所属教会のクリスマス礼拝で語らせていただいた説教をこちらに掲載します(引用聖句の訳など多少変更あり)。クリスマスイヴの今夜は多くの教会でキャンドルサービスが行われますが、暗闇の中に光を灯すために来てくださったイエス・キリストの降誕を覚えたいと思います。
「新しいはじまり」
1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2 この言は初めに神と共にあった。
3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
6 ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。
7 この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。
8 彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。
9 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
10 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
11 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
13 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
14 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
(ヨハネ1章1-14節)
クリスマスおめでとうございます。今日はヨハネの福音書から、イエス様のご降誕について学びたいと思います。
四つの福音書はみなイエス様の生涯を描いていますが、それぞれユニークな始まり方をしています。時期的に一番早く書かれたと考えられているマルコ福音書は、イエス様の誕生の次第については何も書いておらず、いきなりバプテスマのヨハネのミニストリーから始まります。マタイとルカには降誕物語がありますが、マタイはヨセフの視点から、ルカはマリアの視点からというふうに、異なる描き方がなされ、内容もかなり違っています。いずれにしても、私たちが親しんでいるクリスマスのストーリーはマタイとルカの福音書に記されています。
ではヨハネはどうでしょうか? ヨハネもイエス様の降誕について記していますが、その書き方は他の福音書とはずいぶん違っていることが分かります。ヨハネの福音書は四つの福音書の中で最後に書かれたものだと考えられており、ヨハネはおそらくマタイやルカの福音書を知っていたと思われます。したがって、これらの福音書に書かれているクリスマスの物語を取り入れて、イエス様の誕生の様子を描いても良さそうなものですが、ヨハネの福音書には、イエス様がいつどこでどのようにして生まれたというストーリーは何も書かれていません。そうではなく、ヨハネはイエス様がどのようなお方であり、その方が生まれたことにはどういう意味があるのかについて書いています。つまり、ヨハネはイエス様の降誕について歴史的に述べているのではなく、神学的に述べているのです。
ところで、今日の箇所を読んで気がつくのは、ここでヨハネは「イエス」という言葉をどこにも使っていないことです。ヨハネが語っているのは「ことば(言)」についてです。けれどもこの「ことば」がイエス様のことを指しているのは、17節で「イエス・キリスト」という表現が出てくることで分かります。
ヨハネがイエス・キリストのことを最初に「ことば」として描いている点はとても重要です。「イエス」という言葉は人間としての名前ですし、「キリスト」という言葉も「油注がれた者」「救い主」「王」を表す称号であり、肩書です。ところがヨハネは、この方の本質は「ことば」である、というのです。それでは、この「ことば」とはどのような存在なのでしょうか?
ヨハネの福音書は「初めに言があった」という有名な表現で始まります。「ことば」は初めからあった存在であり、神と共にあり、神であった――神とともにあるということは、神とは区別される別の存在のようにも思えますが、神であったということは、神ご自身のようである、という、非常に理解しにくい表現ですが、ユダヤ教では神様の持っているご性質(たとえば知恵)を、神様とは独立した人格を持った存在であるかのように描くことがありましたので、ヨハネもそのような書き方をしているのかもしれません。ここから、イエス・キリストは神様ご自身でありながら、父なる神様とは区別される存在であることが分かります。ヨハネはさらに18節で、この方は「父のふところにいるひとり子なる神」とはっきり述べています。聖書の中には「三位一体」という言葉は出てきませんが、こういった箇所に、そのような考え方を垣間見ることができるのです。
この神であられるお方が、この世に来られたのが、クリスマスの出来事です。ヨハネはそのことを「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」(14節)と表現しています。このことを「受肉 incarnation」と言います。この宇宙を造り、人間を造られた偉大な神様が人間になられたという受肉のできごとは、キリスト教信仰のもっとも中心的な教えの一つです。
こうしてお生まれになったイエス・キリストは、栄光に輝き、めぐみとまことに満ちた方でした。そしてヨハネは「わたしたちはその栄光を見た」と言います(14節)。もう少し後の18節では、「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」と書かれています。ヨハネの福音書では「見る」という行為がとても重要です。人間はこの世界を超越した神さまを直接知ることはできません。けれども、人となって来られたイエス・キリストを見ることによって、まことの神さまがどのようなお方かが分かるというのです。
イエス様が来られたのは、父なる神様を証しするためだけではありません。ご自身を受け入れ、信じた人々には「神の子どもとなる特権をお与えに」なりました(12節)。ヨハネは同時に、イエス様ご自身も神様の「ひとり子」(14節)であったと言われます。神の御子であるイエス様が人間になられたのは、私たち人間が神の子どもとされるためでした。イエス様が天から下ってきてくださったのは、私たちが引き上げられるためだったのです。
イエス様の降誕は、罪と死と悪という暗闇が支配するこの世界に、義といのちと善の光が支配する新しい時代の始まりを告げるできごと、神様が再び語られた、「光あれ」という「ことば」なのです。
ところで、ヨハネ福音書の「初めに・・・」という書き出しは、創世記の冒頭、「はじめに神は天と地を創造された」という箇所を思い起こさせるものです。じっさいヨハネ福音書の冒頭部分には、創世記の天地創造の記事といくつもの繋がりを見ることができます。
創世記では、神様がすべてのものを、ことばで命じることによって造られました。「光あれ」と言われると光ができた、というぐあいです。ヨハネが「すべてのものは、これ(ことば)によってできた」(1章3節)と書いているのは、このこととぴったり符合します。さらに、ヨハネは「この言に命があった」(4節)と言いますが、神様が創世記で、人間を含めて生きとし生けるものを造られたのも、やはりことばによってでした。神のことばは、すべてのいのちの源なのです。
ヨハネはさらに、「この命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」(4-5節)と書きます。神様が創造の第一日目に最初に創造されたのは光であり、神様は光と闇を区別されました(創世記1章3-4節)。
ここでヨハネは光をいのちと同一視し、さらにただの光ではなく「人(々)の光」と呼んでいます。ですから、この光は単なる物理的な光ではなく、人々に命を与えるもの、すなわち救いと言い換えてもいいかもしれません。
ところで、皆さんは「クリスマス」と聞くと、夜のイメージを連想することが多いのではないかと思います。実際、マタイの降誕物語でも、ルカの降誕物語でも、その中心的なできごとは夜に起こります。東から来た博士たちは夜、星の光に導かれてイエス様のおられる家にたどり着きます。野原で羊の夜番をしていた羊飼いたちは、眩しい光とともに現れた天使から、救い主誕生の知らせを受けるのです。どちらも、夜の暗闇の中に光が輝くというイメージがあることに気づきます。これは霊的な比喩でもあります。つまり、イエス様の降誕は、罪と死と悪という暗闇が支配するこの世界に、義といのちと善の光が支配する新しい時代の始まりを告げるできごと、神様が再び語られた、「光あれ」という「ことば」なのです。
これらすべてのことから言えることは、ヨハネはイエス・キリストの受肉を「新しい創造」として描いている、ということです。このことは、現代の私たちにはあまりピンとこない考えかもしれません。なぜなら、私たちは「創造」と聞くと、何もないところから物質が生み出されるプロセスを想像してしまうからです。イエス様がお生まれになった時に、そういう意味で世界が新しく造られたわけではありません。
けれども、聖書、特に旧約聖書においては、神さまの創造はモノが生み出される、というよりはむしろ、「混沌とした状態に秩序が与えられる」という側面から考えられていました。だから、創世記1章で神さまが「光あれ」と創造の第一声を発せられる前に、「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」(2節)と語られています。それは何もない空っぽの世界ではなく、混沌と暗闇が支配する世界です。けれども、神さまはそこに光をもたらし、秩序といのちにあふれる世界を形作っていかれました。これが聖書的な創造概念です。
ヨハネは、同じことがイエス・キリストにおいても起こっていると語っているのです。イエス様がこの地上に来られた時、神さまを知らず混乱状態にあるこの世界に、イエス・キリストを中心とした新しい秩序をもたらしてくださいました。だからパウロも、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である(直訳:新しい創造がある)。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(2コリント5章17節)、「割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである」(ガラテヤ6章15節)と語っています。
2000年前にイエス様が人となってきてくださったとき、神様の新しい創造のみわざが始まりました。その働きは今も続いていて、世の終わりに天地が完全に新しくされる時まで拡大していくのです。今年のパンデミックによって、私たちの生きる世界は大きな混沌と暗闇の中に投げ込まれました。けれども、イエス・キリストは闇の中に光を、混沌に秩序を生み出してくださるお方です。このクリスマスに、私たち一人ひとりの生活において、また社会において、神様が新しい創造のみわざを行ってくださることを期待していきましょう。
(この説教の音声は鶴見聖契キリスト教会のホームページで、あと数日聴くことができます。)