聖書を「聴く」ということ

「聖書を読む」というと、どんな情景をイメージするでしょうか。多くの人は、一人で聖書を開いて黙読する様子を思い浮かべるのではないかと思います。

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しかし、このような「聖書の読み方」は、歴史的に言えば比較的最近に出てきたものです。現代の私たちは簡単に個人で聖書を所有して、好きな時に好きな場所で読むことができます。しかし、神の民の歴史の中で多くの時代には、聖職者のような一部の人間を除いて、大多数の人々は自分一人で聖書を読むことはありませんでした。昔は書物は高価で個人で所有することは困難でしたし、多くの人々はそもそも読み書きができませんでした。古代世界の文化はテクスト中心ではなく、口頭のコミュニケーションが中心でした。彼らにとって聖書に親しむ唯一の方法は、教会で聖書が朗読され、解き明かされるのを「聴く」ことだったのです。

たとえば、ネヘミヤ記には祭司エズラが捕囚から帰還した民に律法を読み聞かせたことが書かれています:

1  その時民は皆ひとりのようになって水の門の前の広場に集まり、主がイスラエルに与えられたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに求めた。2  祭司エズラは七月の一日に律法を携えて来て、男女の会衆およびすべて聞いて悟ることのできる人々の前にあらわれ、3  水の門の前にある広場で、あけぼのから正午まで、男女および悟ることのできる人々の前でこれを読んだ。民はみな律法の書に耳を傾けた。4  学者エズラはこの事のために、かねて設けた木の台の上に立ったが、彼のかたわらには右の方にマッタテヤ、シマ、アナヤ、ウリヤ、ヒルキヤおよびマアセヤが立ち、左の方にはペダヤ、ミサエル、マルキヤ、ハシュム、ハシバダナ、ゼカリヤおよびメシュラムが立った。5  エズラはすべての民の前にその書を開いた。彼はすべての民よりも高い所にいたからである。彼が書を開くと、すべての民は起立した。6  エズラは大いなる神、主をほめ、民は皆その手をあげて、「アァメン、アァメン」と言って答え、こうべをたれ、地にひれ伏して主を拝した。7  エシュア、バニ、セレビヤ、ヤミン、アックブ、シャベタイ、ホデヤ、マアセヤ、ケリタ、アザリヤ、ヨザバデ、ハナン、ペラヤおよびレビびとたちは民に律法を悟らせた。民はその所に立っていた。8  彼らはその書、すなわち神の律法をめいりょうに読み、その意味を解き明かしてその読むところを悟らせた。(ネヘミヤ 8:1-8)

ここでは、モーセの律法が民の前で読み上げられただけでなく、その意味が解き明かされたので、民は理解したと書かれているのが重要です。

新約時代になって、ヨハネの黙示録の冒頭ではこう書かれています:

1  イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起るべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。2  ヨハネは、神の言とイエス・キリストのあかしと、すなわち、自分が見たすべてのことをあかしした。3この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。 (黙示録 1:1-3)

ヨハネは、「この預言の言葉」つまり黙示録を「朗読する者」(原語は単数)とそれを「聞」く人々(複数)について書いています。初代教会では、旧約聖書に加えて使徒たちの書いたものが礼拝において朗読され、皆でそれを聴いたことが分かります。そこでは当然、その意味が皆に分かるように、解き明かしもなされたことでしょう。新約聖書を読んでいくと、異邦人クリスチャンも含め、初期のクリスチャンたちが驚くほど旧約聖書に精通していることが分かりますが、彼らの「聖書知識」は、このようにして教会で語られる神のことばを耳で聴くことによって身につけたものだったと思われます。大多数の信者にとって、聖書とは一人で黙って読むものではなく、共同体の中で神の家族とともに「聴く」ものだったのです。

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ちなみに、今日の福音派で広く行われている、聖書をひとり静かに読んで祈るという「ディボーション」が初代教会で行われていた証拠は、新約聖書にはないように思われます。だからディボーションは不要だということではありませんし、現代の私たちが個人で聖書を読むことができるのは大きな祝福だと思いますが、聖書はもともと公の場で朗読されるのを聴くものだったのであり、聖書を読む最善の「場」は教会だということを忘れないようにしたいものです。今日の教会でも、もちろん礼拝時に聖書が朗読されますが、朗読された聖書を皆で心を合わせて「聴く」ということの大切さを、今一度見直してみる必要があるかもしれません。

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ところで、このようにして「聖書を聴く」ためにとても役に立つリソースがこの秋登場します。今月10日にプレスリリースが行われた「聴くドラマ聖書」です。このアプリについては以前から知っていましたが、この度アプリの制作元である日本G&M文化財団の主催で行われた公開取材に参加してきました。

「聴くドラマ聖書」は、その名の通り、聖書全巻をドラマ仕立てで聴くことのできる無料のスマートフォンアプリです。単なる朗読版ではなく、著名なプロの俳優陣による表現力豊かなセリフがBGMや効果音とともに録音された、臨場感あふれたものになります(G&Mのサイトでサンプルを視聴できます)。日本語訳聖書のテクストは「聖書 新改訳2017を使用しており、役者のセリフも一言一句新改訳の本文通りになっています。アプリでは聖書テクストを表示して目で追いながら朗読を聴くこともできます。

スタジオ写真

録音風景(写真提供:日本G&M文化財団)

「聴くドラマ聖書」は、個人で用いる方法と、コミュニティで用いる方法があると思います。さきほど、共同体で聖書を聴くことの重要性について書きましたが、教会の歴史の中では、カトリック教会におけるレクツィオ・ディヴィナや福音派のデボーションのように、個人的に聖書を深く味わう伝統も発達してきました。このアプリはドラマ仕立てになっていますので、情景がイメージしやすく、聖書の世界に引き込まれていきます。

けれども、このアプリの本当のポテンシャルは、個人的な聖書知識や霊性の向上ということを超えて、聖書を中心として人と人をつなげ、共同体を建てあげていくところにあるのではないかと思います。G&Mではそのためのプラットフォームとして、「バイブルクラブ」という活動も提案しています。ただ無料のアプリを配信することが目的ではなく、それを用いてどのような文化を創り出していくかまでを視野に入れていることが分かります。

「聴くドラマ聖書」は9月末にベータ版が公開され、11月には本格的にリリース予定ということですが、個人的にも楽しみにしています。

最後に、G&Mの創立者であるビル・ファン氏が聖書の朗読会の意義について語っているインタビュー動画(フラー神学校制作)がありますので、ご紹介します。