今、米国で人種間の対立が再び表面化してきています。ミネソタ州ミネアポリスで白人警官に拘束された黒人男性が死亡した事件をめぐって抗議デモが全米各地に広がっていることは、各種報道で広く知られているので、それについて詳述することはしません。ただ、今回の事件が起こったミネアポリスは私の妻の出身地であり、今でも家族がその地域に住んでいます。また私がアメリカで最初に学んだベテル神学校も、隣町のセントポールにありました(この2つの町は合わせて「双子都市Twin Cities」と呼ばれています)。したがって、個人的にもつながりのある地で起こった悲惨な事件に深い悲しみを覚えています。
今回の事件についていろいろと思い巡らしていたとき、一人の人物の顔が思い浮かんできました。それはベテル神学校時代の恩師の一人、ラルフ・ハモンド師(Dr. Ralph E. Hammond)でした。
Dr. Ralph E. Hammond (1938-2004)
(Photo via findagrave.com)
ハモンド師はベテル神学校で牧会ケアの准教授、そして多文化問題のディレクターを務めておられました。1991年にベテル初のアフリカ系教師として就任しましたが、教師も学生も白人が圧倒的多数を占めるベテルで黒人教師として教えることは、「ベテルでもっとも困難な仕事」と言われました。私が先生の担当する「文化とミニストリー」のクラスを受講したのは、2000年のことでした。
「文化とミニストリー」のクラスでは、アメリカにおける人種差別(レイシズム)の問題が非常に先鋭的な形で取り上げられました。そのため、しばしばクラスの多数派を占める白人学生と教師の間で激しい論争になることもありました。渡米して間もなかった私は、この白熱したやりとりをあっけにとられて眺めていたことを思い出します。けれども、このクラスで私は、たくさんの重要なことを学びました。
この授業の中で繰り返し語られたことは「アメリカにおける白人の特権とは、そのことを意識しなくてもよいことである」というフレーズでした。これはハモンド師自身の言葉ではなく、誰かの引用でしたが、引用元は覚えていません。けれども、この言葉自体は強く記憶に刻まれています。
つまり、多数派に属する人間は、多数派であることによって享受している様々な特権について意識しなくても暮らしていけるということです。それに対して、少数派はつねに自分たちが少数派であることを痛烈に意識せざるをえません。そうでなければ、生きていくことができないのです。白人が空気を吸うように当たり前に受け取っている恩恵は、黒人には与えられない――今回の事件で殺された黒人男性ジョージ・フロイド氏が警官から暴行を受けた際に発し、その後プロテスト運動のスローガンとなった「息ができない I can’t breathe」と言う言葉は、そんなアメリカ社会の閉塞感を象徴しているかのようです。
今日のアメリカに住む白人の中で、意識的に他の人種を差別している人は少ないと思われます。ベテルの白人学生たちもそうでした。だから授業でハモンド師から「あなたたち白人はレイシストだ!」と言われると、彼らは腹を立てて教師に食って掛かることもありました。「自分は黒人やアジア人を差別したことは一度もないし、有色人種の友人もたくさんいる。その私がレイシストだというのか?」というのです。けれども、先生が言われていたのはおおよそ次のようなことでした:
「あなたはレイシストだ」というのは、必ずしも「あなたは悪人だ」ということではない。あなたは個人としてはとても良い人間で、なおかつレイシストであることもできる。レイシズムとは単なる人種的偏見ではない。それは「人種的偏見プラス権力」なのである(したがって少数派である黒人が白人に対して人種的偏見を持っても、それがその偏見をもって相手を抑圧する権力を伴わなければレイシズムとは言わない)。人種的偏見を制度化してマイノリティの人々を抑圧する社会システムが一たび完成すると、その中で生きる多数派の人々は、そのことをまったく意識しなくても、人種差別的な社会システムの中に生きているだけで、自動的にそのシステムの恩恵を受けることができるようになる。これがレイシズムの問題の核心である。
したがって、多数派の白人は、ただ単に個人的な差別感情を持たないというだけでは十分ではない(ハモンド師はこのような人々を非人種差別主義者non-racistsと呼びました)。自分がどのような差別的なシステムの中に生きているかを意識して、それを変えるように積極的に働きかける(つまり反人種差別主義者anti-racistsになる)べきである・・・
要するに、私はハモンド師のクラスを通して「構造的な悪」の問題について学んだのです。それは個人の良心に訴えかけるだけでは解決不能な悪の現実です。そして、残念なことにキリスト教会がそのシステムに自ら加担したり、逆に権力者から利用されることも少なくありません。このような構造的な悪の問題を解決するためには、個人の魂の救いにのみフォーカスを当てた信仰理解では不十分です。この授業は、私の信仰がより社会的なものへと開かれていくきっかけの一つともなりました。ジェイムズ・コーンのような黒人神学者を知ったのもこの頃です。
当時アジア人であり非アメリカ国籍の留学生であった私は、このような議論を、部外者の目である程度客観的に見ることができたと思います。けれどもその中で、このような多数派と少数派の力学は他のいろいろな社会集団にも適用できることに気づきました。上で引用したテーゼを一般化すると、「あらゆる集団における多数派の特権は、自分が有している特権を意識しなくてもすむことである」と言い換えられるでしょう。この「多数派」にいろいろな具体名を入れていくことができます――たとえば「日本における日本人」のように。
私はそれまで、日本の中で自分が多数派である「日本人」に属していることによってどういう特権を享受してきたかなど意識したことすらありませんでした。けれども、この授業を境に、在日外国人のようなマイノリティの方々に対してより関心を持ち、日本における差別の問題を考えるようにもなっていったのです(いまだに到底十分とは言えませんが)。いきなり自分に関わりのある現実を突きつけられると、反射的に身構えて防御的になり、冷静で客観的な思考ができなくなってしまったかもしれませんが、異国の地で起こっている人種問題を第三者の目で観察することにより、そこにある一般的原則をより抵抗なく受け入れることができたのではないかと思います。
そしてここにこそ、日本人が現在アメリカで起こっている人種問題に関心を持つべき大きな理由があります。多くの日本人にとって、アメリカにおける白人と黒人の対立は、地球の反対側で起こっている、自分とは無関係なできごとかもしれません。しかし、「自分には関係がない」と思っているなら、まさにそれこそ、重要な真理を客観的に学ぶ絶好のチャンスかもしれません。
あらゆる社会が内包している普遍的な問題に気づく時、私たちはそのレンズを用いて自分たちの社会も精査することができるようになります。そのようにしていくならば、他国で起こっているできごとも、掘り下げていくと自分の国で起こっている問題と地下茎のようにつながっていることが分かるのではないでしょうか。ちょうどイエスのたとえ話を他人事として聞いていた人々が、実はその話は自分たちのことを語っているのだと悟ったように。そして、そのことに気づくこと、つまりこれは自分の問題でもあることを知ることは、多数派の人間にとっても必要不可欠です。なぜなら、構造的な悪は被抑圧者だけでなく、抑圧者自身の魂に対しても破壊的な影響をもたらすからです。
和解のために必要なことは、相手の立場に身を置いて考えることです。この最も単純で基本的な真理をラディカルに実践し、アメリカ社会における白人と黒人の意識の違いをこれ以上ないほど鮮明に浮き彫りにした名著として、ジョン・ハワード・グリフィンの『私のように黒い夜』(原著)をお薦めします(原題のBlack Like Meはラングストン・ヒューズの詩から取られています)。白人の著者が肌を黒くして黒人になりすまし、人種差別が今日よりもさらに激しかった1959年のアメリカ南部に命がけで潜入して、そこでの体験を綴るドキュメンタリーです。そこで筆者は、それまで白人として当たり前のように享受していたさまざまな特権――たとえば、のどが渇けばどこででも水が飲めるというような「ごく当たり前のこと」――が黒人には禁じられていることを肌身で体験して衝撃を受けます。現代の、またアメリカ以外の国に住む人々にも訴えかける普遍的なメッセージを持っています。(ちなみに著者はカトリックのキリスト者で、トマス・マートンの友人でもありました。)
グリフィンが経験したような人種差別の現実を歌った歌の一つに、「Down in Mississippi」があります。公民権運動の活動家としても知られるメイヴィス・ステイプルズのアルバム「We’ll Never Turn Back」に収められたバージョンを紹介します。
ばあちゃんと一緒に砂利道を歩いていた
ミシシッピの太陽が照りつけたので
水を飲みに行ったばあちゃんは言った
そこの水は飲んじゃあだめだ、あっちで飲みな
あっちの水飲み場には「有色人種のみ」って書いてあるだろ・・・
ミシシッピに住んでりゃ
同じような表示はいくらでも目にしたもんだ
でもキング博士がそいつをみんな取っ払ってくれたのさ
あのミシシッピでだよ
嬉しいったらありゃしない
私の人生に大きなインパクトを与えたラルフ・ハモンド師は、私がベテルを卒業した2年後の2004年に帰天しました(その経歴については、こちらの追悼サイトで読むことができます)。もし先生が存命であったら、今のアメリカの状況をどんな思いで見ておられるでしょうか・・・
そんなことを考えながら、今回の事件に関する報道を見ていて気づいたことがあります。それは黒人男性の理不尽な死に抗議している人々は黒人だけではなく、白人も含むあらゆる人種の人々であることです。また若者もたくさんいます。そして、抗議に加わっているのはアメリカ国内に住んでいる人々だけでもありません。その声は国を超え、世代を超えて広がっています。太平洋を隔てた日本でも、この問題に高い関心を持ち、SNSなど新しいコミュニケーション手段なども駆使しながら活発な発信を行っている若者たちがいます。私たちの希望は、このような次世代の人々にあるのかもしれません。
上のアルバムからもう一曲「We Shall Not Be Moved」を共有します。このアルバムは、歌詞を味わいながらぜひ全体を通して聴くことをお薦めします(レコード会社による公式YouTubeサイトはこちら)。
私たちは動かされることはない
流れのほとりに植えられた木のように
私たちは動かされることはない自由のために闘う
子どもたちのために闘う
強固な一致を作り上げるのだ
黒人も白人も手を取り合って
老いも若きもいっしょになって私たちは動かされることはない
流れのほとりに植えられた木のように
私たちは動かされることはない
この歌には詩篇1篇への引喩が含まれますが(「流れのほとりに植えられた木のように」)、悪を避け善を選ぶようにと教える詩篇の内容をよく反映しています。
悪しき者のはかりごとに歩まず、
罪びとの道に立たず、
あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
このような人は主のおきてをよろこび、
昼も夜もそのおきてを思う。
このような人は流れのほとりに植えられた木の
時が来ると実を結び、
その葉もしぼまないように、
そのなすところは皆栄える。悪しき者はそうでない、
風の吹き去るもみがらのようだ。
それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。
罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。
主は正しい者の道を知られる。
しかし、悪しき者の道は滅びる。
人種間の和解は複雑で根が深い問題であり、簡単には解決が見いだせないかもしれません。けれども、希望を失うことなく努力し続けることが、ハモンド師の遺志を受け継ぐことでもあるのではないかと思わされています。
【6/7追記】フロイド氏が殺害された次の日曜日である5月31日に、セント・ポールにあるウッドランド・ヒルズ・チャーチ(ベテル時代に私たち家族が出席していた教会)で持たれた礼拝の動画を共有します。グレッグ・ボイド師が構造的人種差別の問題について説教し、その後アフリカ系の兄弟姉妹とのディスカッションを行いました。説教要旨はこちらのサイトにあります。
こちらは同じ日に語られた、ウイリアム・バーバー師のメッセージ「アメリカへの牧会書簡 A Pastoral Letter to the Nation」です(テクストはこちら)。