前回の記事では、マタイとルカの福音書における降誕物語において、イエスがイスラエルの王(メシア)として描かれていることを見ました。それでは、このことは現代の(大部分異邦人である)クリスチャンに対して、どのような意味があるのでしょうか?

私たちは二千年前に人として来られたイエス・キリストをイスラエルの王として理解する時、その到来と救いのわざを、歴史の中で何の背景もなく単発で起こったものではなく、神がなさっておられる大きな救いのご計画の中にあるものとして捉えることができるようになります。
ある意味では、たしかにイエスは全人類を罪から救うために来られたと言えるでしょう。けれどももし私たちが、イエスがイスラエルのメシアとして、神の民を回復するために来られた、という事実をバイパスして「全人類の救い主」という結論に飛びついてしまうならば、イエスの救いのわざはイスラエルの歴史とは切り離されてしまいます。もしそうなら、イエスはユダヤ人として生まれなくても良かったですし、そもそも「キリスト(イスラエルの王)」という称号そのものが無意味なものになってしまいます。
けれども、イエスはイスラエルを回復し解放する王として来られました。それは、旧約聖書のイスラエルの希望を成就するためだったのです。そしてイスラエルの希望は、ただたんに全人類が救われるということではなく、もっと具体的に、イスラエルが慰められることであり(ルカ2:25)、エルサレムが救われることでした(2:38)。
それでは、イスラエルの回復(解放・救いと言ってもいいですが)は、なぜそれほど大切なのでしょうか? それは単なる自民族中心的な願望だったのでしょうか? そうではありません。それは、聖書全体を貫く神の救いの計画と関わっているのです。
聖書の神は世界を創造した神です(創世記1:1)。神はご自分の創造した世界を王として治められますが、その統治を直接行うのではなく、人間という被造物を通して行うことを定められました。
神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。(創世記1:26-28)
つまり、神は人間を被造物世界の管理者として任命されたのです。(ちなみにこれが「神のかたち」[Imago Dei]ということの意味です。)これを図示するとこうなります。
ところが、人間は神に背いて堕落してしまいました(創世記3章)。堕落の結果起こったことは、ただ単に人間と神との関係が傷つけられただけでなく、人間を通して被造物世界を統治するという神のご計画そのものに狂いが生じたということです。地は人間のためにのろわれてしまったのです(創世記3:17)。
堕落の影響は全地に広がり、人間の悪は増大する一方でした。そこで神は救いのご計画を立てました。それは、イスラエルという民族を起こすということでした。
時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」。(創世記12:1-3)
ここで、「地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」と書かれていますが、これはアブラハムの子孫であるイスラエル民族を通して、全人類を祝福する、という神のご計画を表しています。イスラエルの使命は神の祝福を諸民族に取り次ぐことでした。そのようにして全人類が回復するならば、人類は被造物の管理者としての使命を再び果たすことができるようになり、神のオリジナルの計画は遂行されるようになるということです。
ところが、ここで再び問題が起こりました。神の栄光を反映し、その祝福を国々に取り次ぐべきイスラエル自体が罪を犯して律法ののろいを受け、バビロンへと捕囚にされてしまったのです。ここで神の計画はまたもや中断を余儀なくされてしまいました。捕囚後からなんとか約束の地に帰ってきても、事態は完全には回復されませんでした。ユダヤ人たちは依然として異邦人の大国に支配され、苦難の道を歩んでいたのです……
以上が、イエスが来られた当時のイスラエルの状況をごく簡単に概観したものです。ここで考えてみたいのは、この状況を打開して、ご自分の計画――すなわち被造物の管理者としての人類を回復し、それによって世界を治めること――を成就するために、神は何をなさるのか? ということです。
一つの考えられる選択肢は、神の祝福を取り次ぐ器として失敗したイスラエルを退け、別の全く新しい方法で全人類を回復することでした。時々そのようにイエス・キリストまたキリスト教を理解する人がいますが、これは聖書が語っている内容ではありません。神はアブラハムに無条件かつ永遠の祝福を約束されました。ですから、神がイスラエルを見捨てることは決してないのです。新約聖書のパウロもイスラエルについて「神の賜物と召しとは、変えられることがない」(ローマ11:29)と語っています。
では、神はどうされたのでしょうか? それは背きの罪に陥っているイスラエルを解放し、回復して、彼らがもともと与えられていた使命、すなわち、神の祝福を国々に取り次ぐ使命を果たすことができるようにすることでした。そしてまさにこの目的のために、すなわちイスラエルを回復するために遣わされたのが、メシアであるイエスなのです。
これで、なぜイエスがイスラエルの王として来られたことがそれほど重要なのかがおわかりいただけると思います。イエスが来られたのは、神の民イスラエルを回復して、その結果として、神の祝福が異邦人にも及ぶようにするためだったのです。
そしてこのことは、じっさい福音書の中で語られています。たとえばマタイの福音書で東方の(つまり異教徒の)博士たちが幼子イエスを礼拝する記述(マタイ2:1-12)は、「ユダヤ人の王」イエスを異邦人が礼拝するという、後の異邦人宣教を暗示するようなエピソードですし、ルカ福音書のシメオンの讃歌(ルカ2:29ー32)においても、イエスがもたらす救いは
「この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、
異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」(31-32節)
と語られています。しかし、このようなイエスの描写もまた、たとえばイザヤ書で語られている旧約聖書的なメシアの姿と考えることができます。
主は言われる、「あなたがわがしもべとなって、ヤコブのもろもろの部族をおこし、イスラエルのうちの残った者を帰らせることは、いとも軽い事である。わたしはあなたを、もろもろの国びとの光となして、わが救を地の果にまでいたらせよう」と。イスラエルのあがない主、イスラエルの聖者なる主は、人に侮られる者、民に忌みきらわれる者、つかさたちのしもべにむかってこう言われる、「もろもろの王は見て、立ちあがり、もろもろの君は立って、拝する。これは真実なる主、イスラエルの聖者が、あなたを選ばれたゆえである」。(イザヤ49:6ー7)
つまり、イスラエルの神である主はメシアを通してご自分の民を回復し、その救いの光を国々に輝かせるというのです。イエスを通して神の救いが異邦人にも及ぶということは、イエスがイスラエルの王であることと無関係になされることではなく、イエスがイスラエルの王となられるからこそ、実現することがらなのです。
このように、神がイエスを送られた出来事は、決して歴史の空白の中で思いつきでなされたものでも、イスラエルを通して世界を祝福するという当初の計画が挫折したために導入された「代替プラン」でもありませんでした。それは人間の罪という現実に柔軟に適応しながらも、歴史のはじめから神が持っておられた救いの計画を成就するためだったのです。
クリスマスの意味は、イエスがイスラエルの王として生まれたできごとです。このようなクリスマスの理解は、私たちの信仰はどのような意味を持っているのでしょうか。いろいろな意味があると思いますが、一つには、イエスを遣わしてくださった神は真実なお方である、ということが考えられます。この神は、私たちが失敗したら退けてしまわれるお方ではありません。神に背き傷ついたイスラエルを最後まで見放さず、それを回復して用いられる神は、今日の神の民である教会、そして私たち一人ひとりを見捨てることもありません。この真実な神に信頼して、今年の待降節も歩んでいきたいと願います。