信仰、理性、疑い、そして聖書

神学校で教えていると、多くの学生が知的な学びと信仰や霊性との間に葛藤を覚えるという現実に毎年直面します。神学や聖書学などの学びを通して自らの信仰を理性的に反省していくうちに、それまでの人生で育んできた信仰理解との間に齟齬や違和感を感じることがあります。また、これまで何の疑問も感じていなかったテーマについて、同じキリスト者の間でも多様な考えがあることに混乱を覚えることもあります。学べば学ぶほど聖書や神が分からなくなるということも起こってきます。

実はこれは珍しい現象ではありません。神学校とは少し環境が異なりますが、アメリカの福音主義キリスト教系大学における、同じような問題について、次のような記事があります。

この記事でも述べられているように、信仰について葛藤する(それには様々な種類がありますが、理性的葛藤も含みます)ことは、信仰の成長において必要なプロセスであり、正しく対処すれば益となることが分かります。そして個人的には、このような(特に福音派クリスチャンにおける)霊的葛藤の根底には、聖書観や神観、信仰そして信仰観に関わる大切な問題があるように思います。

このブログでも過去に信仰と理性、疑いといったテーマについて、特に聖書との関連において、いくつもの記事を書いてきました。画面右側のコラムでそのようなタグをたどっていただくと、いろいろな記事が出てくると思いますが、これまでに書いたいくつかのシリーズを以下にまとめてみました。貼られているリンクは、各シリーズの第1回の記事です。はじめは短めのものから読んでいくと良いかも知れません。

確かさという名の偶像(全25回)

ピーター・エンズ著『確実性の罪』を読む(全9回)

進化(深化)する信仰(全2回)

ピーター・エンズ著『聖書は実際どう働くか』(全2回)

この他にも同様の主題について書いた記事はいろいろありますので、興味のある方は検索してみてください。この記事は私が奉職している神学校の学生を特に念頭において書いたまとめ記事ですが、神学生でなくてもこのようなテーマに関心を持っておられる方々はおられるのではないかと思います。