前回は、ウォルター・ブルッゲマン著『信仰への召喚としてのウイルス』の内容を紹介しました。今回はそれに対する私なりの応答を記したいと思います。
ブルッゲマンの主張は、これまで取り上げてきたパイパーやライトの主張と重なる部分もたくさんありますが、そのどちらとも異なるユニークな側面も持っています。
彼はライトと同じように、信仰者がパンデミックの危機の中にあって嘆くことの重要性を強調します。けれども、ライトがコロナウイルスの「意味」を問うことをほぼ全面的に拒否しているのに対し、ブルッゲマンはあえてその領域にも足を踏み入れようとしています。
他方で、ブルッゲマンはパイパーのように単純明快な「解答」を提示することはしません。彼の主張はもっとニュアンスに富んだものであり、そのため分かりにくいものであるとも言えます。この点についてもう少し考えてみましょう。
解釈の多様性
まず、ブルッゲマンはコロナウイルスが人間の科学的探求の範囲を超えた意味を持っている可能性を認めますが、それがどのようなものであるのか、明言はしません。彼は旧約聖書において(少なくとも)3種類の「災い」の解釈があることを認めますが、現代の私たちがコロナ禍についてどの解釈を採用する可能性もあると言います。実際には彼は、現代における人間活動と何らかのつながりがある可能性を認めつつも、それは神が引き起こしたものだとは考えていないようです。けれども、おそらく彼はその他の解釈に対してもオープンなのではないかと思います。
つまり、ブルッゲマンはパンデミックに対する解釈は一つに決める必要はない、と考えているようです。この点に関して個人的に興味深かったのは、4章のソロモンの神殿奉献祈祷についての箇所で、ブルッゲマンが1列王記8章23-53節だけでなく、2歴代誌6章14-42節の並行箇所も取り上げて、その違いを論じているところでした。
列王記と歴代誌はどちらも同じソロモンの神殿奉献祈祷を描いていますが、細部では重要な違いがあります。列王記では祈りの結論部分でソロモンはモーセに言及します(1列王8:53)。その神学は申命記的な双方向の契約神学に基づいています。神のイスラエルに対する関わり方は、イスラエルの神に対する態度に応じて変わってくるのです。このように、列王記におけるソロモンの祈りでは、イスラエルの側の契約に対する忠実さが嘆願の基盤となっています。
ところが歴代誌では、ソロモンはその祈りをダビデへの言及をもって締めくくります(2歴代6:42)。ここで強調されているのは、ダビデに対して一方的に与えられた祝福の約束です(2サムエル7:14-16参照)。つまり、歴代誌では、祈りのアピールは、イスラエルの行いとは無関係に注がれる神の真実に向けられているのです。そのような期待はヤハウェの「ヘセド(強固な結びつき)」に土台するものです。疫病を含むあらゆる災害は、神の変わることのない真実と揺るぐことのない支配の中に位置づけられることになります。
このような違いがなぜ見られるのかを考えるには、列王記と歴代誌が書かれた歴史的状況の違いに目を留める必要があります。列王記はバビロン捕囚中に書かれ、その目的はなぜユダが滅びて捕囚にされたかをシナイ契約の観点から説明することでした。一方歴代誌は捕囚後の時代に書かれ、神が今でもご自分の民を見捨てておられないことを保証する目的で書かれました。どちらも契約に基づくさばきと、神の変わることのない真実が語られますが、列王記では前者が、歴代誌では後者がより強調されているのです。
つまり、疫病と祈りという同じテーマが、異なる歴史的状況の中では異なる神学的文脈の中に位置づけられていることを、聖書自体が証ししているのです。これは列王記と歴代誌だけでなく、福音書のような聖書の他の箇所でも見られる現象です。
このことは、今日私たちがパンデミックを考える際に重要だと思います。世界規模の感染拡大によって、私たちがコロナ禍をどう理解し、それにどう対応するか、ということは、画一的に決めることはできません。それは各自が置かれている状況によって変わってくるのです。だからこそ、ブルッゲマンもコロナウイルスの「意味」を問うこと自体は肯定しながらも、その具体的な実践については唯一の「正解」を与えることはしていないのだと思います。
再文脈化
このことと関連して、本書で目にとまったキーワードは、「再文脈化するrecontextualize」という言葉でした。疫病のような「災い」事態の意味を問うこととともに、もしかしたらそれ以上に重要なことは、それを正しいコンテクストの中で捉え直すことです。ブルッゲマンは聖書の中でもそのような再文脈化が行われていることを示してくれました。災いを神と民との関係の中に正しく位置づけるなら、災いがどれほど破壊的なものであろうとも、それはもはや究極的な重要性を持つものではなくなります。このことは、コロナ禍に直面している私たちにとっても大きなヒントを与えてくれるものとなると思われます。
もしかしたら、このような文脈化は二つのレベルで起こっているのかもしれません。私たちは誰でも、抽象的な概念世界に生きているわけではなく、時間と空間の中にある具体的な状況の中で生きています。したがって、パンデミックに対する神学的応答も、各自の置かれた特定の文脈の中でさまざまなバリエーションが生まれてくるのは当然です。
しかし、それだけでは片手落ちです。私たちは皆、聖書が語る大きな物語の中を生きている存在ですので、私たちの生をつねにこの大きな共通の物語の中に再文脈化していく必要があるのです。
これらのミクロな文脈とマクロな文脈はどちらも必要なものだと思います。聖書の神は歴史の大きな流れを導かれる神であると同時に、私たちが置かれている個別の小さな文脈の中でも共に歩んでくださる存在です。私たちは自分たちの信仰をつねにこの二つの文脈の中に再文脈化し続けていくことが必要なのではないかと思います。それは地に足をつけて歩みつつ、常に聖書に立ち返ることです。カール・バルトが「片手に聖書を、もう片方の手に新聞を持って神学する」と語ったことを思い起こします(バルトが現代に生きていたら、紙の新聞の代わりにインターネットについて語ったかもしれませんが)。
現代文明への警告
上で述べたように、ブルッゲマンは神がパンデミックを引き起こしたとは考えていません。またその意味付けについても多様性を認めているようです。けれども本書の内容から、彼個人としては今回のコロナ禍を現代のグローバル経済と消費主義文化への警告として捉えていることは明らかです。
個人的には、このようなブルッゲマンの視点に共感できます。その原因が何であれ、現代世界が抱えていたさまざまな矛盾や問題(貧富の格差など)がパンデミックをきっかけに表面化してきたことは確かだと思います。それはコロナ禍がなくても対処すべき問題でしたし、神がその問題に人々の注意を向けるためにコロナウイルスを送ったと考える必要はありません。けれども、神の民が来るべき新しい世界のビジョンを改めて思い描き、行動を起こすきっかけを与えているとは言えるかもしれません。
終わりに
全体として、ブルッゲマンの『信仰への召喚としてのウイルス』は、パンデミックに対して、バランスが取れ、ニュアンスに富んだ応答を提供していると思います。彼は目下の危機に対してわかりやすい「解答」に飛びつくのではなく、希望を持ちつつうめくことの重要性を語ります。そしてパンデミックについても人間的探求の限界を超えた神の領域があることを認め、そこに様々な神学的解釈があり得ることを示しますが、単純に聖書のテクストを今の状況に当てはめたり、単一の解釈モデルに押し込めたりしようとはしません。本書はパンデミックに対する明確な「解答」を与えるというよりは、信仰者それぞれが聖書と格闘しつつ、自分の問題として取り組むように招いている書と言えるかもしれません。
最後に、本書の各章は詩文体で書かれた祈りで締めくくられていて、デボーションテキスト的な側面もあります。本書に収められた合計7つの祈りをすべて紹介したいところですが、そのうち一つだけ私訳を示して終わります:
神秘を覗き込む
創造主なる神よ あなたは私たちに善悪の知識をゆだねられました。
あなたは私たちが住む世界の知識を得ることを許され、
その知識は私たちにとって巨大な益をもたらしました。
因果のつながりを制御し、作り出し、説明できるようになったのです。
けれどもごく稀に―今のような時に!―私たちはぶつかります。
私たちを呼び出して恥じ入らせる、あなたの隠されたご性質と。
私たちはあなたの偉大な隠された臨在を覗き込み、
自らの確信がかき乱されるのに気づきます。
ですから私たちは、あなたの聖域の境で躊躇します。
あなたの測り知れない臨在の中では、
あわれみとさばき、
寛容さと責任、
ゆるしと厳しい現実が、
奇妙に入り混じっていることを知るからです。
私たちはあなたの神秘の境にほんのひととき身を置きます・・・でも長居はしません。
それから自分たちに相応しい、知識と研究と説明と管理の仕事に戻ります。
けれども、そのひととき、私たちは変えられます・・・あなたの聖の前に素面になり、召し出され、解放され、驚異の念に満たされるのです。
私たちを出し抜くその聖のゆえに、あなたに感謝をささげます。アーメン。
(続く)