藤本満先生によるゲスト投稿シリーズ、第6回をお送りします。
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6 説教と聖書信仰
前回、言葉はそもそも「記される前に語られるもの」であることを論じました。聖書においても、「神は言われた」とあるように、記された言葉がはじめは語られた言葉であったことを示している箇所がいくつもあります。
当然その次に、記された神の言葉は語られます。つまり説教です。そこで説教の意義が、「聖書信仰」の世界でも十分に考慮されなければならないことを今回は論じてみようと思います。
ここで筆者は、このことに特別な問題意識を持っていることを先に述べておきます。日本の「聖書信仰」を標榜する教会の中でも、改革派系ではなくホーリネス系に育ちました。これから述べる問題は、ホーリネス系には色濃く、しかし、概して日本の福音派に該当してきた課題です。この聖書箇所からどうしてこの説教?と思うほど、文脈も聖句も無視して、「自分流に御言葉を語る」説教がままある、ということに関してです。聖書が引用され説かれても、説教の主張が、それを語る者の主義主張に傾いていくことがあります。もちろん、体験的な迫力はあります。しかし、時に押しつけがましい説教となっているのではないでしょうか。
逆の問題もあります。聖書の講解・釈義が明確に提示されていながら、その説教が会衆の心に届いているのか?――これも反対極にある悩ましい課題です。もちろん、御言葉の力は人の語りを越えていますから、説教者が淡々と講解するだけで、その力は存分に発揮されるという理解は正しいでしょう。しかし、それにしても、聖書の釈義に力を入れているのに、その成果がうまく反映されず、聞く者は「説明的・解説的」な説教に疲れてしまいます。
このような課題を突き詰めて考えていくと、聖書は無誤だと主張しても、それを解釈している私たちが能力にも人格にも乏しく、それを語る私たちがあまりにも偏っているために、聖書信仰そのものになんの意味があるのか?となります。しかし、この突き詰め方はあまりにも悲観的でしょう。御子イエスは御自身を飼い葉桶にゆだねることをよしとされ、御自身の普遍的な真理を特定の時代の特定な言葉にゆだねられたのですから、私たちのような偏った誤り多き説教者を用いて、それが土の器であっても福音の宝を入れていただくことを神はよしとしてくださったに違いありません(Ⅱコリント4:7)。しかし同時に、土の器が前に出すぎて、福音の真義が隠れてしまうような説教ならば、器は何度も砕かれるべきであるというのが説教者の自覚なのでしょう。
さて、以下に大きく3つの課題を論じます。①宗教改革が捉えた説教、②福音派の証し的説教・体験的説教はどこから来たのか? ③説教に働く聖霊、です。
- 宗教改革が捉えた説教の意義
ルターは、宗教改革の基点となる自身の福音的回心をどのように体験したのでしょう。それは彼が聖書をヴィッテンベルク大学で聖書学者として詩篇、ガラテヤ書、ロマ書を講義している時、つまり聖書を学んでいるときでした。そしてその聖書の言葉は、単なる理解の転換を起こしたのではなく、神の声として彼の魂に響いてきました。彼は聖書の学びの中で、直接に「子よ。安心しなさい。あなたの罪は赦された」との神の語りかけを聞きました。
ルターは即座に説教を礼拝の中心に据えます。神は、「語りかける神」(Deus loquens)です。神は、個人的な語りかけをするために説教をもうけられたのに、中世の礼拝が最も軽んじていたのは、まさに礼拝における説教でした。1523年の『ドイツミサと会衆礼拝の秩序』の中で、彼は「すべての礼拝において、最も大きくて、最も重要な部分は、神の御言を説教し、教えることである」(青山四郎訳、『ルター著作集』第一集・第6巻、428頁)と記しています。
当時、説教は教会だけに限りませんでした。一般人が資金提供をしていた説教職が、ドイツ42都市のうち23都市に確認されています(注/R・W・スクリブナーとC・スコット・ディクスンの『ドイツ宗教改革』 [岩波書店]、25~27頁)。説教者は教会のミサ・司牧の責任は担わず、いわば聖書から説教することのプロであったわけです。これらの説教者たちがルターの新しい神学に触れたときに、説教の働きは拡大していきます。ドイツ語による説教は、識字能力のあるなしにかかわらず、聴衆の心に福音の真髄を伝えることができました。つまり宗教改革の福音は、新しい印刷技術だけでなく、力ある説教者の語りという二重の強力なチャネルによって急速に広がっていったのです。
説教が神の個人的な語りかけであるとしたら、説教者は御言葉を学び、御言葉に基づいて語る必要があります。また会衆は主体的に神の声に応じることが求められています。そのためには、会衆もまた聖書の基本的理解が求められました。ルターは教会のために『大教理問答』、家庭のために『小教理問答』を出版しました(1529年)。宗教改革の伝統においては、何よりも書かれた御言葉(聖書)を正しく学び、そしてそれに基づいてみことばを明快に語る説教、それに理解と信仰をもって応答する会衆が強調されてきました。
ルターの宗教改革が始まって2年後、1521年の初聖日からチューリヒの大聖堂は、人文主義の出身であるツヴィングリを説教者に迎えました。彼はギリシャ語新約聖書を講壇に置き、マタイの福音書から連続講解説教をスイスドイツ語で開始しました。聴衆の中で、後に自伝を著した人文主義者トマス・プラッターが聞き入っていました。彼は、聖書から何世紀もの間、人びとから隠されていた神の言葉が、ツヴィングリによって曲げられることなくストレートに説かれるのを聴いて、まるで髪をつかまれて天に引き上げらるような感動を受けたと記しています(拙著『わたしたちと宗教改革 第1巻 歴史』[日本キリスト教団出版局]、64頁)。
やがてシュトラスブルクのマルチン・ブツァー、ジュネーブのカルヴァンが各都市で宗教改革を指導し、各地で「聖書講座」を開催しました。聖書講座では、ベテラン説教者が講義をし、複数の牧師が課題聖句を説教し、それを互いに批評し合い、最後にベテラン説教者が模範説教を講じました。その後、これらの聖書講座はアカデミーと呼ばれ、神学校になっていきます。
説教に重きを置いたプロテスタントの牧師は、聖書の学び、そしてなによりも聖書の正しい解釈に基づく説教を志しました。つまり生き生きとした説教は、いつも聖書に基づいた、聖書を中心とした講解であったということです。しかし、やがて宗教改革の教会が国教会となり、聖書よりも教義学が中心となり、説教もまた形式化し、いのちを失っていったことは想像できます。
- 18世紀に生まれる証し的・体験的説教――どこからきたのか?
それはまだ、イギリスでジョン・ウェスレーが大規模な信仰復興運動を率いる少し前のことでした。1734年、アメリカ・マサチューセッツのノーザンプトンの牧師ジョナサン・エドワーズの周辺で信仰に目覚める人々が起こされました。それに合わせて11月にエドワーズは信仰義認をテーマに二つの説教をし、冬になると、キリスト教信仰の共同体であったニューイングランドの小さな町を、信仰の覚醒が包んでいきました。
まだアメリカの人口が少ない時期のことです。後の人々はこれを第一次大覚醒と呼びますが、これまでになかった信仰覚醒の「規模」をエドワーズは次のように記しています。
町のすべての人々が永遠の救いについての深い関心に捕らわれるようになった。誰が集まっても話はそのことばかり。どんな機会にも宗教に関することが語られ、他の話題は消え去った。(Jonathan Edwards, “Unpublsihed Letter of May 30, 1735”, in Edwards, Works, 4:101.)
この出来事は、ボストンにある会衆派の重鎮コールマン牧師(Benjamin Colman)のもとにも届き、彼はエドワーズに詳細な報告を求めました。こうして編集されたのが、回心を体験した人々の証しと出来事の詳細と、それに自身の説教2篇を添えた第一次大覚醒の主要な出版物Faithful Narrativeでした。アイザック・ワッツが、この文書がイギリスでも出版されるように企画し、それがロンドンのアルダスゲイトで福音的回心をしたウェスレーの手元にも届きます。
1738年にロンドンで救いの確証を劇的に得た国教会司祭ウェスレーは、当時、この福音伝道に力を注いでいましたが、道徳主義の国教会の扉は逆に閉ざされ、閉塞感に包まれていました。ウェスレーはこの書物に触れ、大いに励まされました。きっと神が働いて、イギリスでもこのような大覚醒がなされる時が来ると希望をいだくようになります。
さて、この証しを中心とした『物語』(Narrative)は、これから先の100年、150年続く英米の信仰復興運動の「動力因子の一つ」を明らかにしています。それはエドワーズの言葉によく表れています。
他人の回心のニュースを、神が私たちの間になされるご自身の働きの手段として用いられるとは、私が知っている限り例のないことである。
- ホイットフィールドの手法
ジョン・ウェスレーの後輩で、彼に続いてアメリカの入植に宣教師として出向いたジョージ・ホイットフィールドは、救いの体験談を幅広く用いました。それは聖書よりも簡単に読め、安価に、時に無料で手に入り、教義的な説教よりも人々の心を打つのです。
ホイットフィールドはアメリカでウェスレーにまさって説教者として成功した人物です。彼は独特な手法を用いて伝道した最初の人物と言えるでしょう。彼はアメリカ巡回中いつも2~3人の助け手を伴って移動していました。助手たちが、広報を務めます。秘書的存在であったシーワード(William Seward)の本職は出版でした。彼は次に集会が開かれる町で、前の町の集会でどのような神のみわざがなされたのか、そこで起こった回心の証しを中心にした文書を制作し、ホイットフィールドの到着前に町に出回るように手配していました。
手紙はロンドンにも送られます。ホイットフィールドの報告は、アメリカからロンドンのホイットフィールド礼拝場(Whitefield Tabernacle)に送られ、手紙が到着すると、朗読集会(Letter Days)がもたれました。さらに彼は、簡易な雑誌を発行し、そこに大西洋を挟んで展開されている各地の報告や証しを掲載しました。イギリスでカルヴァン派メソジストの伝道者が巡回に出るとき、少なくとも500部を携行し、ホイットフィールド礼拝場からは、いつも英国各地へと発送されていたと記録に残っています。
つまり、ホイットフィールドがたけていたのは、説教だけではなかったのです。彼は、説教によって回心した人々の証しや集会の様子を紹介した広報を利用することで、自分がこれから出向く集会を前に、人々がそこに記されているのと同じような劇的な回心が起こるに違いないと、期待感を抱かせました。
いわば、今日的メディア伝道の先駆けでしょう。それだけでなく、エドワーズが言い当てたように、伝道集会や会衆の霊的な立て上げのために回心の証しが重要な役割を果たす時代が始まりました。大規模な大衆伝道や信仰復興運動においては、これまでになく、いくつもの要素が共通して立ち上がってきます。いくつか挙げてみましょう。伝道の情熱、伝統的な制度に固執しない新しい手法、信徒の起用、女性の活躍、体験をこめた讃美歌、そして、ここで取り上げました「信徒の証し」です。
もちろん、その証しは、手紙や簡易雑誌に掲載されるだけでなく、集会でそのような証し者が立ちます。教義的な説教や、聖書の講解ではなく、神の恵みを体験する目的で組み立てられた説教が、より大きな影響力を持つようになります。
それは私たちの時代の者たちも、よく知るところでしょう。ビリー・グラハムの大会にも引き継がれていきます。教会という建物の外で、教派を超えて、だれにでもわかる単純な説教、そして説得力のある証し、さらには会場全体を包む讃美歌という集会形態を神はおおいに用いられます。
- 第二次大覚醒の「アピール」
1800年を超えると、アメリカは西部開拓が始まり、移民と人口の大増加を迎えることになります。メソジストのフランシス・アズベリーは馬に乗り、西部の開拓地を巡回伝道しました。そこはニューイングランドの神学校を卒業した牧師たちが行きたがらない危険なところです。アズベリーはニューヨーク・オハイオ・ケンタッキーを巡回し、なんと700人の青年に按手礼を授け、メソジストをアメリカ最大の教団へと成長させます。西部に入ると、もはや伝道の働きは教派を超えていました。教会堂がまだ存在しない入植地を回って伝道する力に励まされて、やがてアメリカはホーリネス運動や長老派のチャールズ・フィニーなどを中心とする第二次大覚醒を迎えます。
信仰復興運動の舞台は教会ではなく、キャンプ・ミーティングと呼ばれる大きな野外施設でした。この時期、福音派には今でも特徴的である説教の要素が生まれます。それが「アピール」です。説教の最後に恵みの座が開かれ、悔い改めた者たちを前に招き、彼らは「嘆きの椅子」と呼ばれるベンチに座って、共に祈ってもらうことを待ちます。
説教の最後に「恵みの座」を開くということは、この時代から来ています。この「招き」が「アピール」です。フィニーの場合、説教よりも「招き」が長かったと言われています。また後には、この招きの時に讃美歌や特別音楽が伴うようになり、ムーディ、グラハムと必ず讃美歌歌手を伴って大きな集会を開くようになりました。証し的説教、体験的説教、また特別な恵みに会衆があずかるためになされる「招き」は、いつの間にかキャンプ・ミーティングだけでなく、短い招きなら通常の礼拝にも取り入れるようになります。
- 体験的・証し的説教の功罪
こうした敬虔な信仰復興運動から来る説教は、説教に説得力・迫力を付与しました。16世紀宗教改革が自国言語の聖書の時代であるとしたら、18 世紀信仰復興運動は体験談を安価に出版・素早く頒布できた時代と言えましょう。それらは、人の罪深さと認罪に打たれたたましいの動きを克明に描き、十字架による神の救いを力強く説明し、信仰によって義とされた心に聖霊が与える変化を描写する、魅力ある信仰的な文書です。読む者は、自たちもまた同じ神の働きを体験できるという希望をもって心を開きました。信仰復興運動が大西洋を挟んで広がりを見せることができたのは、行動力と情熱にあふれた説教だけでなく、神の救いの力への飢え渇きを満たす物語、そしてその素早い浸透力のおかげでした。
しかし、弊害も明らかでしょう。それは、副テクストの誕生です。主テクストは聖書です。しかし、ここに聖書から神の愛、神の与える救いを体験した人々の「副テクスト」が広範囲に、迅速に「用いられすぎる」ということが起こってきます。この種の文書は、時として副テクストが主テクストを超えて作用することもあります。証しがキリストを指ささず、自分自身を指さしてしまうこと、体験談が聖書の前に出て勝手に立ち振る舞うこと、体験談が聖書の解釈をゆがめてしまうこと、聞いている者が特定の個人体験を規範としてしまうこと等々、体験的説教には信仰復興運動のはらむ危険性や弱点も内包されていたことは否定できないでしょう。
拙著『聖書信仰』はホーリネス系の聖書信仰を代表する人物として、澤村五郎(1887~1977)を取り上げました。彼は自らの伝統に潜んでいた危険性を十分に理解して、次のように述べていました。
真理の御霊は、必ず真理のことばと共に働きたもうのである。人が御霊の感動のみによって真理を悟ろうとする時、しばしば神秘主義に陥って迷妄に走る危険がある。(澤村五郎『大いなる救』、175頁/拙著『聖書信仰』、117頁)
神秘主義とは、説教者が御言葉の客観的根拠を持たずに、自分が受けた霊的印象や考えや体験を語ることです。旧約の時代においては、神は選ばれた器に直接に語りかけて、民に取りつがせることもあったとしても、今日「救贖の真理はことごとく聖書の中に啓示されている。真理の御霊は、真理のことばに矛盾したことは決して啓示されない」と澤村は述べて、預言者気取りになって聖書を離れて語る者を批判しています。確かに「体験に織り込まれない真理にはいのちがなく力がない」のです。しかし、同時にキリスト教は、「体験に依存するのではなく、真理の言葉そのものに立つべきである」と彼は訴えています(同書54~55頁、拙著117頁)。
- 聖書信仰と説教
筆者は、日本で福音派の聖書観、また聖書を神の言葉として堅く主張してきたグループには、17世紀プロテスタント正統主義から来る逐語霊感説と、18世紀信仰復興運動から来る救済論を中心としたタイプに分かれると繰り返し説明してきました。一般的に、2つのタイプには次のような違いがあります。前者はプリンストン神学に引き継がれましたのでアメリカに強く現れ、後者はイギリスに強く現れました。前者は、聖書は神が記者に言葉を与えて書かせたという核心がありますので、聖書のすべての言説・言葉が歴史的にも科学的にも「無誤」であると信じます。後者は、無誤の領域を救いに関することに限定します。また後者は、批評学の様々な成果が「聖書を権威ある神の言葉」という信仰と必ずしも矛盾するとは考えず、その成果を利用します。
もう一つ踏み込んで言うならば、日本における聖書信仰の展開の中で、この二者は説教のスタイルも異なっていました。それが本稿において、最終的に明らかにしたかったことです。改革派の説教は聖書講解が主体です。ホーリネス系の説教は、先に澤村が鋭く指摘したように聖書の釈義には乏しいという反省はありますが、そこには18~19世紀の福音派のルーツに近い、体験や証しを交えた説得力にあふれ、体験に基づいた迫りがありました。つまり彼らの説教は頭脳ではなく、たましいに神の言葉を届かせる「語り」でした。
なぜこのようなスタイルの違いが生じたのでしょう。それは、17世紀の正統主義は「記された言葉」に神学・教義のすべてを見いだそうとして、言葉の一字一句にこだわりました。宗教改革から今日に至るまで、一貫して聖書の原語であるヘブル語とギリシャ語の学び、そして「記された言葉」を読み解くという釈義を尊びましたので、説教スタイルは自ずと聖書講解的になります。やがてリベラリズムが聖書を文献として相対化し解体する事態にあって、聖書信仰は啓示の言葉を守り、聖書を神の言葉として尊び、丁寧に釈義して説教する――これは啓示の言葉である聖書にふさわしいアプローチでしょう。
他方、福音派のルーツと言われる信仰復興運動の説教スタイルは、伝道・自覚的回心が大々的に展開される中、会衆を超えた大衆に向けての単純な「福音の迫り」が重要な要素となりました。忠実な聖書の学びとそれに基づく聖書講解以上に、どのように人びとの関心を惹きつけ、罪を自覚させ、十字架の恵みを信じるように導くか、どうしたら失望から希望へと、死からいのちへと引き上げられるか、そこに説教の力点が置かれました。そして、このような救済論的な「語り」(説教)もまた、言葉が「語られ~記され~また今日的に語られる(説教)」という文脈にあって、聖書が記された本来の目的にかなっています。
- 聖書を「窓」と考える
本稿は、証し的・体験的語りを伴う信仰復興運動的説教の歴史的経緯、そしてその特質故に生じる弊害を説明してきました。しかし、最後にこのタイプの説教が「神の言葉」の本質にあって重要な視点をもっていることを記して終わりにします。
聖書を神の国の「窓」であると考えてみましょう。すると、釈義は、神が与えてくださった窓(テクスト)に肉薄して、歴史の彼方で起こった出来事、あるいは原著者が原読者に語ったことを見いだそうとする努力ではないでしょうか。――もちろん、窓から見ているのですから、あちら側の世界そのものを捉えたとするのは思い上がりでしょう。完璧な釈義はありません。――その上で、神が何を今日の私たちに語りかけてくださるかという「適用」を考えます。それは、神の言葉・出来事には、過去の時代で語られ、記されたものであっても、永遠的・普遍的なメッセージが込められていて今日に適用できるものだからです。しかし、説教学で学ぶように「御言葉の釈義」、そして「今日的適用」という図式で説教を考えます。
しかし、信仰復興運動的な説教は、説教を説明的ではなく、出来事的に考えていたように思います。神の言葉が「語られる」とき、御言葉の窓を通して聖霊の息吹がこちら側に吹き込んで来る。人は罪を深く認め、キリストの十字架にすがり、罪赦されて神の子どもと生まれ変わり、それだけでなく変えられ、罪を離れ、きよめられ、キリストのかたちへと変貌していく。その迫力をもって信仰復興運動の流れにある説教者たちは高々と「聖書は神の言葉である」と宣言しました。
釈義の方向性が、窓(テクスト)から神の世界を見ようとする努力であるとしたら、説教の方向性はその逆です。御言葉が語られるとき、その窓を通して、神の霊が今日の私たちの地平に吹き込んでくる。ホーリネス系の説教は、「窓」を通して(こちらから)神の世界に入っていく以上に、「窓」を通して(あちらから)神の世界から吹き込んでくる聖霊の息吹、つまり救いと改革の力を強調しました。そのために先に記しました「副テクスト」も用いられ、副テクスト的な賛美も用いられました。誠実な釈義を労力を尽くす方々からすれば、無謀な説教、あるいは澤村の先の言葉を借りれば「神秘主義的な傾向」として批判される点は多々あったと思います。
しかし、筆者は、ホーリネス系の聖書信仰に基づいた説教が、神学に欠け、学びに欠けた素朴な体験的信仰に過ぎなかったとは思っていません。むしろ、「御言葉の今日的地平、終末的地平」(拙著17章)を考える時に、「記された言葉」に集中するウォーフィールド型よりも、「語られる言葉」を基盤として、力強く聖書が神の言葉であると説教している、あるいはすることができる、と考えています。これについては、さらに後に本稿で記します。
感謝なことは、日本には聖書信仰を唱える者たちに両方のタイプが存在してきたということではないでしょうか。一方で丹念に釈義と講解に力を入れる牧師がいて、他方でどのようにして人びとの心に届き、救いと変貌をもたらすことができるかということに心を砕いた牧師がいました。その両者が、共に霊感された神の言葉の権威を信じ、互いに学び合うことで、福音派はその看板にふさわしい説教を考えてくることができました。