生きているうちにいつかは読みたい本、というものがあります。歳を取るにつれ、自分に与えられた残り時間が短くなるのに反比例して、読みたい書物のリストは長くなるばかりで、全部を読むことはとても無理だと無力感に襲われることがありますが、せめてその中でも優先順位をつけて、自分にとって重要と思える本から読んでいきたいと思っています。
そんな個人的な「人生の必読書リスト」に長い間載っている本の一つに、石牟礼道子さんの『苦海浄土』があります。水俣病を主題にした三部作は、心のどこかでいつも気にかかっており、いつか読みたいと思いつつ、同時にその長大さとテーマのあまりの重さに気後れし、手にとって読むまでには至りませんでした。
それは水俣病そのものに対する私の態度とも通じるものがあるのかもしれません。水俣病についての私の認識は、四大公害病の一つとして学校で習った通り一遍の知識を出るものではありません。今も後遺症に苦しんでいる人々が存在するということは頭では分かっていても、心のどこかでは戦後高度成長期の負の遺産として、過去のものと考えていた部分があったと思います。
要するに、私は水俣病について無知であり、同時にそのことに関して後ろめたさを覚えてもいました。そんな私ですが、先日映画「MINAMATA」を観てきました。
この映画はアメリカの著名な報道写真家であり、「LIFE」誌の写真家としても活躍したユージーン・スミスが人生の最後に取り組んだ、水俣病についての取材活動を描いたものです。患者たちに寄り添う彼の活動は様々な妨害を受け、ついには物理的暴力を受けるまでになります。それでも撮り続けた彼の作品が世界的な反響を呼び、有害な排水を垂れ流していたチッソに対する患者たちの訴訟を勝利に導く力となりました。1975年に妻のアイリーン・美緒子・スミスと連名で発表した写真集『MINAMATA』が遺作となり、彼は1978年に亡くなりました。
冒頭で述べたように、私の水俣病に関する知識は乏しいものですので、この映画についても深く掘り下げたレビューなどはできません(詳細な評については、たとえばこちらの記事をご覧ください)。とにかく映画を観て感じたことを綴っていきたいと思います。
正確な表現は覚えていませんが、映画の中でユージーンが「写真を撮る者は魂の一部を失う」というようなことを語っていたのが印象的でした。悲惨な現実を記憶すること。語り継ぐこと。これらは大きな痛みを伴う行為です。けれども誰かがいのちを削るようにして記録し、物語ってくれたことによって、歴史の真実が忘れ去られることなく、世界に、そして後世に受け継がれていったのです。
もちろん、その物語はあくまでも特定の人々の解釈を通した「再話」であり、水俣で起こったことのすべてを正確に捉えているわけではありません。(起こった出来事の客観的で完全な記録ということはいずれにしても不可能です)。今回の映画が地元水俣市で試写された際にも複雑な反応があったということですし、映画のハイライトでもある、患者の少女が母親と入浴する光景を写した写真(これは報道写真史上に残る傑作と言われます)を映画で公開したのも、問題なしとはしなかったようです。(後者についてはこの記事を参照)。
しかしそれでも、一つのことは言えるでしょう。それは、私も含めた、水俣病について特に強い関心を持たなかった人々にも、改めてこの問題の重要性を意識させたということです。誰かが語り続け、語り継いでいかなければ、記憶は風化します。問題は、この話を聞いた私たちが何を考え、どう生きていくのか、ということなのかもしれません。
映画のエンドロールでは、水俣病の問題は未だに最終的な解決を見ていないこと、その後も世界各地で公害や核事故が続いていることが示されます。経済的繁栄を求める人間のエゴが行き過ぎると、取り返しのつかない災いを引き起こすということは、今も世界中の人々が直面している問題なのです。
(この記事を書いている間に、国内でよく知られているメーカーのハチミツから、国の基準を超える農薬が検出されたことが報道されました(こちら)。しかもメーカーはこのことを知りながら隠蔽していたということで、水俣の悲劇は大小様々な規模で、現在も形を変えて繰り返されていることを思い知らされました。)
この映画は夫婦で横浜の映画館で鑑賞しました。平日の午後ということもあり、観客はまばらでしたが、興味深いことに気づきました。ふつう、映画のエンドロールが始まると、多くの人は席を立って会場を後にしますが、今回の「MINAMATA」では、エンドロールが終わり、会場の照明が点くまで、誰一人立ち上がらなかったのです。それだけこの映画が強烈な印象を皆に与えたということなのかもしれません。
映画を観た後、私は書店に行って、『苦海浄土』の第一部を購入しました。
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余談になりますが、スミス夫妻の写真集が出た翌年には、もう一つの「Minamata」が世界に向けて発信されました。日本を代表するジャズ・ミュージシャンである穐吉敏子さんの1976年のアルバム「Insights」に収録された、「Minamata」という曲がそれです。この曲は「平和な村」「繁栄とその結果」「終章」という3つのパートからなる、21分以上に及ぶ組曲で、邦楽の要素も取り入れた意欲作です。九州の平和な村が高度成長をとげ、繁栄を謳歌する一方で、忍び寄る悲劇に見舞われる様を描いています。
若くして渡米し、以来アメリカを拠点に活躍してきた穐吉さんが水俣病をジャズのテーマに取り上げたのは、どのような心境からだったのでしょうか。私が所有しているCDのライナーノーツによると、彼女がたまたま手にした科学雑誌で水俣病に関する論文を読んだのがきっかけだったということです。そこには記されていませんでしたが、年代的に言って、彼女がユージーンの写真を見たということも、ありえないことではないと思います。
ちなみに、この曲の冒頭で「村あり、その名を水俣という」と歌っているのは、当時13歳だった穐吉さんの娘、満ちるさんです。これもまた、ユージーンの写真集や石牟礼さんの小説とは異なる表現によって、水俣の物語を次の世代へと語り継ごうとする試みの一つと言えるでしょう。