ピーター・エンズ著『聖書は実際どう働くか』(1)

このブログでもたびたび取り上げてきた人物に、アメリカの旧約聖書学者ピーター・エンズがいます(たとえばこの過去記事を参照)。私は彼の著作からいつも大きな刺激を受けています。今年の2月に出た最新作How the Bible Actually Works(聖書は実際どう働くか)も早速読んでみましたが、期待に違わぬ充実した内容でしたので、紹介してみたいと思います。

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Image from peteenns.com

 

本書は一般向けの聖書論の本と言えます。私は神学校でも聖書を教えていますが、聖書をどのように解釈すべきかを知るためには、まずは聖書がそもそもどのような性質の本であり、どのような目的を持っているのかについて考える必要があります。この最初のボタンをかけ違えてしまうと、どれほど聖書原語に習熟し、釈義のテクニックを磨いたとしても、見当違いの解釈に導かれてしまいます。

「聖書は誤りなき神のことばである」と信じる福音派のクリスチャンは、聖書の性質と目的について、特定の考えを持っています。一般的には、聖書には霊感された聖書記者を通して書き記された、変わることのない普遍的な真理が含まれていると考えられています。聖書の中には「永遠の真理」が言語情報(命題)の形で埋め込まれていて、適切な方法で釈義することによって、そのオリジナルのメッセージを取り出すことができるのであり、それこそが唯一の正しい聖書解釈ということになります。この考え方によると、聖書とは私たちが信じるべき正しい知識のデータベースであり、また私たちがそれに従って生きるべき道徳のルールブックということになります。しかし、このような形で聖書の権威や霊感について考えることには無理があることは、過去記事で論じたとおりです。

私たちが持っている聖書観のモデルが適切なものであるかを評価するもっとも自然な方法は、聖書そのものの実際の働きに照らしてモデルをチェックすることです。以前私が新約聖書記者たちによる旧約聖書の解釈を通して、歴史的文法的解釈の限界について考えたのも同じ方法論によります(こちら)。同様のことをエンズも本書で行っていることが、『聖書は実際どのように働くのか』というタイトルからもうかがえます。私たちの持っている聖書観が一見どれほど素晴らしいものに見えたとしても、それが実際の聖書の働きを正確にとらえていないなら、それは私たちの聖書理解をゆがめ、ひいては信仰のあり方そのものにも影響をもたらしてきます。

それでは、エンズによると聖書はどのような書物なのでしょうか? 本書の副題に「あいまいで多様性に富んだ古代の書物がいかにして解答ではなく知恵をもたらすか、そしてなぜそれが良い知らせなのか」と書かれているのがヒントになります。つまり、聖書とは「あいまいで、多様性に富んだ古代の書物」であり、その機能と目的は「解答ではなく知恵をもたらす」ものだ、ということです。

聖書が古代の書物であることについては誰も異論はないでしょう。そしてそのテクストはしばしば難解であり、さまざまな解釈の余地があることは、古来膨大な数の聖書注解書が著されてきたことからも明らかです。そして、新約聖書に四つの福音書があるように、正典の中にも多様な声があることも(多くの福音派はこのような多様性を矛盾とは考えませんが)、注意深く聖書を読むなら誰しも気づくことだと思います。

もし聖書がこのようなものであるとすると、上に挙げたような、聖書のデータベース(あるいは百科事典)モデルやルールブックモデルは問題にぶつかります。なぜなら、聖書は「何を信じるべきか」「いかに生きるべきか」という私たちの問いかけに対して、永久不変の唯一の「正解」を与えてはくれないからです。同じテクストにも何通りもの解釈がありうるばかりか、聖書自体が一つの問題について多様な答を与えているようにも見えます。

単純な例を挙げると、箴言には次のような箇所があります。

愚かな者にその愚かさにしたがって答をするな、自分も彼と同じようにならないためだ。
愚かな者にその愚かさにしたがって答をせよ、彼が自分の目に自らを知恵ある者と見ないためだ。(箴言26:4-5)

ここには、二つの矛盾する教えが並置されています(そしてもちろん、それは箴言の編集者の意図するところでした)。愚かな者には、その愚かさに従って答えるべきなのでしょうか、それとも答えないべきでしょうか? その答は「時と場合による」でしょう。では、どういう場合にどちらの対応をすべきでしょうか? 箴言の著者は各節の後半にごく一般的な指針を与えているのみで、明確な答えを与えているわけではありません。それは神を恐れて歩む信仰者がその都度考えて判断すべき事柄だからです。そこで必要とされるのが知恵なのです。

同様にエンズは本書でさまざまな例を挙げて、聖書は「解答ではなく知恵」を与えることを説明していきます。言い換えれば、聖書はその通りに生きれば必ず幸せになるという「確実性」を与えるマニュアルではなく、先の見えない混沌とした現実世界にあっても神に信頼し、知恵をもって歩んでいくための助けとなる書物なのです。

エンズによると、上のような誤った聖書観を信仰の土台としていくとき、それは信仰者の歩みに対して破壊的な影響をもたらします。なぜなら、そもそも聖書が約束していない「解答」を聖書に求めて、それが与えられないとき、人々は失望せずにはいられないからです:

これらの誤った観念から出発してしまうと、キリスト教の働き全体が道を外れていくことになる。それは・・・聖書の細かい活字で書かれた内容にどう従うかという不安とストレスを生み出す。イエスは疲れた巡礼者に休息を約束されたというのに。そして聖書は神、人生、宇宙についての確実性を与えなければならないというあらゆるストレスを土壌にして生まれてくるのは、我々の信仰に対する防御的な態度であり、したがって考えを異にする人々に対する怒りに満ちた戦闘的態度である。・・・もしかしたらこれこそ、敵を愛しもう一方の頬を向けるというラディカルな行動計画で知られる人物をほめたたえる宗教が、数多くの世論調査によると、他者を裁き、上から目線で、意地が悪いというパブリックイメージを持たれている理由なのかもしれない。(原書4ページ、強調は引用者)

もちろん、聖書に確実性を求める人々がみな防御的で戦闘的な信仰を持つに至るわけではありませんが、そのようなケースがままあることは、個人的な体験からも言うことができます。悲しいのは、このような信仰姿勢に陥ってしまう人々は、神を愛するまじめで誠実な人々が多いということです。彼らは神のことばである聖書を熱心に研究し、それに忠実に従おうと心から願っています。けれども問題は、彼らは誤った聖書観から出発しているために、聖書にないものねだりをしてしまっているということなのです。

聖書は確実性を約束するものではありません。そうではなく、知恵を与えてくれるものです。そしてそれは実際、信仰者にとって「良い知らせ」なのです。

(続く)