当ブログではもうおなじみの藤本満先生ですが(過去記事はこちらやこちらを参照)、このたび神学的人間論というテーマで、シリーズで投稿していただけることになりました。今回はその第1回をお送りします。
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神の像に創造され、キリストの像に贖われる
――キリスト者の「生」と人間論」の今日的諸課題――
2020年5月に福音主義神学会〔東部)で、このテーマで講演をさせていただく予定でした。それは11月に開催予定の学会全国研究会議が「キリスト者の成熟」であるからです。とりあえず、私の講演は来年に21年に延期となりましたが、今回用意したものを東部の許可を得て、山﨑ランサム和彦先生のブログに掲載させていただくことにしました。
まだ全部まとめていません。書きやすいところから書き始めました。4つ論考を掲載の予定ですが、
① 物語神学とキリスト者の生
② ピスティス・クリストゥ論争とキリストの像
③ 「神の像をゆがめて用いるとき」
④ 土の器と神の像
です。4つの関連性は必ずしも一貫していません。そこで「諸課題」としました。
物語神学とキリスト者の生
- 人は人生を物語として把握している
人は誰でも、物語の中で自分はいかなる者なのか(アイデンティティー)を捉えます。履歴書一枚に現れているように、自分は誰の子どもとして、どのように生まれ、育ち、何をしてきたのか。しかし、人の「生」は単なる時系列的出来事の羅列ではなく、人生に生起する様々な体験、その人の内側で独特の意味づけをもちながら「人生」となっていきます。その時、物語は、人生やそこに生起する出来事を把握する「認識行為」と言ってもいいでしょう。人は、人生という物語の中で、自分を意識します。
カトリックの神学者セスブーエは、次のように記しています。
「人間とは記憶するものであるので、物語がある。人間の特性は、その存在を儚き無数の瞬間に散らばらせる止めど難き時の推移を超越することが出来る、ということにある。人間はこのような時間の流れにもかかわらず、その記憶によって自分の存在の統一性を維持し、自己同一性を意識することが出来る」(B・セスブーエ『イエス・キリスト――唯一の仲介者 下』堤安紀訳、サンパウロ、39頁)
人は誰もが物語を生きています、生きてきた物語を持っています。人はバラバラな出来事を筋立てて振り返ることもでき、またそこに意味を見いだすこともできます。
こうした「物語的」生の特徴は、神の啓示/語りかけである聖書にも色濃く現れています。イスラエルはギリシャ人のように「神とは何か?」と神概念を問うことをしません。イスラエルが神を認識するとき、「神とは誰か?」、その方が「何をなされたのか?」を問います。ですから、イスラエル最古の信仰告白と言われる申命26:5~10(「あなたは、あなたの神、主の前で次のように告白しなさい・・・)においても、出エジプトの出来事が物語られています。神の自己啓示は歴史の出来事の中でなされ、それが人々の言葉に伝承され、記され、そうして神がどのような方であるか認識していきました。それ故、神はアブラハム・イサク・ヤコブの神であり、それぞれの生涯の中に現れた神なのです。
もちろん、物語は教理的・概念的な命題を否定するものではありません。物語とは、歴史的出来事を一つの筋書きでまとめる「解釈行為」なのですから、それを綴る者の神学が物語の骨格を形成します。ですから、四福音書のように、同じ出来事の同じ物語であっても、それぞれの解釈(神学)を私たちは認めることができます。もしこの神学(解釈/意味づけの行為)がなければ、物語は出来事の羅列にしかすぎません。
- 聖書の物語が人を捕らえるとき
先のセスブーエは、そのような物語は「『実践的』であり、それは私たちを巻き添えにし、私たちに『呼びかけ』、そして私たちがその中に入り、その当事者になるように招く」(前掲書、44頁)と記しています。これが神の言葉である聖書の特性である、と筆者も考えています。
物語は読者に呼びかけ、中に入るように招き、読む者を巻き込んでいくという考え方を、マイケル・ロートは次のように図式化して説明します。
人はだれでもこの世における自分の物語を持っています。それを、キリストに出会う前の、「プレ(前)物語」と呼ぶことにしましょう。この「プレ物語」に、聖書の「プロト(原)物語」が介入してきます。聖書に描かれている「プロト物語」は、創造から救済へ、救済から終末へと至る大きな物語です。神の物語に出会っていなければ、私たちの物語は、野の草のようなはかない物語にすぎません。それは、朝には花を咲かせているが夕べにはしおれて枯れてしまうだけです。しかし、私たちが、聖書の大きなプロト物語に出会うとき、それは私たちがこれまで生きてきたプレ物語と衝突し、悔い改めや信仰が喚起されて、私たちをキリスト者、すなわち「ポスト(後)物語」を生きる者へと変えられていきます。(Michael Loot, “The Narrative Structure of Soteliology,” Why Narrative? S. Hauerwas and L. G. Jones, ed)
このように、私たちを聖書の世界へと招き入れ、私たちがこれまで生きてきたプレ物語と対峙し、私たちの生を変革させるのは、教義ではなく、物語が持っている「言説の特徴」であると言えるでしょう。なぜなら、人間の物語と神の物語には、呼応性があるからです。たとえば、イスラエルの教師でありながら、本当に自分の教えと実践で神の国に入れるのかと疑問を抱き、人目を忍んで夜中にイエスに訪れるニコデモ。どうせ周囲からのけ者にされる仕事をしているのなら、暴利をむさぼってやろうと取税人の長となったザアカイ。長血を患い医者通いで財産を使い果たす長血を患う女。羊飼いを失って右往左往する群衆。イエスを船にお乗せしていながら、嵐一つでうろたえる弟子たち。イエスの十字架の傷跡に自分の指を入れてみなければ、信じないと意地を張るトマス。
このような聖書の登場人物は、必ずと言って良いほど、「ある時」の私たちに呼応します。読んでいるうちに、物語の中に自分自身が入って、まるで自分自身がイエスと対峙しているかのように感じます。このような呼応性(類似性)を物語は持っています。
さらに、救いの出来事とは、聖書のプロト物語が、私たちがこれまで歩んで来たプレ物語を否定するところから始まります。イエスはニコデモに、彼が想像もし得ないない「人は新しく生まれなければ神の国に入ることができない」と、彼のプレ物語とはまったく異なる「救いのモデル」を提示されました。人からのけ者にされ、金儲けに邁進していたザアカイは、イエスに赦され、温かく迎えられることによって、自分の行なってきた悪事を悔い改めて償うという逆転人生へと踏み出しました。ザアカイは「あなたもアブラハムの子なのだから」というプロト物語によって変えられました。
人がプロト物語に出会うと、プレ物語が否定され、回心が起こるというだけではありません。聖書のプロト物語は、その人物を福音に生きる者と変えてくださいます。教会を迫害していた物語を背負うパウロが、復活のキリストに出会い、悔い改め、イエスを信じます。プレ物語にプロト物語が突如介入しました。そしてその後、彼は福音を異邦人に伝搬する恵みの器として遣わされます。それがパウロの「ポスト物語」です。言うまでもなく、キリスト者はポスト物語を生きています。聖書の聞き手・読み手は、プロト物語に示された神のリアリティー引き込まれ、悔い改め・回心するだけでなく、神のプロト物語を自分自身のものとして、人生が変わらなければなりません。それがキリスト者のポスト物語です。
福音書だけではありません。たとえばパウロ書簡においても、その背景にパウロ自身が復活のキリストに出会った体験、そこで砕かれ、召され、派遣されるという意識、また使徒の働きに物語れている伝道旅行の苦悩、諸教会の成り立ちや事情、最終的には彼の投獄・裁判の物語があって、パウロ独自の神学的な認識、あるいは教会に宛てられた教えがあります。こうして私たちがパウロの神学的教えに感化されるときも、私たちは彼の生涯(プレ物語・プロト物語・ポスト物語)というナラティブが大きく影響しています。
- 「今ここで」、ポスト物語を生きる
聖書の物語性は、現代の私たちを過去の出来事、旧約聖書・新約聖書のテクストに描かれている世界の中に引き込むだけではありません。聖書は私たちを引き込み、取り込み、次に私たちを今日の世界に送り出して、その物語を生きることを求めます。筆者はこのような考えを強調する多彩な顔ぶれを『聖書信仰――その歴史と可能性』(2015)の中で紹介しました(308~347頁)。
・プリンストン大学のW. S. ジョンソンの次の言葉はポスト物語を生きるキリスト者の姿を代表していると言えましょう。「物語は固定化されたものではなく、ダイナミックなものであり、それゆえ、新しい場面で新しい事柄が追行されている。換言すれば、聖書的物語は、単に私たちに神の本性について語るだけではない。現在神がどのようなお方であるのか(神のアイデンティティ)をたえず、新しい仕方で私たちに明らかにし続ける。」(拙著、314頁)。
・フランスの哲学者ポール・リクールは、テキストの持っている「現在性」こそが、その「聖性」であると主張しました。どういうことでしょうか? リクールはイギリスのJ. オースティンやアメリカのJ. サールらの哲学者の「言語行為論」を取り入れて聖書の言葉を考えています。聖書のテクストが今日に向けて力を発するとき、それはなにも聖霊の働きによるだけでなく、「言葉そのもの」に現在的な発言者の力が含まれている、と。それを言葉の「遂行(パーフォーマティブ)行為」と呼びます。過去に発せられた言葉が、その言葉を聞く者、読む者の心に届くとき、その力は昔も今も変わらないという特性があるということです。リクールは、この遂行行為をテクストが持っているからこそ、聖書は神の言葉であると呼ぶことができると考えます。神の言葉は今を生きる私たちの物語に力を発揮します。(拙著、316~320)。
・アメリカの旧約学者ブルッゲマンも、聖書が発する今日的メッセージに注目してきました。テクストは、知的な意味とは別に「もう一つの現実を生み出す」、つまり物語の世界を生み出すと彼は考えます。テキストを読む者は、読解に根ざしつつも、「そこから解放された想像力がテキストを読み返すごとに(新鮮な)解釈」を要求してくる、つまりテクストがどのような「意味をもっていたのか」ではなく、テキストがどのような「意味を持っているのか」が、私たちの取り組むべき課題である。聖書という神の物語を読み解く者は、テキストに肉薄するだけでなく、それが生み出そうとしている今日的世界を想像する力を持たなければならない。(拙著、326-328頁)
・今日最も発言力を持っている英国の新約学者N. T. ライトも次のように述べます。聖書は「神がイエス・キリストにあってこの世を贖われた事実を確証させる物語である。それは他の世界観を打ち破る物語であり、それは性別年齢にかかわらず、すべての人を招いて、この物語が自分たち自身の物語であることに気づかせる。換言すれば、私たちが聖書を聖書とするとき、神は私たちを通し、聖書を通して、ご自身の意図されていることを教会と世界のために成し遂げられるのである。これが神がイエス・キリストにあってこの世を贖われた事実を確証させる物語である」(拙著、333~334頁)。
ここでキリストに出会った者たちが生きるポスト物語は、神が用意された「新しい舞台に立つこと」です。どの時代にあってもキリスト者は皆、神の国の物語の中でそれぞれの役割を演じています。私たちは、この物語の中へと取り込まれているのか? 自分はどの場面でだれを演じているのか? 自分の人生は聖書のどの場面といま関わりをもっているのか? 神はいま何をしようとしておられるのか? 自分はどう応答すべきか、ブルッゲマンの言う「想像力」が私たちに問われています。
・トリニティー神学校で教鞭を執るケヴィン・ヴァンフーザーは次のように述べています。聖書は私たちに、舞台で言う台詞を提供しているのではなく、「聖書のテキストが示唆し、意味している」ことを理解し、そこで「演じる」、すなわち神の物語の中で生きることを求めている。聖書の解釈は「私たちの見方、考え方、行動の仕方を刷新し変貌させる。……聖書は神のコミュニケーション行為の媒体であって、それによって真理が伝えられるだけでなく、読む者が変貌されていく」。(拙著、298頁)
・日本でも多くの書物が翻訳されている英国のリチャード・ボウカムは、聖書が大きな神の物語であり、そこに私たちの小さな物語が取り込まれて、神の国という終末が実現していくと述べています。「聖書の大きな物語が未完成のままであることを強調することは重要である」。聖書が未来を語るとき、その表現は想像力に富み、文字どおりに解釈することは困難です。神が意図しておられる結論へ至るには、多くの未知の過程をたどらなければなりません。その過程の中で、いわば私たち自身が物語の次なる章を記すことが期待されていると彼は言います。聖書の権威は、まさに「その目的のために、聖書の大きな物語全体は、私たちがそれぞれの場面で従うべき方向性を提示する」ところにある、と。(拙著、366頁)
- 聖書観の「成熟」
ポスト物語を演じる責任性に立つ、ということがキリスト者の「成熟」なのでしょう。新しく神が展開しようとしている舞台に立ち、与えられた責任を全うしようと願うとき、聖書観もあらためて成熟していくことが求められています。
ライトは次のように記しています。
「聖書」という言葉を聞いて、すぐにキリスト教の教科書のように考えてしまうと、聖書がどのように機能するのかについて包括的な議論に関心を払わなくなってしまう。そして人は趣向性によって、教科書には疑いなく全面的に従うべきだとか、逆にこの昔の教科書は現代ではまったく意味をなさない、とか、いずれにしても偏狭な理解に陥ってしまうのである。(N. T. Wright, Scripture and Authority of God, pp. 27-28)。
ここでライトが言う、現代でも文言通りに従うべき教科書だとみなすのは保守的な福音派のことです。逆に、昔の文章で現代と無関係と考えるのは、自由主義神学です。
ライトは聖書を、それを通して聖霊が私たちを神の国に引き込み、神の国の実現のために私たちを整えてくれる恵みの手段とみなしています。この考え方は、保守的な聖書信仰をもリベラルな聖書観をも乗り越えるものです。聖書はキリストの歴史的な出来事を証しする天からの真理の情報というだけでなく、神が私たちを神の国の中に取り込み、私たちを用いて神の国を実現させていくために神がもうけられた手段である、と。ライトが「神の国における」私たちのポスト物語を語るとき、そこには終末論的意義が強調されています。
聖書において神の目的は人間の救いにあるだけでなく、この世界全体を刷新することにある。この刷新物語は未完成であって、聖書の読者は、限度はあっても、その物語の中で役割を演じるように招かれている。……それゆえ、『聖書の権威』は他のいくつかの神学テーマ(すなわち教会の宣教の働き、聖霊の御業、将来にある究極の希望、それを現在待ち望むあり方、そして教会の本質)の諸枝の一つである。(同, p. 28)
表現の仕方を変えてみましょう。スコットランド国教会で按手を受け、神学者・宣教学者としてインドを中心に活躍したニュービギンがいます。彼は聖書の今日性を論じるにあたって、次のように議論を始めます。「歴史的・文学的批評法の成果によって、私たちが手にするテクストは、信仰共同体が新しい経験に直面する度、伝統を継続的に作り直してきた」。筆者の聖書観はニュービギンと同じではありませんが、それに続く彼の言葉には同感せざるを得ません。
今日のわたしたちは、・・・過去の時代にはなかった方法で聖書を読むことができるのだ。聖書は、過去の『死んだ』事実や言い伝えをまとめた資料集ではない。それは生きた過程の部分なのだ。・・・変わり続ける状況に則して、私たち自身も、聖書を意義深く語り直し続けるのである」(レスリー・ニュービギン『ギリシャ人には愚かなれど』矢口洋生訳、新教出版社、2007年、78頁)。
筆者は特に、ニュービギンの表現、聖書を「語り直し続ける」、神の言葉が今日の私たちに何を語ろうとしているのか、環境問題、格差社会、災害、性的マイノリティー、女性論、信徒論等々、聖書に耳を傾け、今日の諸問題にいつも意義深く「語り直す」重要性を受け止めたいと思っています。
キリスト者の「生」が成熟していくということを考えたときに、単にポスト物語は個人の人生、霊的な成長に関わるだけではなく、神の国に関わります。したがって、キリスト者の成熟は、社会の諸問題、歴史の見方、今日あらたに提示される生命の諸課題、性の諸課題、等々あらゆることを考慮してのキリスト者の「ポスト物語」であることが求められています。