このシリーズの第1回目はジョン・パイパー、第2回目はN・T・ライトによる、今回のパンデミックの考察を紹介してきました。今回取り上げるのは、ウォルター・ブルッゲマン著『信仰への召喚としてのウイルス:喪失・悲しみ・不確実の時代における聖書的省察 Virus as a Summons to Faith: Biblical Reflections in a Time of Loss, Grief, and Uncertainty』です。
ブルッゲマンはアメリカの旧約聖書学者であり、このブログでも取り上げたこともあります(たとえばこの記事)。彼の膨大な著書の何冊かは日本語にも訳されています。ブルッゲマンの前書きの日付は今年の棕櫚の主日(4月5日)ですが、Nahum Ward-Levによる序文の日付は4月24日になっていますので、パイパーやライトの本よりわずかに遅く出版されたということかもしれません。
ブルッゲマンが前書きで述べているように、本書のすべてはコロナ禍を受けて書き下ろされたものではなく、過去に書かれた二つのエッセイも収められています(5章と7章)。本書の大部分は旧約聖書のテクストに対する省察で占められています。
旧約聖書における「災い」
1章でブルッゲマンはレビ記、出エジプト記、ヨブ記等を取り上げ、旧約聖書における「災い」の解釈について考えます(英語のplagueにはコロナウイルスのような「疫病」という意味もありますが、ブルッゲマンはより広いニュアンスでも用いているようです)。著者は旧約聖書の中に、少なくとも3つの可能性を見出しています。
- 契約違反者を罰するために行う神の報復。例:レビ26:23、申命28:21-34、等。
- 神が特定の目的のためになす破壊的力の行使。例:出エジプトの時にエジプトにくだされた災い。
- いかなる人間的理解や説明も超越した、神のむき出しの聖性の現れ。例:ヨブ記における神のヨブに対する答え。
これら3つの可能性を列挙した上で、ブルッゲマンはこれらのいずれも、ただちに目下のウイルス禍に適用することはしません。その前に、まず彼は科学的知見に基づくウイルスへの対応について述べます。彼はこのような営為を肯定的に評価しながらも、同時にそこには限界があることを指摘します。そして彼は箴言25章2節を引用します:
事を隠すのは神の誉であり、
事を窮めるのは王の誉である。
人間の科学的営みは「事を窮める」ことにあり、そこでは上に列挙したような災いの解釈について頭を悩ませる必要はないとブルッゲマンは言います。
では、なぜこれらのカテゴリーについて考えるのでしょうか? それは、人間の想像力は目の前の関心事を超えて、さらに大きく深い不思議に向けられていくからです。私たちの人生は、世界を説明しコントロールしようとする理性だけに収まりきるものではありません。神の世界における私たちの人生には、それ以外の、そしてそれを超えた領域があるのです。これは「隙間の神」の考え方(科学で説明できないできごとを説明するのに神を持ち出す論法)とは違うとブルッゲマンは言います。むしろそれは、「神は侮られる方ではない」ことを示しているというのです。
そこでブルッゲマンは、私たちの説明を超えた領域に関してウイルスについて語るように迫られた時、上に述べた3つの解釈のいずれを用いて語る可能性もある、と言います。これらはいずれも啓蒙主義的理性の枠組みでは受け入れられないものですが、緊急時にはこの近代のナラティヴから一歩踏み出して、創造主と被造物世界に関する広大な主張を垣間見ることができるし、必要でもあるかもしれない、というのです。
興味深いことに、それは垣間見るだけであって、そこに永住することではない、とブルッゲマンは言います。つまり、信仰者といえども近代理性の枠組みからまったく離れて生きることはできません。けれども、そのようにしてより広い世界を垣間見ることによって、目が開かれ、変えられていくこともあるのだ、というのです。そして、コロナ禍の中にあって、このような想像力を駆使して世界の不思議に目を留め、「主を恐れ」「悪を避ける」ことについて考えていくことをブルッゲマンは説教者にすすめます。
2サムエル記24章1-25節
2章でブルッゲマンは、ダビデが罪を犯したとき、主がその罰として3日間の疫病を与えたエピソードを取りあげ、契約に基づくしかるべき罰を受けるような場合でさえも、神のあわれみに基づく希望があることを指摘します(2サムエル24:14)。その希望は神の愛(ヘセド)に対する信仰に基づくものです。
ブルッゲマンは、コロナ禍が人間の高ぶりに対する神からの罰であるとは考えませんが、それでも感染症が世界に対する人間の野心的な働きかけと何らかの関係性がある可能性は否定しません。しかしたとえそうだとしても、そこに単なる因果応報を超えた神のあわれみを求めていくことはできると言います。
エレミヤ書
3章ではエレミヤ書が取り上げられます。ユダとエルサレムの滅亡という国家的な危機の中にあって、エレミヤは民とともに嘆きます。けれども、その中でも神はご自分の民への「強固な結びつき(ヘセド)」を決してなくしてはいない、とエレミヤは言います。神の「ヘセド」のゆえに、回復の希望があるのです。
ブルッゲマンは、現代の私たちも、妥協のない希望を持ち続け、病のただ中でも与えられる神の「ヘセド」を証しし続けることが必要であると言います。
1列王記8章23-53節
4章では、ソロモンの神殿奉献の祈りが扱われます。ここでソロモンは、イスラエルに疫病が起こった時に、民が祈るならばその病気をいやしてくださるようにと神に嘆願しています。
ブルッゲマンは旧約聖書に見られるような、病気と祈りの直接的関係をそのまま現代に移し替えるのは容易ではないと言います。またこのような祈りが為政者のプロパガンダに用いられたり、魔術的な誤用をされる危険性も指摘します。けれども、そのような懸念を超えて、私たちは次のことを聖書から学べると言います。
これらの祈りにおいて、焦点は疫病そのものではなく、祈りにおける誠実さと、その祈りが聞かれるという信頼にあります。つまり、ここで強調されているのは、災害を「再文脈化するrecontextualize」関係の有効性と信頼性だ、とブルッゲマンは言うのです。このような祈りによってイスラエルが契約的生を更新し、ヤハウェが古の約束を履行するとき、両者の関係は再び強固なものとなるのです。その意味で、いくつかの疫病はイスラエルの信仰を刷新する機会となりました。もはや疫病は究極的な重要性を失ったのです。このような信仰のあり方は、コロナ禍で私たちが生きる際にも参考になるとブルッゲマンは言います。
詩篇77篇
5章でブルッゲマンは詩篇77篇について考察します。彼はこの詩篇を「語りの巡礼speech pilgrimage」と呼びます。それは、この詩篇の中で、語り手の人生が自己への執着から神への従順と信頼へと移り変わっていくからです。
ブルッゲマンは詩篇の1-6節では主語が常に「私」であることを指摘します。つまり、語り手の関心はひたすら自己にのみ向けられています。7-9節では神について語られますが、それも結局は「自分のために役立つ神」に過ぎません。この段階では、語り手は自分のことしか考えていないのです。
そして、10節がこの詩の決定的な転換点だとブルッゲマンは言います。
その時わたしは言う、「わたしの悲しみは
いと高き者の右の手が変ったことである」と。
ここで語り手は、神のわざと道は人間の理解を超えていることを悟ります。神と取引したり、その行動を予測したりすることはできません。この自由な神と新たな関係を結ぶためには信仰者の側の自由と想像力が必要になってきます。それは信仰の喪失ではなく、神への畏れに基づいた新たな信仰への扉となるのです。
自我を保持し満足させることのみを追求する今日のナルシスティックな消費文化において、このような信仰のあり方を育み、宣べ伝えることは大変困難な課題であるとブルッゲマンは言います。
10節から11節への移行は簡単なものでも必然的なものでもありません。それは困難な信仰の決断を要します。けれども語り手は11節で新たな想像力の世界に足を踏み入れるのです。まず語り手は「現在」に執着する状況から過去に目を転じます。すると、そこに現れる自由な神の姿にこそ、イスラエルの希望はあることが分かるのです。ここでのキーポイントは13節の「神よ、あなたの道は聖である」だとブルッゲマンは言います。
最後に、ブルッゲマンはこの詩篇の唐突な終わり方に着目します。1-6節で語られていた問題については何も語られません。何も解決していないのです。語り手はただ、15-20節に描かれている内容に基づいて、自分で答えを出すように求められているかのようです。ブルッゲマンは、「何も解決していない。けれどもすべては再文脈化された」と結論づけます。
同様に、コロナ禍のただ中にあって私たちも「私」のことだけに執着する信仰から、聖なる神、「絶対他者 the Wholly Other」としての「あなた」へと目を転じる想像力を持つべきことを、ブルッゲマンは語ります。
イザヤ書43章18-19節
あなたがたは、さきの事を思い出してはならない、
また、いにしえのことを考えてはならない。
見よ、わたしは新しい事をなす。
やがてそれは起る、
あなたがたはそれを知らないのか。
わたしは荒野に道を設け、
さばくに川を流れさせる。
6章ではこの箇所が考察されます。ブルッゲマンは神がコロナ禍を引き起こしたとは考えず、しかもこの危機のただ中に神がおられると信じることは可能だと言います。コロナウイルスの中に、私たちは傲慢で無関心と搾取に満ちた自己中心的な現代世界のあり方に対する警告を見て取ることができる、というのです。
しかし、それだけではありません。ブルッゲマンは、神は私たちの間で新しいことをしておられると想像することができると言います。私たちが預言者たちの正当な後継者であろうとするならば、「預言者の想像力」(これは彼の有名な著書のタイトルでもあります)をもって、新しい歴史的可能性を想像するようにと召されている、というのです。それは寛容で隣人に対するあわれみに満ちた世界です。
イザヤ書42章14-15節
わたしは久しく声を出さず、
黙して、おのれをおさえていた。
今わたしは子を産もうとする女のように叫ぶ。
わたしの息は切れ、かつあえぐ。
わたしは山と丘とを荒し、
すべての草を枯らし、
もろもろの川を島とし、
もろもろの池をからす。
7章で扱われるのは「産みの苦しみ」の主題です。いのちが生み出されるとき、そこには痛みとうめきがあります。ブルッゲマンは、「新しさ」は神にとっても世界にとっても痛みを伴うプロセスである、と言います。このテーマはイザヤ書だけでなく、新約聖書でもバプテスマにおける死と新生の中に見ることができますし、パウロもローマ8章で「被造物のうめき」に言及しています。
神の「新しさ」は大きな犠牲を伴うものです。なぜなら、それは古い被造物世界の放棄を意味するからです。古い貪欲の世界から新しい正義と哀れみと同情と平和と安全の世界への移行は、社会経済的な放棄、悔い改め、譲歩、明け渡しを必要とするのです。
ブルッゲマンはうめきを通して未来への希望を持つことの重要性を強調します。一方で、近代/ポスト近代社会の、未来のないうめきは、絶望しかもたらしません。けれども他方では、グローバル経済や大量消費主義がもたらすような、うめきのない未来像もまた、同様に危険であると彼は指摘します。うめきと希望のどちらも不可欠なのです。
聖書において、希望に先立つうめきは重要な役割を果たしています。旧約聖書ではそのクライマックスはバビロン捕囚でしたし、新約聖書ではイエスの十字架がそれにあたります。十字架上で神に見捨てられたイエスの叫び(詩篇22:1参照)は、神の新しさを体現するメシアでさえも、その新しさを捕囚状態の中で受け取らなければならないことを意味しています。
ブルッゲマンはこのような聖書の主張は単なる悲観主義ではなく、古い世界が崩壊した不在状態の中で十分に待つことをしない合理主義的楽観主義への反論なのだと言います。だとすると、信仰者に求められる想像力は、この不在の中でとことんうめくことです。そこからしか、新しい世界は生まれてこないからです。
以上が本書の内容ですが、長くなりましたので、これに対するコメントは次回に回します。
(続く)