一般)における悪魔のイメージをどう解釈するかについて、これまでいくつかのポイントについて考察してきました。最後にもう一つの重要なポイントについて触れたいと思います。

神がデスヴォイスで歌うとき」の5でも少し触れましたが、1982年にイギリスのヘヴィーメタルバンド、Iron MaidenがアルバムThe Number of the Beast(邦題は「魔力の刻印」――これに限らず海外ポピュラー音楽の楽曲の邦題は不正確な訳が多いので注意が必要です)を発表したとき、アメリカのモラルマジョリティを代表とする保守系団体が同バンドを悪魔主義と非難して反対運動が巻き起こりました。黙示録13章に出てくる「獣の数字」にまつわるタイトルとともに、その大きな原因となったのは、悪魔を描いたアルバムジャケットでした(画像はウィキペディアを参照)。

このアルバムの禍々しいアートワークは、当時の保守的なクリスチャンを戦慄させるに足るものでした(アナログレコード時代のジャケットの大きさを考えると、そのインパクトはCDとは比べものにならなかったと思います)。ここでは、このアルバムの内容自体の是非について論じることはしませんが、私がこの絵に描かれている悪魔の姿を見て思ったのは、「はたして悪魔は実際このような姿をしているのだろうか?」ということです。 続きを読む

悪魔の解釈学(2)

ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。
(1コリント1章22-24節)

その1

前回は1980年代アメリカにおける反ロック/メタル運動において、しばしば作品の内容が大きく歪曲して解釈されたことを見ました。けれどもその一方で、ヘヴィーメタルの歌詞やアートの中に悪魔のイメージが頻繁に登場するのは確かです。「神がデスヴォイスで歌うとき」第5回では、多くの場合それは商業的理由によるものだったということを書きました。悪魔的イメージを売り物にしているメタルミュージシャンがかならずしも本物の悪魔主義者であるわけではありません。じっさい、無神論者のミュージシャンが北欧神話を題材にした歌詞を書いたりすることもあります。ですから、歌の歌詞とミュージシャンの個人的信条はかならずしも一致しないのです。

さらに、ポピュラー音楽のリスナーも、一般に歌詞の内容をそれほど気にかけているわけではありません。Weinstein によると、流行に乗って消費されるポップスとは異なり、よりシリアスなファンの多いヘヴィーメタルのリスナーは歌詞の内容により注意を向ける傾向があるそうですが、それでも、歌詞を知っている(暗唱できる)ことと、その内容を深く理解しているかどうかは別の問題です。いずれにしても、音楽であれ小説であれ映画であれ、人が見聞きした作品の世界観をそのまま信じ込むというのは、あまりにもナイーヴな考えです。

けれども、そもそもなぜメタルでは悪魔のイメージが好んで用いられるのでしょうか? このことを考えるためには、メタルというサブカルチャーの社会における位置づけを考える必要があります。 続きを読む