受難週に聴いた音楽

教会暦では昨日が受難日でした。2年前のこの日に「受難日に聴いた音楽」という記事を書きました。そこではポーランドの作曲家クシシュトフ・ペンデレツキ「ルカ受難曲」を取り上げました。

今年の受難節も、イエス・キリストの受難について思い巡らしていましたが、今年はパッション2000のために作曲された受難曲を全部聴いてみようと思い立ちました。

「パッション2000」というのは、シュトゥットガルトにある国際バッハ・アカデミーがバッハ没後250年を記念して、世界の多様な文化圏に住む4人の作曲家に、それぞれ受難曲を委嘱したプロジェクトです。この4曲と作曲家は以下の通りです:

マタイ受難曲:タン・ドゥン(中国)
マルコ受難曲:オスバルド・ゴリホフ(アルゼンチン)
ルカ受難曲:ヴォルフガング・リーム(ドイツ)
ヨハネ受難曲:ソフィア・グバイドゥーリナ(ロシア)

これらすべての曲が、会員登録している音楽配信サービスのカタログにありましたので、CDを買い揃えることなく全部聴くことができました(グバイドゥーリナのヨハネ受難曲はロシア語版とドイツ語版がありますので、その違いも含めれば全5作)。これはバッハ・アカデミーの意図だったと思いますが、音楽的にも非常に多様なスタイルで、どれも新鮮な味わいがありました(ゴリホフのマルコ受難曲はなんとラテン音楽のスタイルで演奏されます)。聖書の物語が伝統的な欧米文化だけでなく、世界の様々な文化において再話されるダイナミズムを感じることができました。

しかし、今回これらの中で最も感銘を受けたのは、ドイツのヴォルフガング・リームによるルカ受難曲でした。(原題は “Deus Passus: Passionsstücke nach Lukas”「神は苦しまれた:ルカによる受難断章」)。サウンドとしてはパッション2000の受難曲の中で最も地味で、最初に聴いたときにはそれほど印象に残らなかったのですが、受難週に繰り返し聴くうちに、どんどん心に迫ってくるものがありました。

リームのルカ受難曲の大きな特徴の一つは、終曲が聖書のテクストではなく、パウル・ツェラン「暗闇(テネブレ)」という詩に基づいていることです。

「暗闇(テネブレ)」

私たちは近づいています、主よ、
つかむことができるほどまぢかに。

すでにつかみました、主よ、
それぞれのからだが
あなたのからだででもあるかのように、主よ。

祈りなさい、主よ、
わたしたちにむかって、
わたしたちは近づいています。

風に身を折りふしてわたしたちは進みました、
わたしたちは進みました、水おけや凹地に
身をかがみこませました。

水飼い場にわたしたちは行きました、主よ。

そこには血がありました。それは、
あなたの流した血でした、主よ、
それは輝いていました。

その血はあなたの姿をわたしたちの目に投じました、主よ、
目と口がうつろにひらいていました、主よ。

わたしたちは飲みました、主よ。
血と、血のなかの姿とを、主よ。

祈りなさい、主よ。
わたしたちは近づいています。

(飯吉光夫訳)

ツェランはユダヤ人で、両親はナチスに殺され、自身も強制収容所に送られましたが、生き延びた体験を持っています。したがって、この詩には彼自身のホロコースト体験に照らして読むべきでしょう。

パウル・ツェラン(1945年)

この詩では通常の神と人との関係が逆転しています。ふつうなら神が人に近づき、人が神に祈るものですが、この詩では人が神に近づき、神に祈るように求めています。これはあくまでも文学作品ですので、神学的に厳密に議論することは見当違いだと思いますが、このような文学的表現を用いて、ツェランはホロコーストのような極限状態における神の圧倒的な沈黙と不在の感覚を表現しているように思います。題名のTenebraeは受難週の聖木・金・土曜日に行われる典礼の呼称でもあります。

そしてリームのルカ受難曲では、最後から2番目の曲では、ルカ24章冒頭のテクストが歌われ、復活日の朝、女性たちがイエスの墓に来て、墓の中に入ると、主イエスのからだが見つからなかった(3節)というところで終わります。福音書ではその後天使が現れてイエスの復活を告げるのですが、リームの受難曲では、その後すぐ続けて上記のツェランの詩が歌われ、全曲が終わるという構成になっています。

つまり、女性たちが空の墓に入ったところで、聴き手は1世紀から20世紀にタイムスリップしたような感覚に襲われます。彼女たちが覗き込んだのは、2千年にわたる底しれぬ暗闇(テネブレ)だったのです。これは実際にテクストを意識しながら聴くと、鳥肌が立つような体験です。(私はW・H・オーデンの詩アキレウスの盾で、ヘパイストスがアキレウスのために作っている盾を覗き込んだテティスが、そこに人類の陰鬱な未来を見た場面を思い起こしました。)もちろん「受難曲」なので復活に(明示的に)言及せずに終わる構成もありだと思いますが、それにしてもある意味暗い終わり方であることは間違いありません。

さて、このようなツェランの詩、またリームの受難曲をどう受け止めたら良いのでしょうか? 私はツェランやリームの専門家ではありませんが、あくまで素人として感じたことを述べてみたいと思います。

ツェランの詩から彼は神を捨てたと解釈する人もいるかもしれませんが、私は彼が「主よ」と繰り返し呼びかけていることに注目したいと思います。つまり、神に向かって「私たちに祈りなさい」と呼びかけているこの詩そのものが、逆説的に神に対する祈りとなっているのです。

神の不在や沈黙を感じることと、神を信じることは両立可能です。むしろ、神がいない、あるいは沈黙しておられるかのような状況でこそ、より一層神を求めることがあるのです。聖書の中でもこのような霊性は詩篇88篇などに見られます。

ツェランの神に対する態度は、同じくホロコーストを体験したエリ・ウィーゼルの信仰に通じるものがあると思います。それは非常にユダヤ的な、神と格闘する信仰です。そしてリームは彼の受難曲の最後にこの詩を配することによって、そのようなユダヤ的信仰を包摂しているように見えます。(ポスト・ホロコースト時代に生きるドイツ人作曲家としての彼の思いが伝わってくるようです)。

そしてこれは、20世紀も終わり21世紀を生きる現代人の心にも強く訴えかけるものです。現在起こっているウクライナにおける戦争について語るまでもなく、私たちは悪と苦しみの満ちる世界に生きています。あまりにも巨大な暗闇に直面した時、私たちは神はおられるのか、神はなぜ祈りに応えてくださらないのかと訝ることもあります。

でもその暗闇の中でこそ、私たちは「主よ」と祈ることが求められている、いや祈らざるを得ないのではないでしょうか。どれほど暗闇が長く続いたとしても、その後には復活の朝があることを信じているのですから。

リームの受難曲では、復活はすぐには訪れません。受難は果てしなく延長されているように聞こえます。けれども、それは復活がないことを意味しません。なぜなら、いのちの源である神に対して、まだ呼びかけがなされているからです。そういう意味で、リームのルカ受難曲は非常に現代的な受難曲と言えるのかもしれません。

ペンデレツキのルカ受難曲と並ぶ、現代受難曲のもう一つの名曲に耳を傾けつつ、明日の復活祭を待ち望みたいと思います。

ツェラン自身による「暗闇(テネブレ)」の朗読(ドイツ語)