(その1)
パンデミックについての神学的考察、第1回目はジョン・パイパー著『コロナウイルスとキリスト』を取り上げました。
今回取り上げるのは、N・T・ライト著『神とパンデミック:コロナウイルスとその余波についてのキリスト教的省察 God and the Pandemic: A Christian Reflection on the Coronavirus and Its Aftermath』です。
N・T・ライトについては、もはや紹介する必要もないでしょう。現在世界で最も影響力のある神学者・聖書学者の一人であり、このブログでもおなじみです。彼は今回のコロナ禍について何を語るのでしょうか?
前書きの日付は今年の4月になっていますので、パイパーの本とほぼ同時期か、少し後に出版されたものと思われます。ライトによると、本書は彼がタイム誌の求めに応じて書いた短い記事が元になっています。3月29日付のこの記事のタイトルは「キリスト教はコロナウイルスについて何の答えも持っていないし、持つべきでもない」というものでした。
この(人によってはいささか拍子抜けするような)タイトルが本書全体のライトの主張をある程度予測させるものとなっています。そして、このようなライトのアプローチは、前回のパイパーが「コロナウイルスを通して神は何をしておられるのか?」という問いに対して詳細な答えを提供しようとした態度とはまったく異なることに気付かされます。
さらに前書きでライトはこのようにも言っています:
本書の目的は、パンデミックによって提起された問題の「解決」を提供することではないし、そこから何を学べるか、あるいは今われわれは何をすべきか、ということについていかなる完全な分析を行うものでもない。これらの疑問に対して、もっとも大まかな概略以外のいかなる答えも提供する前に、われわれは嘆く時が必要であり、まさにそのような「解決」に飛びつくことを控える時が必要なのである。
ライトが本書で提示するあらゆる主張を吟味する際に、このことをしっかりと覚えておく必要があります。ライトは本書で彼が提示する考えがあくまでも暫定的なものであり、いかなる最終的「解答」でもないことを強く意識しています。彼が批判し警告を発するのは、このパンデミックのただ中ですぐに明確で最終的な「答え」を提供したり、それを求めたりしようとする傾向に対してなのです。
この短い本は5章から成っています。1章は導入であり、2-4章は聖書に見られるデータの考察(旧約聖書、イエスと福音書、残りの新約聖書)にあてられ、5章は現在のコロナ禍にどう応答すべきかについて書かれています。
第1章でライトはまず、今回のパンデミックのような災害に直面した時、古来からさまざまな反応が見られたことを指摘します。キリスト教もふくめ現代にも同様の応答が見られると言います。ある人々はただじっと忍耐し、もしウイルスに感染したらそれまでと考えます。他の人々は自分の殻に閉じこもり、とにかく今を快適に過ごそうとします。他の人々は死後の「天国」への彼岸的希望にすがります。
キリスト教会の反応もさまざまです。あるクリスチャンはコロナ禍は世の終わりのしるしだと言い、またこれは伝道のチャンスだと言う人々もいます。あるいはパンデミックは誰かの(自分たち、あるいは他の人々の)罪に対する神の裁きだと言います。
ライトはクリスチャンがこれらの「無条件反射的応答」に飛びつくことを戒め、聖書が何を言っているかを探ろうとします。
旧約聖書
2章は旧約聖書の考察ですが、ここでライトは苦しみや「悪」の概念について大きく分けて二つのレベルのストーリーを見ています。
第一は神とイスラエルの契約の物語です。ここではイスラエルが契約を破って神に背くと罰を受けるという、罪と苦しみの因果的繋がりが強調されます。その顕著な例がバビロン捕囚のできごとです。ここだけを見ると、コロナ禍は誰かが(人類全体、あるいはその中の特定の人々)が犯した罪への裁きと受け取ることができるかもしれません。しかし、ライトはそれだけが旧約聖書のメッセージではない、と言います。
ライトが旧約聖書から読み取るもう一つのレベルのストーリーは、神が被造物を悪から解放する物語です。この場合、悪の「意味」を理解することはしばしば人間の力を超えています(ライトはその例としてヨブ記を挙げます)。重要なのは、たとえ悪や苦しみの意味が理解できなくても、神はそこから救い出してくださるという希望を持つことができる、ということです。そしてライトは、こちらのストーリーラインがより根源的な深いレベルの聖書の物語であると考えています。
イエス
3章でライトはイエスを取り上げます。イエスの物語におけるキーワードは「今」である、とライトは言います。イエスのできごと(受肉、十字架、復活)において、神の物語に決定的なクライマックスが訪れました。
ライトはイエスの十字架と復活のできごとを、上で紹介した旧約聖書のストーリーラインのうち、二番目の物語と結びつけます。イエスはもちろん罪の悔い改めも宣べ伝えましたが、より本質的には、イエスのしるしは、神が行おうとしている新創造のしるしだというのです。
さらにライトは、イエスのしるしは神が与えられた最後の究極的なしるしである、と言います。私たちはイエス以降のいかなるもの(たとえば自然災害や戦争)も、イエスに代わる新たなしるしにはならない、というのです。現在私たちが「しるし」と考えるいかなるもの(たとえばコロナウイルス)も、このイエスという究極のしるしに照らして解釈しなければならないのです。
もう一つライトが主張するのは、神が主権者であるとはどういう意味か、イエスが再定義した、ということです。パイパーの著書でも見られたように、パンデミックの意味を考える時に、世界に対する神の主権、ということを考えざるを得ません。けれども、そもそも「神の主権」とはどのようなものなのか、それを私たちはイエスに照らして理解しなければならないとライトは言います。イエスにとって、神の主権とは、死んだ友の墓の前で泣くこと(ヨハネ11:35)に表されるような種類の主権なのです。主権者である神は、苦しむ人々とともに嘆く神なのです。
初代教会
4章ではイエス以後の初代教会の歩みを考察しますが、ライトの主張は基本的に、初期のキリスト教徒たちはイエスという最後の究極のしるしを基盤に行動していったというものです。神はイエスにおいてご自分の王国の働きを開始しました。それは人間を通して被造物世界を回復する、というプロジェクトです。教会のミッションは、共同の礼拝を通してこの物語を自分たちのものとして受け取り、この世界において神の代理人として必要とされている働きを行うことです。
この章でライトはかなりの紙幅を割いてローマ人への手紙8章の解釈を論じています(ここはライトがこれまでもいろいろな機会に取り上げてきた箇所です)。神の最終目標は被造物世界全体の回復です。そこで神の民は世界に対する神の支配に加わります(ただしここでも「支配」の意味が再定義されますが)。しかし今の時点で神の民のなすべきことは、世界の苦しみの中で神の民も聖霊と共にうめき、祈ることです。しばしば引用される8章28節は、神が神の民と共に働いてくださる(スネルゲオー)ことについて語っている、とライトは解釈します。教会には神と共にこの世界で働くべき使命が与えられているのです。
現代の教会
5章でライトはこれまでの聖書的考察を現代の状況に適用します。パンデミックのただ中にあって、教会は何をなすべきでしょうか?
ライトによると、パンデミックに対するキリスト者の最初の重要な反応は、嘆くことです(ここで彼が「最初のinitial」と言っていることに注意すべきです)。コロナ禍の「意味」について、簡単な答えを持っていないことをキリスト者は認めるべきだと言います。神学的に言えば、悪の存在を合理的に分析して説明しようとする試みは不毛だとライトは言います。私たちにできるのは、悪が存在することを認め、神がイエスを通してそれに勝利することを信じることだけだと言います。
したがって、教会が問うべき問いは「なぜパンデミックが起こったのか?」ということではなく、「この状況下で我々には何ができるか?」です。教会はまずコロナ禍を、以前から持っている自分たちの主張を伝えるためのメガフォンとして使おうとする無条件反射的な衝動に抗して、まず苦しむ世界とともに嘆くことから始めるべきだとライトは言います。けれどもそのような嘆きから新しい行動が生まれてきます。それは、世界において来たるべき神の王国と新しい創造を指し示す「標識」を作り出していくことだ、と言うのです。
* * *
ここまで見てきたライトの主張を、前回見たパイパーの主張と比較してみましょう。
前回紹介したパイパーの主張、すなわち「コロナウイルスは神が送ったものだ」というメッセージは、ライトがそもそも批判している、パンデミックに対するキリスト教会の「無条件反射的応答」の一つにほかなりません。少なくとも本書の元となったタイム誌の記事を執筆した時点で、ライトがパイパーの本を読んでいた可能性は低いと思いますが、本書はまさにパイパーが代表する保守的キリスト教の反応を想定して、それを牽制する目的で書かれたと言えるかもしれません。(ちなみにライトとパイパーは以前も義認論を巡って論争を行ったことがあり、お互いの立場の違いはよく認識していると思われます。)
神学的立場や方法論においても、両者の間には顕著な違いがあります。パイパーは聖書に対して組織神学的な教理の素材としてアプローチする傾向が強いように思いますが、ライトは聖書を一貫したナラティヴとしてとらえ、その流れの中でイエスの出来事が持つインパクトを考え、それに対して教会がどう応答するかを考えます。
両者は聖書の読み方だけでなく、神の主権の理解においても大きく異なっています。パイパーは神の主権を世界のあらゆる出来事を直接意思し実現する神の力と捉えます。彼はこれを「細部にまで及ぶ主権meticulous sovereignty」と呼びます。コロナウイルスの一粒一粒の動きまで神はコントロールしているというのです。そして、もしそれが否定されるなら、神の聖と義は保証されないと考えます。「コロナウイルスは神が送った」というパイパーの主張は、このような神学的前提からの論理的帰結です。たとえそれがどれほど心情的に受け入れがたくても、それを否定するのは「センチメンタルな神観 sentimental views of God」(パイパー自身の表現)ということになります。
これに対してライトは、人としてこの世に現れたイエス・キリストにこそ、神の主権が何であるかが表されていると考えます。イエスが悲しむ者と共に嘆き、十字架で苦しんで死ぬ時、そこにライトは神の主権を見ます。なぜなら、そのような一見弱いキリストの姿を通して、神の王国が到来し、新しい創造が始まっていくからです。
これらの点において、私は個人的にはライトの立場に大きな共感を覚えます。パイパーの立場は論理的に首尾一貫しているかもしれませんが、それが依って立つ諸前提が正しいかどうかは、吟味する必要があると思います。
けれども、私はライトの著書を読み終わって、なんとも言えないもどかしさを覚えました。それは、彼が結論があまりにも物足りなく思ったからです。ライトはパンデミックに対する種々の「無条件反射的応答」に対して警告を発し、聖書のストーリーラインを職人的な手際の良さで要約してみせますが、では教会が現在のコロナ禍をどう考え、どう行動すべきか、ということになると、途端に彼の筆致は控えめになってしまうのです。
第一に、ライトはコロナウイルスが持つ「意味」に関する議論に立ち入ることをストイックなまでに拒否します(ストア主義的運命論を批判するライトに対して、この表現は皮肉かもしれませんが)。彼が言うような、悪の問題を合理主義的に説明しようとすることの弊害は理解できますし、悪を完全に理解することはたしかに不可能かもしれません。しかし、それでも理解しようとする努力がまったく不毛である、とは言えない気がします。
第二に、ライトは教会がまずなすべきことは苦しむ世界と共に嘆くことだと言います。これにはまったく異論はありません。けれどもライト自身も語るように、それは出発点に過ぎません。そこから出発して、では具体的に何をなすべきか、ということになると、ライトは社会的弱者に寄り添い、彼らのために働くというごく一般的な提案にとどまっているように思います。
もちろんそれらは必要な、尊い働きです。けれども考慮に入れなければならないのは、現代社会において、これらの働きをしているのは教会だけではないということです。特にキリスト教徒が少数派であるような地域では、世俗の様々な団体の方が教会よりはるかに効率的にそれらの働きを行っていることも多いでしょう。さらに、現代の高度に専門化された社会において、例えば医療のような分野では、教会はまったく「お呼びでない」ということもあるかもしれません(個々のクリスチャンが医師として関わる等の場合を除きます)。そういった中で、教会にしかできない働きは何なのか、考えていく必要があると思います。
しかしここで、最初に紹介した本書の目的をもう一度思い起こす必要があると思います。ライトははっきりと、本書の主張は暫定的なものであり、コロナ禍についての最終的「解答」を示すものではない、と述べています。だとすると、今私が述べたような批判は、ある意味で「ないものねだり」なのでしょう。そのような限定化された目的からすると、コロナウイルスの「意味」に踏み込むことなく、まずは嘆くことだ、というライトのアドバイスは、実に的確なものと言えます。
しかし、私たちはそこでとどまるわけには行きません。ここから前進していく必要があります。けれども、それは私たち一人ひとりがそれぞれに与えられた状況の中で取り組んでいくべき課題なのかもしれません。
そのような意味で、本書を読んでライトの主張に対して「物足りない」と感じることは大切なことだと思います。むしろ、そう感じて当然なのです。本書でライトが提示している内容でとどまっていてはならないと思います。著者のライト自身、そのように願っているのではないでしょうか。
ここまで、ジョン・パイパーとN・T・ライトという2人の著名な神学者の著作を紹介しました。この2人の主張を比較するだけで、同じパンデミックに対してもキリスト教会には様々な理解や応答があることが分かります。けれどもこれだけではありません。さらに別の声も紹介していきたいと思います。
(続く)