受肉と順応(クリスマス随想)

さだめたまいし 救いのときに
神のみくらを はなれて降り
いやしき賎の 処女(おとめ)にやどり
世人のなかに 住むべき為に
いまぞ生まれし 君をたたえよ

(讃美歌98番、2節)

今年もクリスマスの時期がやってきました。

クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝う時です。キリスト教会は、このことを、神が人となった受肉のできごととして理解してきました。つまり、宇宙の創造主なる神が自ら人間となることによって、ご自分を人間に啓示されたのです。

神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。

(ヨハネ1:18)

しかし、神は抽象的・普遍的な意味で「人間」となられたわけではありません。そうではなく、「神のことば」(ヨハネ1:1、14)は特定の時代と地域に生きた、一人の個人として現れたのです。ナザレのイエスは紀元1世紀のローマ帝国支配下にあったパレスチナに生きた、一人のユダヤ人男性でした。彼は当時の一般のユダヤ人と同じ生活をし、同じ言葉を話しました。つまり、神は1世紀のパレスチナに生きた人々に理解できるような姿で、ご自分を啓示されたのです。

ところで、聖書自体にも同じパターンを見ることができます。神はご自身を聖書という書物の形で啓示された時、それを特定の時と場所に生きる具体的な人々の言葉で、彼らに理解できる形で表現されました。旧約聖書の場合は、古代近東に生きた人々に対して、新約聖書の場合は1世紀の地中海世界に生きた人々に対して語られました。このことは、旧約聖書が主にヘブル語で、新約聖書がギリシア語で書かれている事実に端的に表れています。

従って、聖書を理解する際には、その各部分が書かれた歴史的背景を考察し、それがどのような歴史的状況に生きた人々に対して書かれたのかを考える必要があります。

例えば、聖書が提示している宇宙像は、次のようなものです。地は動くことなく、その上には硬いドーム状の天蓋が広がり、その上には水の層があって、神がおられる「天」と呼ばれる領域がありました。

これは今日の私達が持っている科学的な宇宙像とは全く異なりますが、だから「誤り」だということではありません。神は聖書が書かれた時代の人々(つまり、聖書のオリジナルの読者)が持っていた世界観を採用して、それを通して彼らに理解できる形でご自分について啓示されたのです。

これは、大人が小さな子どもと話をするときに、子どもの語彙と理解力に合わせて話をするのと似ています。その話は別の大人から見れば「幼稚」に見えるかもしれませんが、自分の考えを子どもに伝えるには唯一の有効なコミュニケーションの方法なのです。

このように、神が人間のレベルにまで身を低くして、彼らに理解できる形で語られることを「順応 accommodation」と言います。順応は聖書を理解する上で大変重要な概念です。

ところで、多くの人々は聖書の中のある特定の箇所(たとえば、上で述べたような宇宙像に関する記述など)は順応されて書かれていると考えます。そうしないと、聖書の中のある部分は現代人には理解困難だからです。けれども、その他の大部分は、すべての時代と文化に対して直接語りかける普遍的な真理であると考えています。

けれども、このブログでも過去に紹介したことのあるジョン・ウォルトンは、このような発想を逆転しなければならないと言います。彼によると、聖書の中で、現代人に理解できない部分だけが順応されているのではなく、基本的に聖書のすべては順応されているのだ、ということです。聖書のどの部分も、それが書かれた当時の人々の認知環境の中に完全に埋め込まれた形で書かれている、ということです。

これは、クリスチャンにとっては一見とても奇妙な主張に思えるかもしれませんが、よく考えると納得の行く主張です。なぜなら、現代人にとって「理解困難」に思える部分が、他の時代や文化に生きる人々にとっても同じように感じられる保証はないからです。たとえば現代人は「天蓋」が実際には固体のドームでなく、したがって古代人の世界観に順応された表現であることを「知って」いますが、聖書が書かれた当時の人々は、そのような宇宙の描写が普遍的真理だと思っていたかもしれません。

そしてこれは同時に、現代人が「理解できる」と思っている聖書の箇所も、もしかしたら私たちがそのように思い込んでいるだけで、実は聖書のオリジナルの読者たちが生きた文化的背景の中では、異なる意味で理解されていたメッセージを捉えそこねている、ということもありうるということです。むしろこちらのほうが問題かもしれません。

したがって、聖書を読む際には、そのすべてが順応されていることを前提として、各文書が書かれた歴史的・文化的背景に照らして、そのオリジナルの文脈の中で何が語られていたのかを考えていかなければなりません。これは、たとえば聖書の中に現代科学の成果に適合するような言説を見出していこうとするような態度(調和主義 concordism)とは正反対の態度です。

さて、このことがクリスマスと何の関係があるのでしょうか?

神は様々な方法でご自身を人間に啓示されましたが、その中で重要なものに、聖書とイエス・キリストがあります(この他にたとえば自然を通した啓示もあります)。聖書の場合もイエス・キリストの場合も、神は特定の時と場所に生きる人々にとって理解できる、具体的な形でコミュニケーションを取られました。この意味で、霊感された聖書を通した神の自己啓示とキリストの受肉を通したそれとは似ているということができます。どちらも、神が特定の歴史的状況に生きる人々に対して身を低くして、彼らに理解できる形でご自身を顕されたということです。

こちらも過去記事で何度も紹介したピーター・エンズは、聖書の霊感をキリストの受肉とのアナロジーで捉えています。イエス・キリストが神であると同時に人であったのと同様、霊感された聖書も神のことばであると同時に人のことばでもあります。

神が人となられた受肉のできごとは、神ご自身の性質に反する特異なできごとではありませんでした。そうではなく、神が歴史の中で常になさってこられたこと、つまり、特定の時と場所に生きる具体的な人々に対して、彼らの歴史的状況の中に身を置いて、彼らの理解できる方法で語りかけてこられた働きの、究極の形にほかならなかったのです。キリストが人として生まれ成長したプロセスも、聖書が書き記されまとめられた歴史的プロセスも、どちらも神ご自身がどのようなお方であるかを表しています。

聖書が古代人の世界観や価値観を反映していることは、聖書の権威を貶めることではなく、むしろ具体的な歴史の中で生きる人間のレベルにまで常に身を低くして関わってくださる神の愛の現れと考えることができます。ベツレヘムの幼子として降臨してくださった神の愛は、聖書という書物そのものにも現れているのです。

キリストは、神のかたちであられたが、
神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、
人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、
おのれを低くして、死に至るまで、
しかも十字架の死に至るまで従順であられた。

(ピリピ2:6-8)