今日はアドベント第一主日でした。たまたま所属教会の礼拝で説教を担当することになりましたので、開口一番「新年あけましておめでとうございます」とあいさつした後、あっけにとられた会衆の方々に、教会暦ではアドベント(待降節)が一年のはじめであることを説明しました。
アドベントと教会暦の始まりについては過去記事に何度か書いています:
キリスト者にとって、アドベントとそれに続くクリスマスが一年の始まりであることを意識することの重要性についてはこれらの記事に書きましたが、この記事では、このことを逆の面から見てみたいと思います。
日本人はふつう、1月から始まる一年のサイクルを意識しながら生きています。したがって、12月に入ると人々は、「今年ももう終わりか」と考え、会社の忘年会などのいろいろな行事に追われていき、大晦日には年越しそばを食べ、除夜の鐘を聴いて一年を終える、というパターンが多いのではないかと思います。年中行事として一般にもすっかり定着したクリスマスも、年末のさまざまな行事の一つととらえられてしまっています。
そして、キリスト者までもがそのような感覚を共有し、クリスマスが来ると年の瀬だと感じてしまっているのではないかと思います。特にさまざまな特別集会で忙しい教会などでは、クリスマスの一連のイベントが終わり、ほっと一息ついて「一年を終え、新しい年を迎える」という人々もおられるかもしれません。教会によっては、1月1日に「元旦礼拝」や「新年礼拝」を行うところもあります(つまり、その数日前に祝われるクリスマスは「年末行事」だということが暗黙のうちに前提とされています)。このように、一般社会のみならず教会においても(特にリタージカルでないところでは)、クリスマスは「始まり」ではなく「終わり」という感覚と強く結び付けられていることが多いのではないかと思います。
けれども、クリスマスは「年末行事」ではありません。キリスト教会にとってクリスマスは一年の終わりではなく、始まりをしるすものです。イエス・キリストが人となってこの地上に来られた降誕のできごとは、人類の歴史における新たな時代の始まりでした。
そもそも、聖書の中には、イエスが12月25日に生まれたとはどこにも書かれていません。この日にキリスト降誕を祝うようになったのは4世紀のことですが、ローマ帝国においてそれ以前から存在していた、冬至と新年を祝う祭をキリスト教が取り込んだものだと言われています。
冬至の時期は、一年のうちで日照時間が最も短くなった後、再び日が長くなっていく転換期であり、新しい命の始まりを感じさせる時期です。つまり、当時のクリスチャンたちは、異教に起源を持つ風習を採用しつつ、キリストの降誕が新しい始まりを意味するものである、という聖書的なメッセージをそこに込めていたのだと思います。
私はクリスチャンが1月1日に年始のあいさつをしたり、「新年礼拝」を持つことを必ずしも否定しようとしているわけではありません。しかし、クリスマスを一年というサイクルの「終わり」ととらえるか「始まり」ととらえるかは、キリスト者としての日々の歩みに少なからぬ違いをもたらすのではないかと考えています。
多くのクリスチャンはイエス・キリストの降誕が新たな時代の始まりであることを神学的知識としては知っています。けれども、クリスマス・キャロルを耳にして「今年ももう終わりか」とふと思ってしまう時、私たちの時間感覚はいつのまにか聖書とは異なる世界観の影響を受けている、とは言えないでしょうか。
今年のアドベントは、新しい時代の始まりを意識しつつ、過ごしていきたいと思います。