藤本満先生によるゲスト連載、その4回目をお届けします。
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女のかしらは男?
前回の投稿を読んでくださった方は、私が神学的な男女平等論に立っていることをご理解されたことでしょう。男女が等しく神のかたちに創造されているばかりか、社会や家庭における役割においても平等、さらに聖職的な立場においても等しく奉仕ができるという立場です。今回、そのような立場の背景にある聖書理解を記してみます。
- 神は人を男と女に創造された
創世記1:27「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に創造された」。すぐそのあとの28節に「生めよ。増えよ。地に満ちよ」と、神は人を男と女に創造することによって、人に新しい生命の誕生の恵みを授けられました。
こうして誕生した男女には、生物学的、身体的、心理的な差異があることは事実です(一様ではないにしても)。しかし、神が人を男と女に造られた意図は、他の動物が雌と雄に区別され、生命の増殖がなされるのとは同じではありません。
その点を明らかにしているのが、創世記2章の創造の物語です。7節に「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた」。創造したアダムに神は言われました。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう」(18節)。こうして神は人(アダム)を眠らせ、あばら骨の一つを取り、それをもって一人の女を造られます。つまり男と同質・同類の人として創造されています。
しかし、ここで女が男の「ふさわしい助け手」(口語訳・新改訳)として造られた、とあります。ともすると、「ふさわしい」となると、男にとってふさわしいと勝手に考えてしまいます。男が社会に出て働き、女は子どもを産み、主婦として家事をし、夫の主導に聞き従う、と。しかし、この言葉はそういう意味ではありません。聖書の訳では、そこを苦心しているのが新共同訳聖書で、「彼に合う助ける者」と訳されています。「ふさわしい」を「合う」に変えたのです。
「ふさわしい助け手」のことを「エーゼル・ケネグドー」と言います。「エーゼル」とは「助け手、助ける者」です。「ケネグドー」の「ネゲド」は「向かい合う」、前置詞の「ケ」は「~としての」の意ですから、「彼と向かい合う者としての助け手」となります。
そして、聖書で「助け手」(エーゼル)という言葉は、どこにおいても従属性を意味していません。神が人間の助け手であるというように、神に対して用いられる言葉でもあります。
幸いなことよ ヤコブの神を助け(エーゼル)とし
その神 主に望みを置く人
(詩篇146:5)
女は男にとって、顔と顔とを向かい合わせながら共に生きる相手です。神はアダムのために彼の最も必要な助け手として、もう一人の人(女)を造られました。「助け手」がなければ欠けが生じてしまうほど、互いが互いを必要としているのです。
ですから、神が女を男のところに連れてきたときに、男は感動して言います。「これこそ、ついに私の骨からの骨。私の肉からの肉。これを女と名づけよう」と(創世記2:23)。女は土のちりからは造られませんでした。人間は、自分と向かい合って、共に、助け合いながら生きる相手、パートナーと共に生きるべきものです。男と女は同質・同族でありながら、違いがあります。そもそも違いがなければ交わりは存在しません。明確に自分とは異なる「相手」だからこそ、対話が可能で、交わりが成立します。しかし、男が女を屈服させ、同化することは神の意図ではありません。人間は独りで生きるべきものではありません。自分に合う助ける者と共に、交わりの内に生きるものです。
「他者への依存に人間の被造物性は基礎を置いていて」、別人格との相互の交流は、三位一体である神、父・子・聖霊なる神との間の交流の関係に由来している。つまり、神のかたちに造られたということの中心に、この相互に対等で、しかも一つになれる男女のあり方がある、と説明したのはディートリッヒ・ボンヘッファーです(『創造と堕落』生原優訳、新教出版、1962年、48頁)。ここから始まって、人間の交わりは、三位一体の神に規定されているという考えが広がり、深められていきました(バルト『教会教義学』II/1. S.307,邦訳版37頁、モルトマン『創造における神』、357頁、パネンベルク『人間学』、676頁)。パネンベルクのもとで学んだグレンツの前回紹介した The Social God and the Relational Self も、三位一体の神のかたちに創造された人間のあり方、そして共同体の姿を描いています。
- キリスト教における男女平等論への壁
さて、このように男女相互の平等性を論じる時、分厚い壁となって前進を妨げてきた聖書の言葉があります。それが言わずと知れた、コリント人への第一の手紙11章に見いだされるパウロの教えです。
すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。(1コリント11:3)
男は神のかたちであり、神の栄光の現れ……一方、女は男の栄光です。(同7節)
この聖書の箇所には、教会で女性が祈りや預言をするときに「かぶり物をつける」という私たちにはなかなか理解できない、当時の習慣にそったパウロの教えも挟まっています。込み入った論を転じると説明が難解になりますので、「かぶり物」の論議は割愛し、この箇所を「神のかたちに創造された男と女」という視点から、この箇所をどのように解釈するのか、つまり壁だとしたら、それを乗り越えて前進する方法にはどのようなものがあるのか説明したいと思います。
まずパウロへとたどり着く聖書の流れを説明します。創造の物語で、これほど麗しく描かれているアダムとエバですが、創世記3章で男女の根本的なあり方は、ゆらぎはじめます。園の中央の木の実を食べてはいけないと言われた二人をサタンが誘惑し、エバは食べてしまいます。女はその実をアダムにも与えて、二人は神の命令に背きました。二人の間に恥の感情が芽生え、神から身を隠し、罪の事実を指摘されたときには、互いに非難の応酬が始まります。4章でカインとアベルが二人の間に生まれましたが、描かれているのは幸せな家庭ではなく、兄カインが弟アベルを殺し、カインは「エデンの東」に住みます。ジョン・スタインベックの小説『エデンの東』、有島武郎の小説『カインの末裔』にあるように、家族関係はゆがんでいきます。もちろん男女・夫婦もそうです。
旧約聖書に女が描かれると、その背後には古代社会の慣習が絡みついているのを読み取ることができます。男性中心の父権社会です。アブラハムが身を寄せた国で美しい妻サラを妹だと嘘をつけば、その国の王がサラを奪いにかかります。娘は結婚するまでは父親の支配下にあり、花婿は花嫁を迎えるために、父親に金銭や家畜を贈り物として差し出します。女性は売買契約の対象にもなりますし、神殿の中に入ることは許されません。
こうした因習を打破したのが主イエスです。イエスの12人の弟子たちとともに、女たちも弟子の仲間でした。
悪霊や病気を治してもらった女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、その他多くの女たちも一緒であった。(ルカ8:2-3)
12年長血を患った女、サマリヤの井戸に昼間に水を汲みに来る曰く付きの女、ツロの地方に住む娘が悪霊に憑かれた女……。イエスは女性たちを憐れに思い、悩みを聞き、癒やし、行動を共にすることを許し、ベタニアのマルタとマリヤのもてなしを受けました。このように、イエスが女性の尊厳を守り、心温まる関わりを保たれたことを聖書は大切に記しています。
そうすると、パウロがコリントの教会への手紙の中で、女性は集会の中で沈黙と服従を守るように伝え、なおかつ「女のかしらは男である」「女は男の栄光を現す」という言葉に、現代の私たちは違和感を感じて当然だろうと思います。
いやパウロ自身が、当時の社会的な因習に反して、きわめて女性寄りのアプローチを取ってきました。ピリピの教会は、リディアを救いに導き、彼女を中心として始まります。教会にはパウロの「真の協力者」としてユウオディアとシンティケがいました。いずれも女性です。あるいはローマ人への手紙16章を見ますと、パウロの同労者・友人たちの挨拶が記されていますが、その中に、教会の奉仕者(執事)フィベ、同労者プリスカ、教会のために労苦を惜しまないマリア、パウロより先にキリスト者となり、使徒たちにも知られていたユニア、トリファイナとトリフォサとペルシス、パウロが「私の母」と呼んでいるルフォスの母など、パウロが心から尊敬をもって接している女性が、主の働き人として挙げられています。
しかし、男性優位社会は、当然教会の中にも存在していた(存在してきた)ことは否めないでしょう。フラーの神学者ジュウェットが言うように、「神の啓示は必ずしも完全に歴史や文化を超越しているものではなく、むしろ啓示は歴史や文化を贖うものであり、そのプロセスはしばしばゆっくりとなされる」(P. K. Jewett, Man as Male and Female: A Study in Sexual Relationships from a Theological Point of View, 1975, 124-125)という説明には、正当性があると私は考えています。神の言葉は、歴史的・文化的な文脈の中で語られるとしたら、男女が平等に「キリストを恐れて、互いに従い合いなさい」(エペソ5:21)と総括されながらも、妻には夫への服従が主に語られ、夫には妻を愛しすることが語られることもうなずけます。また第一コリント11章は教会の混乱を考えれば、女性の慎みが強調されることも理解できます。
啓示が文化を最終的に贖っていくとき、ガラテヤ3:28「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです」との、男女平等論の「マグナカルタ」が実現すると考えれば良いのでしょう。
先のジュウェットの考え方は、当時のフラー神学校を二分するほど、逐語霊感説に立つ米国ウォーフィールド型の聖書信仰にとっては受け入れられないものでした。私にはそれほど違和感はありません。しかし、今ひとつ納得がいかないのです。それは、パウロはどのような意味で「女性のかしらは男性である」と言ったのか、単なる男性優位社会が反映されている表現とは思えないからです。この解釈については、実に数多くの文献が、コリント書の注解書と共に出されています。
- 女は男の栄光?
コリント人への第一の手紙11章については、多くの論考・注解書が出ています。それらの中で、一冊、「納得が得られそうな」論をまとめている注解書を紹介します。それが、英国の解釈学者シセルトンの注解です(Anthony C. Thiselton, The First Epistle to the Corinthians)。
シセルトンはまず、ドイツの聖書学者ハンス・コンツェルマンが、この箇所の解釈の鍵が「かたち(像)」にあることに注目します。像(エイコン)は、実体(本体)を映し出す彫刻・彫像・影を意味します。像は実態を反映させるものです。ちょうど、ヘブル1:3で「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであ」ると言われているように、本来見ることができない神を、御子イエスが映し出しているわけです。父と御子の関係とは質を異にしても、人が神のかたちに創造されたとき、人は神の臨在と愛を反映させる・具現するように生きることが求められている。それが創世記の創造の出来事の意味することであると。「像」は、本体(神)のために、本体との関係性の中に生きるために造られました。
この関係性は、女が男「から」創造された、女は男のかたちである、という表現にも当てはまるというのです。女は男性としての人とは異なっていても、同時に男性がどのような存在であるのかを映し出している、と。ここでシセルトンはモルトマン(Man: Christian Anthropology, Eng. trans. 1971, 108-09)を引用し、さらにゴードン・フィーの注解を引用しています。フィーは「かたち」と「栄光」との関係に着目して、次のように考えます。
おそらくパウロは、一方の存在が他方の誇りと栄誉をもたらすということを言いたいのではないだろうか。ご自身のかたちに男を創造することによって、神はご自身の栄光を男の中に置いた。……男独りでは欠けがあり、……男とは異なっていても同じ質の存在(女)が作られ、女は独特に男自身の栄光となった。……パウロのポイントは……創造の物語では、この順番で出来事が起き、その逆ではない。
ここに描かれているのは優劣の問題ではなく、創造の物語の順番にとどめるべきだと。そして「女が男の栄光」であるというとき、女性の存在によって男性はその輝きを放つことができ、そのことは相互に当てはまることです。ですから、神は男と女を結び合わせて一つとされました。
創造の物語の順番から安易に優劣を引き出すことがないように、パウロは相互性について語り、そして最後に、どんな男も女から生まれることで話を締めくくっています。それが、1コリント11章11節と12節です。
11 とはいえ、主にあっては、女は男なしにあるものではなく、男も女なしにあるものではありません。12 女が男から出たのと同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から出ています。
次回は、「神のかたちは、土の器のなかに」と題して、人間存在の危うさ、曖昧さ、について思うことを記してみます。