②「肉」と「聖」といのち
前回「キリスト教倫理というものが、生身の人間の現実を無視して〇×を判定するだけのものになってしまっているとしたら、なんと悲しいことでしょうか」と書きました。私は、このような悲しい現場に立ち会ったことが何度かあります。それどころか、自分自身がそのような視点でしかこの世界にある痛みと向き合えなかったことがあります。たとえば社会問題を考えるとき、誰かが伝統的に「罪」とされる行為に関わったとき、そして、自分自身が苦しんだり悲しんだり葛藤したりしたとき、私は聖書から〇×を判定しようとしました。そして、私情を挟まず「冷静」に、「客観的」に判断することが信仰者として正しい態度だと思っていました。
振り返ってみると、ある種の物語が私をそのような態度に向かわせていたように思います。私は「地」とか「この世」とか「肉」とかいったものを劣ったものと捉えていました。そして、救われたからには、そのような低俗なものに心動かされるのではなく、霊的なことにのみ心を向けなければならないと考えていたように思います。私たちが生身の人間であるという事実を否定的なものとしてとらえるとき、「聖なる存在は肉なる世界から分離し、世界で起こることに囚われない聖なる生き方をしていく」という物語が出来上がります。
けれども、私たちは救われてもなお生身の人間であり、生々しい現実の中で生きています。その現実を否定すべきものとしか見られないならば、この世で生きていくことは困難です。聖書は私たちに生々しさを克服するように言っているのでしょうか。
文語訳聖書のエレミヤ書31章20節には「我(わが)膓(はらわた)かれの爲(ため)に痛む」という言葉ができます。神さまは霊なる方であって肉体を持ちません。けれども、神さまの愛は「我腸かれの為に痛む」という生々しい表現で語られるのです。神さまの愛をこのように生々しく語る聖書は、私たちが生きるということの生々しさを、どのようにとらえているのでしょうか。
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