先日の投稿で、レイチェル・ヘルド・エヴァンズの葬儀でナディア・ボルツ=ウェバーが行った説教について紹介しましたが、ボルツ=ウェバー師の許可が得られましたので、全文を翻訳して投稿します(原文はこちら)。
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まだ暗いうちに:レイチェル・ヘルド・エヴァンズへの鎮魂歌
さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。(中略)しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。(ヨハネ20:1、11-13)
「女よ、なぜ泣いているのか?」
正直に言うと、以前この言葉は、私の耳には少々受動攻撃的な質問に響きました――まるで天使たちが、マリアの反応は大げさすぎるとでも言おうとしているかのように思えたのです。あるいはこの質問は、「くよくよせずに楽しくやろうぜ」という味気ないミームを彼女に送りつけているようなものだと感じていました。最近も私はそういったメッセージを二度も、善意に満ちたクリスチャンから受け取ったばかりです。彼らはまるで、キリスト教信仰とは大体において、否定的な感情を避けて妄想的な楽観主義を選び取るためのメカニズムだとでも言おうとしているかのようでした。彼らは私が涙を流していることを責めているかのようでした――まるで、もし信仰があれば私は嘆く必要などないのだ、とでも言いたいかのように。これはいわゆる、くだらないナンセンスです。
信仰ならありますとも。
いま私は、私たちの嘆きはじっさい神にとって聖なるものであると信じています。イエスは友の墓の前に立って、私たちと同じ塩からい涙を流されたと信じています。そしてもちろん私は、霊的なまた永遠の観点から言えば、死はまったくそのとげを失っていることも信じています。
でも今はまだ、そのとげが刺さっているのです。私は両の目にそのとげを感じています。
だから、ヨハネのこのテクストを読み返すとき、「女よ、なぜ泣いているのか?」という質問は、非難ではなく、招きに思えてきたのです。
ですから、ここにお集まりの、すでにたくさんの涙を流してこられた皆さんにも、同じ問いを投げかけたいと思います:なぜ、なぜあなたは泣いているのですか、と。これは聖なる問いです。
たぶん、このひとときだけでも、私たちはこの悲しみの真実を避けて通ることなく、互いに尋ねることを選んでいるのです。悲しみの背後で本当は何が起こっているのかと。
私自身も泣いています――大事なものを奪われたように感じているからです。死という盗人を裁判にかけて罰することができないから、泣いているのです。
レイチェルが子育てをして本を書き続け、ダンといっしょに歳を重ねていく――そんな未来があると思っていたから、泣いているのです。
レイチェルの死によって、私たちの誰も、明日もいのちがある保証はないと思い知らされたから、泣いているのです。これは恐ろしいことです。
この悲しみが別のたくさんの悲しみの扉を開いてしまって、それらの悲しみがこの「パーティ」にやってくるのをどうやって断ればいいか分からないので、泣いているのです。
そしてこれはわがままな理由ですが、私の中にはレイチェルだけに見えていた部分があって、それが世に知られないままでいてほしくないと思っているから、泣いているのです。
今世紀に生きているすべての人と同様に、レイチェルも何らかの発信者番号通知サービスを使っていたはずだと思うのですが、実際のところはわかりません。電話をすると、彼女が「もしもし」と出ます。「もしもし、レイチェル、ナディアよ」と言うと、彼女は「ナーーーディア!」と言ったものでした。誰も私の名前をそんなふうに言ってくれる人はいないので、泣いているのです。
「嘆きとは、愛したことに対して我々が払う代価である」という言葉を聞いたことがあります。そう、だからこの愛に浸された私たちの嘆きは、神にとって聖なるものだと思います。
なぜなら、キリスト教信仰を道徳主義と妄想的な楽観主義に矮小化しようとする人々がいるのはたしかですが、私たちは、自分たちが礼拝する神は、白い歯をした自己啓発セミナーの講師のように悲しみの時に陽気なミームを量産したりはしない、と知っているからです。私たちが礼拝する神は、十字架につけられ、よみがえった神だからです。つまり、私たちが礼拝する神は、暗闇と無縁ではないということです。このお方は嘆き悲しむ人々のそばに近寄ってくださる神です。墓の外に立ち尽くす人々のそばにいてくださる神です。遠く離れた神ではなく、あなたがむせび泣くときの切れ切れの息遣いと同じくらい、近くにいてくださる神なのです。
ルカの福音書によると、イエスはマグダラのマリアを悪霊から解放しました。だから私は、まだ暗いうちに、マリアがイエスの墓の外で泣いていたとき、彼女は中を覗き込んで天使を見たのだと思います。そして彼らは「女よ、なぜ泣いているのか」と尋ねました。彼女が泣いていたのはもしかしたら、イエスにとって彼女は他のみなが思っていたような「あのおかしな女」ではなかったからかもしれないと思います。イエスにとっては、彼女はただ、「マリア」だったのです。そしてイエスが「マリア」と彼女の名を呼んだとき、それはまるで完結した文章のように聞こえました。彼女はこれから先、誰が彼女を欠けのない存在と見て、実の名で彼女を呼んでくれるだろう、と考えていたのです。
彼女が泣いていたのは、イエスのもとで聖なる愛を実感した後では、もはやそれなしに生きることはできないことを知っていたからではないかと思います。だから彼女は泣きながら言いました・・・
「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」
「だれかが、愛を取り去りました。それがどこにあるのか、わからないのです」
「だれかが、優しさを取り去りました。それがどこにあるのか、わからないのです」
「だれかが、私の完全さを取り去りました。それがどこにあるのか、わからないのです」
そこで、まだ暗いうちに、彼女はイエスの墓に行きました。たぶん墓が物語の終わりだろうと考えながら。
おそらくご存知だと思いますが、私たちの多くと同じく、レイチェルもマグダラのマリアが大好きでした。マグダラのマリアは、使徒たちへの使徒、復活の最初の証人、イエスが「行って男たちに告げよ」と言われた、勇気ある女性(the woman of valor)です。
今週私は、「なぜマグダラのマリアがこの役目に選ばれたのだろうか?」と考え始めました。それは彼女が復活の証人にふさわしい者となるための指示に従ったからではないと思います。また彼女が大祭司が定めるような理想的な説教者だったからでも、純粋な教理を信じていたからでもないと思います。そしてこれが一番肝心な点ですが、彼女は彼女の存在にもかかわらず選ばれたのではなく、彼女の存在ゆえに選ばれたと思うのです。
私は、彼女が選ばれたのは、彼女が悪霊を追い出していただいた女だったからだと思います。マリアが選ばれたのは、神が働かれるとはどういうことなのか、彼女が知っていたからだと思います。それは教会に百合の花が咲き乱れ、明かりがつけられたときではなく、まだ暗いときのことです。なぜなら、男たちが墓の中を覗いたときには脱ぎ捨てられた布しか見えなかったのに、マグダラのマリアが覗いたときには天使が見えたからです。
マグダラのマリアが天使を見たのは、彼女が暗闇と無縁ではなかったからです。彼女には、神がまだ暗いうちに働かれるのを見ることによってのみ与えられる種類の、暗闇を見通す能力があったのです。
神がなぜこのような形で働かれるのか、分かりません。私たちがまだ絶望に沈んでいるとき、まだ嘆き悲しんでいるとき、まだ罪人であるとき、これから良いことは何も起こらないと確信しているとき、死がもたらす虚無に直面するとき――そのときにこそ、私たちは復活にもっとも近づくのです。
神がもっとも素晴らしいみわざをなされるのは、まだ暗いうちなのです。
それがなぜなのか、私には分かりません。
私たちにできることがもはや何もなくなったとき、あらゆる善いわざをやり尽くし、完全な信仰の完全な告白、あらゆる敬虔な観念、あらゆる「ウォークな」(訳注:社会的不正や差別に対する意識が高いこと)ツイートが底をついたとき、そのとき初めて私たちは自分のトロフィーをイエスの足元にひろげ、自分の名前が完結した文章のように呼ばれるのを聞いて振り向き、こう応えるのです:「ラボニ! 私の師、私の神」と。
よく知られているように、レイチェルが送信した最後のツイートは、「ゲーム・オブ・スローンズ」を見逃してしまう、というものでした。だから、最終話を見ていてティリオンが次のように言った時、彼女のことを考えていたのは私だけではないと分かっていました:「良い物語よりも強力なものは、この世に存在しない。それをとどめることができるものは何もない。どんな敵もそれに打ち勝つことはできないのだ。」
(レイチェルが言ったように)これが物語の終わりではありません。それは、レイチェルが間違うリスクをすすんで冒してでも語ろうとした物語です。それは、私たちのルールをまるで分かっていないかのように行動する神についての物語です。売春婦やサドカイ人と食事を――理想的には同時に――ともにしてもいいのだと考える神についての物語です。あらゆる人々の罪を、しかるべき検証手続きさえなしに赦してまわり、ツァラアト患者にもローマ兵にも聖者であるかのように触れる神についての物語です。
それは、これほど無差別なあわれみは間違っていると感じた、私たち人間の物語でもあります。交わらせてはならない人々をこれほどまでに交わらせるのは間違っている、と私たちは感じました。これほどの恵みは間違っていると感じた私たちは、私たちが何者で神がどのようなお方かについてのイエスの物語を破壊しようとして、彼を街の外で木にかけたのです。そして彼はそこですべてを引き受けました――私たちのガラクタのすべて、私たちの罪と恥と、すべてを他人のせいにしようとする欲求、私たちが後生大事にしている検証手続きとくだらない自己義認のすべてを。彼はそれらすべてを傷ついたその身に背負われました。そして、木でできたその王座から、王の王は判決を下したのです:「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。彼らをおゆるしください。彼らはまだ自分たちの本当の物語を知らずにいるのです。
そしてこれは、三日後、まだ暗いうちに、死がすでに打ち破られたことについての物語です。そのときマリアは佇んで泣いていました。
この物語はまだ終わっていません。まだ結末が来ていないことを私たちは知っています。なぜなら、私たちはまだその中に捉えられているからです。マグダラのマリアの人生、レイチェルの人生、みなさんの人生――私たちはみな、神がどれほど人間を愛しておられるかについて書かれた、神の長い長い回想録の素材なのです。
私たちの嘆きに沁みわたる愛、私たちのレイチェルへの愛、レイチェルの私たちへの愛、それは終わることがありません。墓はリアルなものですが、それらは最もリアルなものではないからです。つまり、死はたしかに敵かもしれないけれども、福音の物語を打ち負かすことはできないのです。
言い換えれば、レジスタンスは勝利しつつあるのです。何ものもそれを止めることはできません。そして、レイチェルが言うように、私たちの中にはまだ預言者的な人々がいます。
今はまだ暗いかもしれないけれども、光が差しはじめています。そして暗闇はそれに打ち勝つことはできないし、これからも決して打ち勝つことはありません。アーメン。
(葬儀の全体を収めた動画。説教は50分頃から始まります。)