教会暦では、今日はイエス・キリストが十字架にかけられ、死なれたことを覚える受難日にあたります。
毎年の受難日にはキリストの十字架にちなむ音楽を聴きながら十字架について黙想するのですが、今年はサミュエル・バーバーの「アニュス・デイ」を聴きました。
この曲は、バーバー本人の有名な「弦楽のためのアダージョ」のメロディに、ミサ曲で用いられるラテン語のテクストをつけて合唱用に編曲したものです:
Agnus dei, qui tollis peccata mundi, miserere nobis.
Agnus dei, qui tollis peccata mundi, miserere nobis.
Agnus dei, qui tollis peccata mundi, dona nobis pacem.世の罪を除き給う神の小羊、われらをあわれみ給え
世の罪を除き給う神の小羊、われらをあわれみ給え
世の罪を除き給う神の小羊、われらに平安を与え給え
このテクストはヨハネ福音書の次の箇所に基づいています。
その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
(ヨハネ1章29節)
そしてこの「小羊」はイスラエルの民が奴隷となっていたエジプトを脱出した時に屠られた過越の小羊を指しています(出エジプト記12章参照)。ヨハネは新しい出エジプトとしての神の救いをもたらす過越の小羊にイエスをなぞらえているのです。じっさいヨハネ福音書では、イエスの十字架は過越の小羊が屠られるのと同じ時刻に起こったとされています。
その日は過越の準備の日であって、時は昼の十二時ころであった。ピラトはユダヤ人らに言った、「見よ、これがあなたがたの王だ」。すると彼らは叫んだ、「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」。ピラトは彼らに言った、「あなたがたの王を、わたしが十字架につけるのか」。祭司長たちは答えた、「わたしたちには、カイザル以外に王はありません」。そこでピラトは、十字架につけさせるために、イエスを彼らに引き渡した。彼らはイエスを引き取った。
(ヨハネ19章14-16節)
「過越の準備の日」の「昼の十二時」というのは、過越の祭りが正式に始まる時刻です。この時にユダヤ人たちは仕事をやめ、パン種を家から取り除き、そして小羊の屠殺が始まるのです。したがって、ヨハネが過越のために屠られる小羊と、十字架につけられて殺されるイエスを重ねて描いているのは明らかです。
このように、イエスの十字架の死は出エジプトというイスラエルの歴史と密接に結びついています。これはただ単に十字架の意味を分かりやすく説明するための「イラストレーション」ではありません。そうではなく、十字架は歴史の中で昔から神が進めてこられたご計画のクライマックスである、ということなのです。
私は神学校で新約聖書を教えることが多いですが、その際口を酸っぱくして語っていることは、新約聖書は旧約聖書を知らないと絶対に理解できない、ということです。しかし、実際には多くのクリスチャンは旧約聖書がなぜクリスチャンにとって重要なのか、イエスが「イスラエルのメシア(王)」として来られたということがどういう意味なのか、意識することが少ないのではないかと思います。
イエスの十字架の死と、その後に来る復活は、神が歴史の中で思いつきのように単発でなされた救いのわざではありません。それは旧約聖書で語られているイスラエルの物語の延長線上にあります。それは創造から新創造に至る、神の救いの歴史の連続性の中に位置づけて理解しなければならないのです。
このようなことを考えていたら、今日一冊の本が届きました。
関西聖書神学校の校長である鎌野直人先生の新刊『聖書六十六巻を貫く一つの物語―神の壮大な計画』(いのちのことば社)です。このブログでも以前から繰り返し主張してきた、聖書全体を一つの物語(ナラティヴ)として読むアプローチについて、とても分かりやすく書かれています。私もゲラの段階で原稿を拝読する特権に与りましたが、自分でもこういう本を書きたいと思っていたような本を書いてくださって、とても感謝しています。神学校のテキストや教会の学び会などにもおすすめの本です。
たとえば、イエスの十字架について、本書では次のように書かれています:
・・・ユダヤ人の王であるイエスの即位の場である十字架は、イスラエルの神のエルサレムへの帰還の時であり、それは不忠実なものたちへのさばきの場なのです。イスラエルの神は、イエスの十字架とともに、エルサレムに帰還されました。そして、さばかれたのがエルサレムであり、神殿なのです。(p.202)
鎌野師は、このような形でイエスの十字架を通して神の国は到来したのだ、と言います。この中に「ユダヤ人の王」「イスラエルの神」「エルサレムへの帰還」「神殿」といった言葉が散りばめられているのに注意してください。イエスの十字架の物語は、イスラエルの物語なのです。そしてそのメッセージは、旧約聖書の背景知識なしには理解することは不可能です。(上の段落を読んで、まったく意味不明に感じたり、これまでの十字架理解とあまりにも大きなギャップを感じる方は、ぜひ本書をじっくりと通読していただきたいと思います。)
この受難日とイースター、いつもより少し視野を広げて、イエス・キリストの十字架と復活の意味を、より大きな聖書の物語の文脈の中に位置づけ、そこに込められたメッセージを深く受け止める機会とできればと願っています。