さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。そして、彼らは「だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか」と話し合っていた。ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。この石は非常に大きかった。
(マルコ16章1-4節)
昨日はイエス・キリストの復活を記念するイースター(復活祭)でした。イエスが十字架に架けられて殺されたとき、その遺体は岩を掘ってつくった墓に収められ、大きな石を転がして入口がふさがれました。そして四福音書はどれも、イエスが復活した日にその石が墓の入口から取り除かれたことを記しています。イエスの復活は、墓が開いたときであったのです。
イエスの復活は新約聖書の中心的なできごとであり、非常に豊かな聖書的・神学的意味を持っていますので、短い文章でそのすべてを語り尽くすことは不可能ですが、この投稿では特に「墓が開いた」という視点からイエスの復活について考えてみたいと思います。
サドカイ派など一部を除き、紀元1世紀のユダヤ人たちの多くは死者の復活を信じていました。けれども新約聖書に見られるような肉体の復活の概念は、旧約聖書にはダニエル書など一部を除いてほとんど見ることができません。ただしそのルーツの一つとして、バビロン捕囚という民族的な「死」を経験した神の民イスラエルがふたたび繁栄を回復するという考えを見出すことができます。つまり、イスラエルは共同体的・象徴的な意味で「復活する」という希望が語られていたのです。肉体の復活という概念は第二神殿時代により明確化し、新約聖書もそれを継承していますが、旧約的な共同体的・象徴的復活概念も依然として重要な役割を果たしていると思われます。
例えばホセア書には次のような一節があります:
「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。主は、ふつかの後、わたしたちを生かし、三日目にわたしたちを立たせられる。わたしたちはみ前で生きる。」
(ホセア6章1-2節)
この箇所は前後の文脈の中ではイスラエルの表面的で偽りの悔い改めのことばと考えられるのですが、いずれにしても民族の回復がいのちの回復として捉えられていることが分かります。
さらに重要な箇所は、エゼキエルが見た「枯骨の谷」の幻です:
主の手がわたしに臨み、主はわたしを主の霊に満たして出て行かせ、谷の中にわたしを置かれた。そこには骨が満ちていた。彼はわたしに谷の周囲を行きめぐらせた。見よ、谷の面には、はなはだ多くの骨があり、皆いたく枯れていた。彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。彼はまたわたしに言われた、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」。わたしは命じられたように預言したが、わたしが預言した時、声があった。見よ、動く音があり、骨と骨が集まって相つらなった。わたしが見ていると、その上に筋ができ、肉が生じ、皮がこれをおおったが、息はその中になかった。時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、息に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ」。そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆となった。そこで彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。見よ、彼らは言う、『われわれの骨は枯れ、われわれの望みは尽き、われわれは絶え果てる』と。」
(エゼキエル37章1-11節)
ここでエゼキエルが見た枯れ骨の集積は、「イスラエルの全家である」と言われています。干からびた人骨は完全な死を表していますが、それに再び肉と皮が生じて生きた群衆となった、という驚くべき幻は、バビロンに捕囚されて民族的に死を迎えたイスラエルに回復の希望があることを語っているのです。
さらに主は続けてエゼキエルに語りかけます:
それゆえ彼らに預言して言え。主なる神はこう言われる、わが民よ、見よ、わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓からとりあげて、イスラエルの地にはいらせる。わが民よ、わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓からとりあげる時、あなたがたは、わたしが主であることを悟る。わたしがわが霊を、あなたがたのうちに置いて、あなたがたを生かし、あなたがたをその地に安住させる時、あなたがたは、主なるわたしがこれを言い、これをおこなったことを悟ると、主は言われる」。
(エゼキエル37章12-14節)
ここでは比喩が変化し、主なる神が死んでいたイスラエルの民の墓を開いて彼らを取り上げ、約束の地へと帰らせるという約束が語られています。これは文字通りの死者の復活というよりは、捕囚からの解放と帰還という民族的なできごとを象徴しています。そのような文脈の中で考えると、神が墓を開かれるというのは、イスラエルに対する救いのわざを表しているのです。
さて、このような背景に照らしてイエスの復活を考えてみますと、それは神がイエスの墓を開いてイエスを取り出し、よみがえらせたできごとであると言うことができます。つまり、エゼキエル書で神がイスラエルになされると約束されたことを、神はイエスになさったということです。そう考えると、イエスの復活はイスラエル全体の回復を指し示していると言えるでしょう。そしてその結果「あなたがたは、わたしが主であることを悟る」、すなわち、イスラエルの神の自己啓示がなされるのです。
同じことがマタイの福音書に出てくる次の箇所についても言えるのではないかと思います:
イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け、また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた。
(マタイ27章50-53節)
これは四福音書の中でマタイだけに含まれるユニークな記事ですが、ここでもエゼキエル書が背景にあって、マタイはイエスの死と復活をイスラエルの回復を表すものとして描いていると考えることができます。ここでよみがえるのは死者一般ではなく「聖徒たち」であることに注意しなければなりません。これは義なるイスラエル人の復活なのです。
新約聖書にはもう一箇所、墓が開いて死人がよみがえる箇所があります。それはラザロの復活の箇所です:
イエスはまた激しく感動して、墓にはいられた。それは洞穴であって、そこに石がはめてあった。イエスは言われた、「石を取りのけなさい」。死んだラザロの姉妹マルタが言った、「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」。イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。
(ヨハネ11章38-44節)
ヨハネの福音書のプロットにおいて、ラザロの復活はイエスが十字架に向かう前になされた最後のしるしです。この奇跡によってユダヤ人指導者たちはイエスへの殺意を固めることになりますが(53節)、これについてヨハネは「イエスが国民のために、ただ国民のためだけではなく、また散在している神の子らを一つに集めるために、死ぬことになっている」(51-52節)と語ります。このような文脈から考えると、墓を開いて死人を呼び出したイエスのわざは、イスラエルの回復を暗示していると考えることができます。そしてこれはもちろん、イエス自身の死と復活のプレビューになっているのです。
ちなみに、このエピソードでは、イエスがラザロの病気の報を受けながらも、あえて彼のところに行くことを遅らせたという、一見とても不可解な記述があります(ヨハネ11章6節)。イエスがベタニアにいたラザロのところに到着したのは、彼がまだ生きていた間でも、彼が死んだ直後でもなく、彼が墓に入れられた後でした。ある意味で、ラザロは墓を開いて取り出される必要があったということかもしれません。
それからほどなくして、イエスは十字架につけられて殺されます。当時十字架刑に処せられた人間は多くの場合まっとうな埋葬を受けることはできなかったのですが、イエスの場合はアリマタヤのヨセフらの尽力によって墓に葬られるという破格の待遇を受けました。このことにも深い意味があると思われます。イエスもまた、墓から出てくる必要があったのです。
このように、イエスの復活は、イスラエルの回復と密接に結びついていることが分かります。その意味は旧約聖書から連綿と続いてきた神の物語の文脈の中で理解できるものです。イエスの復活は、信じる者が死後天国に行ける道を開いたという個人主義的な救いを表しているというよりむしろ、神がご自分の民に対する救いの約束を成就されたことの証しなのです。個人の救いは神の民の回復という文脈の中で初めて意味を持つものです。福音書はまさに、イエスがイスラエルの希望を成就した物語といえます。
前回の記事では、イエスの十字架の物語はイスラエルの物語だと書きました。イエスの復活の物語もまた、イスラエルの物語なのです。