5月4日にレイチェル・ヘルド・エヴァンズが37歳の若さで亡くなりました。彼女がここ2週間ほど昏睡状態に陥って危険な状態にあったことは知っていて祈っていましたが、それでも彼女のあまりに早い死に大きなショックと悲しみを覚えました。
過去記事(12)でも取り上げたように、私は長年彼女のファンでした。彼女のブログをフォローし、新しい本が出るたびに手に入れて読んできました。
レイチェルは私の個人的知り合いではありませんでした。実際に会ったことはもちろん、メール等でのやりとりをしたこともありません。けれども、作家であれミュージシャンであれ、自分が賞賛し、そのアウトプットをリアルタイムでいつも楽しみにしてきた同時代人の死に触れる時、個人的な知り合いの死とはまた違った独特の悲しみと喪失感があります。最近読んだある本で、それは、もしかしたらその人物と持つことができたかもしれない友情が失われる切なさであると書かれていて、深く納得しました。ユーモアと機知に富んだ彼女の文章にもう触れることができないと思うと、とても寂しい気持ちです。
彼女の経歴については過去記事を見ていただきたいと思いますが、アメリカ南部のバイブルベルトの超保守的な福音派の環境で育った彼女は、自分が教え込まれた「正解」を擁護しようとするのではなく、疑問や疑いと格闘しながら信仰を深めていきました。進化論や性的マイノリティ、教会や家庭における女性の立場といった、保守的福音派ではタブー視されるような問題についても大胆に論陣を張った彼女は、それによって多くの批判にもさらされましたが、その知的誠実さと飽くなき探求心、そして勇気ある信仰姿勢は私を含む多くのクリスチャンたち(特に福音派の女性)に励ましを与えてきました。
レイチェルが好んだ表現に、“Eshet chayil”(エーシェト・ハイル)というヘブライ語があります。箴言の最後を飾る、31章10-31節に収められているアルファベット詩はこの言葉から始まります。
だれが賢い妻(eshet chayil)を見つけることができるか、彼女は宝石よりもすぐれて尊い。(箴言31:10)
日本語訳の聖書では「賢い妻」(口語訳)、「有能な妻」(新共同訳、聖書協会共同訳)、「しっかりした妻」(新改訳)と訳されていますが、eshet chayilは「勇気ある女性」あるいは「力ある女性」とでも訳すこともできます。この「勇気ある女性」を理想の女性像としてではなく、擬人化された知恵として解釈する人々もいます。いずれにしても、この詩は「聖書的な女性はかくあるべし」というチェックリストではなく、知恵と勇気を持って行動する女性を描き、そのような女性を賞賛する内容になっています(28-31節を参照)。レイチェルは自分の置かれたさまざまな状況の中でどんな小さなことでも知恵を勇気を持って行動する女性たちに“Eshet chayil!”と呼びかけて励ましていました。そしてもちろん、彼女もeshet chayilの一人であったことは、多くの人の認めるところでしょう。

Image from rachelheldevans.com
レイチェルの2012年の著作A Year of Biblical Womanhood(「聖書的女らしさ」の一年)は、聖書が女性に関して命じている内容を文字通り一年間実行しようとした体験について綴ったものですが、1年の体験を振り返って最後に彼女はこう書いています:
「聖書的女らしさ」を追求した12ヶ月を終えて、私が到達した型破りな結論は、「そんなものは存在しない」ということだった。聖書は「女らしさ」についての単一のモデルなど提供していないし、聖書には信仰深い女性になるための誰にでも当てはまる定式が見いだせるというのは神話に過ぎない。
聖書の中で賞賛されている女性たちには、戦士も、未亡人も、奴隷も、姉妹同士である妻たちも、使徒も、教師も、妾も、女王も、外国人も、娼婦も、預言者も、母親も、殉教者もいる。これらの女性たちの物語が目を引くのは、彼女たちがみなある種の普遍的な理想像に当てはまるからではなく、文化やコンテクストの違いによらず、彼女たちは勇敢に生きたという事実によるのだ。彼女たちは信仰をもって生きた。私たちは「聖書的女らしさ」についてのシンプルな単一の定義を願い求めるが、女性としての唯一の正しいありかたなどないし、私たちが自分をはめ込むべき唯一の鋳型も存在しない――それはデボラ、ルツ、ラケル、タマル、ワシュティ、エステル、プリスキラ、マグダラのマリア、タビタたちが証ししている。
あまりにも多くの教会指導者たちがこれらの物語についてうまく言い繕い、厳格な役割のリストによって女性らしさを定義しようとしてきた。けれども、役割は固定されたものではない。それらは不変のものではないのだ。役割は表れては消え、交代し、変化する。それらは私たちの文化に関して相対的なものであり、変わりゆく状況に左右される。私たちを定義するのは役割ではなく、人格なのである。
その一方で、召命は、もしそれが私たちの魂の土壌に深く根ざしているなら、役割を超えるものである。そして、私は自分のクリスチャンとしての召命は、イエスに従う他のすべての人々と同じだと信じる。私の召命は心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして主を愛することであり、私の隣人を自分自身のように愛することである。イエスご自身、聖書の残り全体はこれら二つの命令に言い換えることができると言われた。「聖書的」ということのイエスによる定義が愛であるなら、おそらく私にとってもそうあるべきだろう。
レイチェル・ヘルド・エヴァンズを聖人視するつもりは毛頭ありません。けれども、少なくとも彼女は、自らの短い人生を「聖書的」に生きようとして、全力で駆け抜けた女性だったとは言えるでしょう。彼女が残した信仰の遺産が日本の教会にも今後紹介されていくことを願っています。
Rest in peace, Rachel. Eshet chayil!

photo by Maki Garcia Evans