イエスは起こされた

キリスト教信仰の一番の土台はキリストの復活というできごとであり、したがって復活祭は教会にとってもっとも重要なイベントとされています。今年の復活祭は4月21日でした。レントの期間中、イエスの死と復活について思い巡らしていて、考えたことをブログに書こうと思っていましたが、いろいろなスケジュールに追われてなかなかパソコンに向かうことができないうちに、復活祭当日が過ぎてしまいました。けれども教会暦ではペンテコステまではまだ復活節の期間ですので、イエスの復活について個人的にとても重要だと思ったことを書こうと思います。

それは、イエスは自分の力で死からよみがえったのではなく、神がイエスをよみがえらせたのだということです。

新約聖書は繰り返し、神がイエスを死者の中からよみがえらせたことを語っています(使徒2:24、32、13:33-34、17:31、26:8 、ローマ4:24、8:11、10:9、ガラテヤ1:1、エペソ1:20、コロサイ2:12、1ペテロ1:21)。

さらに、多くの日本語訳の聖書でイエスが「よみがえった」と訳されている箇所も、原文ではギリシア語の動詞egeirō(起こす)の受動態を使って、文字通りには「起こされた」と書かれています(ヨハネ2:221コリント15:4)。たとえばヨハネ2:22は岩波訳では「彼(イエス)が死人の中から起こされた時」となっています。その場合、動作主は神であることが暗示されています(これを「神学的受動態」あるいは「神聖受動態」と言います)。たとえば1コリント15:4ではイエスが「聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえった(起こされた)」と書かれていますが、イエスを死者の中から起こしたのは神であることが文脈から明らかです(15節参照)。

したがって、「イエスは死からよみがえった」と言うよりも、「イエスは死人の中から起こされた」あるいは「神はイエスをよみがえらせた」と言うほうがより正確ではないかと思います。

ただし、新約聖書にはイエスの復活について語っている箇所で、受動態ではなく動詞anistēmiの能動態や中動態を用いていることもあります(マルコ福音書に多い)。またヨハネ10:17-18は、イエスが自ら捨てたいのちをもう一度得る権威を持っていると語っています。したがって「イエスが死からよみがえった」という言い方も必ずしも間違いではありません。他の多くの主題と同様、ここでも聖書の見方は多面的です。

けれども、新約聖書の重要な伝統がイエスの復活は父なる神のわざであると理解していることは確かです。じっさい、もしイエスが自分の力で死からよみがえることができたとしたら、ゲツセマネにおける、できることなら十字架を避けることができるようにとの祈りや、十字架上での「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫び(マルコ15:34ほか)も理解困難です。イエスが死後自分の力でよみがえるつもりであったとしたら、これらの祈りの真実味は薄れてしまうでしょう。そのように考えることは、仮現論に近いものを感じてしまいます。

つまり、イエスは神としてのご自分の力を用いて死から自力でよみがえったのではなく、父なる神がご自分をよみがえらせてくださるということを完全に信頼して、十字架の死へと向かわれたのです。(これはイエスの神性を否定しているわけではありません。)そして神はそのイエスをよみがえらせてくださり、その正しさを立証してくださいました。このような復活理解は、十字架の死の深刻さ、イエスの人間との連帯、父なる神へのまったき信頼、神の積極的関与といういろいろな観点から、たいへん説得力があると思えます。

このことは些細な問題ではなく、終末における一般的な死者の復活との関係で重要な意味を持っています。パウロはイエスが初穂として復活したので、世の終わりに私たちも復活する希望があると述べています(1コリント15:20-23)。初穂とは収穫物の最初の部分のことで、残りの収穫を予告し保証するものです。つまり、イエスの復活と一般的な死者の復活には共通項があるということです。もしイエスの復活がイエスの神性に根拠を置いているなら、神ならぬ身の私たちにはよみがえる希望はありません。けれども、イエスが人として死んでくださり、神がこのイエスをよみがえらせてくださったからこそ、その同じ神がイエスを信じる人々をよみがえらせてくださる希望を持つことができるのです。

それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。(1コリント15:21-22)

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今年の復活祭は、キリストの復活を祝う喜びの日ではありましたが、同時に大きな悲しみの日でもありました。ニュースで大々的に報道されたように、スリランカでは復活祭を祝う教会等を狙った大規模テロが起こり、多数の犠牲者を出しました。

また、復活祭前日の土曜日に、このブログでも以前紹介したRachel Held Evansが原因不明の病気で昏睡状態にあるという情報が入りました。まだ若く小さなお子さんもいる彼女を襲った突然の悲劇に大きなショックを受け、彼女とご家族のために祈っています。

そのようなわけで、今年の復活祭は個人的に何となく重苦しい雰囲気で迎えることになりました。教会でキリストの復活が祝われているその瞬間にも多くの人々が苦しみの中にあり、「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」(1コリント15:55)と宣言する教会をあざ笑うかのように、死は今日も確実に人々をのみこんでいる現実があることを、改めて思い知らされたからです。

神はキリストをよみがえらせました。けれども、死者の復活はまだ起こっていません。

神はキリストをよみがえらせました。けれども、この地上にはまだまだ死の力が猛威をふるっています。

けれども、神はキリストをよみがえらせ、ご自分が真実なお方であることを証明されました。

結局のところ、復活の希望とは、キリストを信じることによって私たちが何か死を乗り越える特別な能力を持つようになるということではなく、死の現実に直面してもなお、私たちの死すべきからだを生かしてくださる神に対して信頼を置くことなのだと思います。復活は神のなさるわざだからです。

そうであるからこそ、死の力が依然として支配するこの世界にあって、私たちはキリストの復活を繰り返し思い起こし、キリストを死者の中からよみがえらせた神の真実を告白し証ししていく必要があるのだと思います。イエスを起こされた神は、イエスにつながる私たちも起こしてくださるのだと。

あなたがたは、このキリストによって、彼を死人の中からよみがえらせて、栄光をお与えになった神を信じる者となったのであり、したがって、あなたがたの信仰と望みとは、神にかかっているのである。(1ペテロ1:21)