(その1)
随分間が空いてしまいましたが、ピーター・エンズの最新刊、『聖書は実際どう働くか』についての紹介記事の続きをアップします。前回、聖書は解答を与えるのではなく知恵を与えるというエンズの主張を見ました。今回は、聖書の中に見られる知恵の表れの一つについて見ていきます。それは、より新しい時代のテクストが古い伝統を新しい状況の下で再解釈する現象です。
新約記者が旧約聖書を解釈するとき、場合によってはかなりラディカルな再解釈を施すことは良く知られています(詳しくは使徒的解釈学に関する過去記事のシリーズを参照)。けれども、この現象は新約と旧約の間にだけ起こることではなく、実は新約の中でも旧約の中でも起こっています。
たとえば、マタイ福音書の有名な山上の説教の中で、イエスは離婚についてこう教えています。
また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。(マタイ5:31-32)
この教えは共観福音書の並行記事があります(マルコ10:11-12、ルカ16:18)が、「不品行以外の理由で」という例外条項はマタイ福音書にしかありません。これはおそらくオリジナルのイエスの言葉にはなかったものが、後から付加されたものと考えられます(ただし福音書記者マタイが独断で追加したと言うよりは、マタイの属していた信仰共同体における伝統を反映しているのでしょう)。マタイ(の共同体)は、離婚を禁じるイエスの原則的教えに従いつつ、個別の具体的状況に対応するために例外条項を付け加えたのです。
さて、エンズは本書の中で、旧約聖書における同様の現象を数多く挙げています。一つだけ紹介すると、エゼキエル18章に次のような預言のことばがあります。
「あなたがたがイスラエルの地について、このことわざを用い、『父たちが、酢いぶどうを食べたので子供たちの歯がうく』というのはどんなわけか。主なる神は言われる、わたしは生きている、あなたがたは再びイスラエルでこのことわざを用いることはない。」(エゼキエル18:2-3)
ここでエゼキエルはバビロンに捕囚になっている民に対して語りかけています。捕囚の地で生まれた第二世代のイスラエル人は、親たちの世代が犯した偶像礼拝の罪によって自分たちが苦しむのはフェアではないという不満を、「父たちが、酢いぶどうを食べたので子供たちの歯がうく」という諺で表現していました。これに対して、神は罪の報いは罪を犯した本人のみが受けると語りかけます。
罪を犯す魂は死ぬ。子は父の悪を負わない。父は子の悪を負わない。義人の義はその人に帰し、悪人の悪はその人に帰する。(20節)
至極明快なメッセージですが、問題は聖書の他の箇所では逆のことが語られていることです。たとえば出エジプト記では次のようにあります。
あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。(出エジプト20:4-6)
ここには明らかに、偶像礼拝の罪の報いは三、四代にわたって受け継がれることが記されています。さらに、列王記の著者は、ユダがバビロンに滅ぼされたのは、マナセが犯した罪のためであったと記していますが、実際にこのことが起こったのは、彼の子孫のエホヤキムの時代でした(2列王24:3-4)。つまり、エゼキエルを通して捕囚の民に語られたメッセージは、モーセや列王記の著者に語られたメッセージとは反対なのです。
これだけではありません。同じようにして申命記は出エジプト記を再解釈し、歴代誌はサムエル記~列王記を再解釈しています。またヨナ書とナホム書はニネベに対してまったく異なるメッセージを発信しています。つまり聖書の中では、新しい伝統がより古い伝統を再解釈することは決して珍しくないのです。このような現象をどう考えたらよいのでしょうか?
エンズは、これは神が変わったのではなく、人々の置かれている歴史的状況が変化したために、彼らの神に対する認識が変化したのだと言います。またエンズ個人の立場とは異なりますが、オープン神論の立場からは神が考えを変えたとも言えます。どちらの見解を取るにせよ、この例が明らかにしているのは、聖書記者たちは彼らが受け継いだ伝統をただ杓子定規に墨守したのではなく、自分たちの置かれている歴史的状況に応じて伝統を再解釈し、適用していったということです。聖書記者にとって過去は単なる過去ではなく、今ここで神をどう考えるか、ということにつながっているからです。
さらに重要なことは、聖書の正典が成立したとき、最終的な編集を担った人々は、後から行われた再解釈に合わせてすべての伝統を書き直したのではなく、古い伝統と(ときにそれと衝突する)新しい解釈の両方を保存し、そのことに何の不都合も感じていなかったということです。これは、聖書には首尾一貫した唯一の真理の体系だけが記されているという立場では理解できません。むしろ、聖書とは神からの啓示が異なる時代状況に生きる神の民によって繰り返し再解釈されていったダイナミックなプロセスの記録であると考えるほうが、納得がいくように思えます。古代の神の民は、聖書のそのような性質を(ある意味で現代の私たちより)よく理解していたのではないかと思います。
そして、エンズはさらに一歩論を進めます。
聖書がいかにして、石に刻まれたルールブックではなく知恵の書としてふるまうかを観察することは、記録したら脇に置いておけるような単なる文献学的興味の対象ではない。それは、我々自身が今ここで神の臨在を追い求めるための規範となるようなモデルなのである。
聖書記者たち自身にとってそうであったように、我々の聖なる責任は、過去の物語に誠実にかつ真剣に取り組み、それによって今この瞬間のために神を誠実にかつ真剣に再想像することなのである。聖書はその再想像のプロセスに終止符を打つわけではない。むしろそれを促進するのである。(156ページ)
つまりエンズによると、神の民がそれぞれの置かれた歴史的状況の中で神に忠実に生きるとは、聖書の文字を現代の状況に杓子定規に適用することではなく、現在の状況に即して神を再想像することだ、というのです。それはもちろん、自分にとって都合のいい神のイメージを勝手に作り上げていくということではなく、聖書自体のモデルにならって、知恵を用いて行っていく作業です。
ある人々にとって、このような考えははなはだ心もとないものかもしれません。なぜなら、そこには唯一確実な「正解」はないからです。私たちが描く神のイメージが神の本当の姿を表しているという絶対的な保証はありません。けれども、そのような「確実性」は偶像にすぎません。むしろ私たちは今も生きておられ、私たちを導いてくださる神に信頼していく必要があるのです。
最後に過去記事でも紹介した、トマス・マートンの祈りを再掲します。
My Lord God, I have no idea where I am going. I do not see the road ahead of me. I cannot know for certain where it will end. Nor do I really know myself, and the fact that I think I am following your will does not mean that I am actually doing so. But I believe that the desire to please you does in fact please you. And I hope I have that desire in all that I am doing. I hope that I will never do anything apart from that desire. And I know that if I do this you will lead me by the right road though I may know nothing about it. Therefore I will trust you always though I may seem to be lost and in the shadow of death. I will not fear, for you are ever with me, and you will never leave me to face my perils alone.
私の主なる神よ
私はこれからどこに行くのかわかりません。
私の前にある道が私には見えません。
その行き着く先がどこなのか確かに知ることはできないのです。私は自分自身のことさえ真に知ってはいません。
私があなたのみこころに従っていると思ったとしても、
実際にそうしていることにはなりません。しかし、私は信じています。あなたに喜んでいただきたいという願いは、事実、あなたに喜んでいただけることを。
ですから、私がなすすべてのことにおいて、その願いをもちたいのです。
あなたに喜んでいただくという願いなしには、どんなこともしたくはありません。そして、私は知っています。もしそうするなら、たとえ正しい道について何も知らなくとも、あなたは私をその道に導いてくださることを。
それゆえ、私はいつもあなたに信頼します。ときに道に迷い、死の陰の谷を歩むように思えるかもしれませんが。
私は恐れません。
あなたがいつも私と共におられますから。
私がひとりで危険に直面するとき、あなたは決して私を見捨てることはなさいません。(日本語訳は後藤敏夫著『改訂版 終末を生きる神の民』から引用)
(続く)