受肉というスキャンダル

今日は灰の水曜日であり、レント(四旬節)の期間に入りました。教会暦では復活祭に先立つ40日間を、自らを省みる祈りと悔い改めの期間としています。40日という期間は、イエスの公生涯に先立つ荒野での試練に対応していますが過去記事を参照)、それはもちろん究極の試練である十字架をも指し示すものでもあります。

灰の水曜日には、教会によっては信者の額に灰で十字のしるしをつける儀式を行います。そこには自分が死すべき存在であることを覚え、悔い改めて神に立ち返るようにというメッセージがあります。このことを思いめぐらしていたとき、死すべき存在である人間のひとりに神がなってくださったという受肉の意味について、改めて考えさせられました。

私はレントと受難週にはよくバッハのマタイ受難曲を聴きます。お気に入りは大定番ですがカール・リヒター。中学時代に初めて彼の演奏でマタイを聴いて以来、愛聴しています。先日この曲についてインターネットを検索していたら、衝撃的な動画を見つけました。それがこちらです。

聴いて分かるように、これはドイツ語のマタイ受難曲に大阪弁の字幕を付けたもので、大阪弁で歌っているわけではありません。字幕は何年か前に出版されて話題になった『コテコテ大阪弁訳「聖書」』に基づいているようです。私はこの聖書については知っていましたが、それをバッハのマタイ受難曲にかぶせるという離れ業は、酢豚にパイナップルが入っているのを最初に発見した時と同じくらいショッキングなものでした。しかも演奏はよりによって私の好きなリヒターです。これを見つけた時は正直、冗談としか思えませんでした。

そこで、半ばパロディを楽しむくらいの軽い気持ちで見始めたのですが、聴いているうちに不思議なことが起こりました。初めのうちこそ、バッハとコテコテ大阪弁のギャップを面白がりながら見ていましたが、そのうち意外にも、大阪弁のメッセージがじわじわと心にしみ入ってきました。そして、

見なはれ、愛と慈しみのために
十字架を担がはる お方を!
おお イエスはん、わてらを憐れんで下さい!

の部分では、不覚にも目頭が熱くなるほど感動してしまったのです。いったい何が起こったのかと、自分でも考え込んでしまいました。

一つには、私の言語的な原体験が関係しているのかもしれません。私は大阪で生まれ幼少期を過ごしましたし、関東に引っ越した後も、両親は家で大阪弁を話していました。私自身は現在大阪弁は話せませんが、たまに大阪を訪れる機会に電車に乗っていたりすると、

ふるさとの訛りなつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにいく

という石川啄木の有名な歌を思わせるような体験をすることがあります。現在使用していなくても、大阪弁には私の心に訴えかけてくるものがある、逆に言えば私の心にそのような特殊な受容回路ができている、と言えるかもしれません。それは自分で意識して作りあげたものではなく、もっと理性を超えた生理的レベルのものです。そこにたまたまこの「浪速のマタイ」がヒットしたということかも知れません。

けれども、それだけではないような気もします。

酢豚にパイナップルを入れるのは許せない!」という人々が存在するのと同様に(私は好きですが)、「マタイ受難曲に大阪弁など冒涜だ!」という人もいるでしょう。けれどもそもそも、なぜ私たちは標準語による聖書やマタイ受難曲にはなんとなく「高尚」なイメージを持つのに、それが大阪弁に訳されると「パロディ」「受けを狙っている」あるいは人によっては不謹慎」「冒涜」とさえ感じるのでしょうか? (『コテコテ大阪弁訳「聖書」』の大阪弁は「ネイティヴスピーカー」からすると違和感がある、との意見もあるようですが、詳しい言語学的な議論には立ち入らないでおきます。)

そこには私たちが無意識のうちに持っている差別意識があるように思われます。たしかに「標準語」が日本社会で特権的な位置を占めているのは動かしようのない事実ですが、だからといって標準語が大阪弁や他の方言に比べて「高級な日本語である」ということにはなりません。むしろそれらの方言の方が、微妙で細やかなニュアンスがより正確に伝わる場合もあるのです。

バッハのマタイ受難曲の歌詞はドイツ語で書かれていますが、これは伝統的な西方教会のラテン語による賛美歌の伝統から見たら、まさに方言どころか「北方の蛮族が話す外国語」であったと言えます。しかし、宗教改革以来、教会の中で人々が自国語で聖書を読み、神に賛美を捧げる伝統が生まれ、世界に広まりました。

新約聖書のギリシア語は古典ギリシア語とは異なる部分があるため、かつては「神が特別に聖書のために与えたもうた神聖な言語」と考えられた時代もありました。けれどもその後研究が進むにつれ、それは聖書が書かれた当時に一般の人々が話していた日常語(コイネー)であったことが分かってきたのです。さらに遡ると、元来ヘブル語で書かれた旧約聖書は、ヘレニズム世界に離散してギリシア語を母語とするようになったユダヤ人に理解できるようギリシア語に訳され、新約聖書でも引用されるようになりました。

つまり、聖書であれ賛美歌であれ芸術作品であれ、神のメッセージはそれぞれの時代と文化に生きる人々が最もよく理解し共感できることばと表現で伝えられてきたということです。そして、その究極的な姿が、神の御子キリストが人となった受肉のできごとにほかなりません。

そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。
・・・
神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。
(ヨハネ1章14、18節)

キリストは抽象的・標準的な「人間一般」になられたのではなく、紀元一世紀のパレスチナに生きる、ひとりの生身のユダヤ人男性として地上を歩まれました。その時代に存在した文化的・社会的なあらゆる特質や制約もふくめて、まるごと人間となられたのです。

けれども、受肉という概念はキリスト教の中心概念であるにもかかわらず、私たちはしばしばそのラディカルさに対して鈍感になってしまうように思います。神が人となられたということがどれほど過激な、スキャンダラスですらあるできごとだったか、私たちはともすると忘れてしまいがちです。いやむしろ、そのスキャンダルからできれば目を背けたいと思ってしまうのではないでしょうか。

たとえば、キリスト教の立場から進化論を批判する議論の一つとして言われることに、「もし進化が事実だとすると、人間は猿から進化したことになる。それは人間の尊厳を貶めるもので、受け入れがたい」というものがあります。この議論が暗黙の内に前提としているのは、「人間は他の動物よりも高等な生物である」ということだと思います。

しかし、キリストはヒト(ホモ・サピエンス)がチンパンジーよりも高等だからヒトになられたのでしょうか? 進化論を受け入れるかどうかは別としても、もし私たちが猿であったら、キリストは私たちを救うために猿になってくださったに違いないと、私は考えています。キリストは受肉前に父なる神に向かって「ヒトならいいけど、猿はいやです!」とはおっしゃらなかったと思います。それどころか、もし虫だったら、虫けらである私たちを救うために喜んで虫になって下さったことでしょう。そこにこそ、神の無限の愛が表されているのではないでしょうか。

人間が他の種より生物学的にどれほど「高等」かということは、神が被造物の一員に、それも広大な宇宙に浮かぶ塵のような惑星上の、さらに小さな生き物なってくださったという受肉のおどろくべき神秘の前には、取るに足りない問題です。むしろ、そのような微少な差異にこだわりすぎることによって、キリストが「おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた」(ピリピ2:7)という受肉のインパクトを薄めてしまうのではないかと危惧するのです。

キリストが私たち人間の救いのために、私たちのひとりとなってくださったという、驚くべき神の恵みは、私たちの想像を絶するものであり、居心地の悪いものであり、スキャンダラスでさえあります。その衝撃を少しでも弱めるために、私たちはさまざまな「宗教」のシステムを作りあげてきました。「聖なる」言語、「聖なる」建物、「聖なる」儀式、「聖なる」階級(聖職者)・・・これらはみな、受肉のキリストを特別に「聖なる領域」に押し込めて、私たちの日常生活から「安全」な距離を取ろうとする試みであるように思います。

けれども、ナザレのイエスは「わたしたちのうちに宿った」(ヨハネ1:14)のです。この方は紀元一世紀のユダヤ人たちとともに生活し、彼らと食事をし、彼らのことばであるアラム語で交わりを持たれました。イエスが現代の大阪に生きておられたら、当然大阪弁を話されるでしょうし、道頓堀あたりで人々と一緒にお好み焼きを食されるかもしれません(「豚玉」を食べられるかどうかは分かりませんが・・・)。

時として、クリスチャンの問題は、神が遠く離れておられることではなく、私たち自身が神を遠ざけていることにあるのかもしれません。そんな私たちに神は大胆に近づいてくださいますが、私たちの心があまりにも「宗教的」になっていると、そんな神はかえって「冒涜的」に見えるのでしょう。それはまさにイエスの時代のユダヤの宗教的指導者たちがイエスに対して取った態度でした。彼らはイエスが「罪人たち」と親しく交わることに我慢がならなかったのです。

そのように考えてくると、大阪弁で語られるイエスの物語に触れて不快に感じることがあれば、それはもしかしたら、私たちのレベルにまでとことん身を低くして降りてきて下さる神の恵みを受け入れられない「心のかたくなさ」を表しているのかもしれません。もちろん、すべての人の心に大阪弁が響くわけではありません。私たちの多様な文化のそれぞれに、神は受肉してくださるのだと思います。それでも少なくとも、自分には奇異に感じることがらであっても、神がそのような方法を用いて特定の人々に語っておられる可能性を認めることは大切だと思います。

あるいは、人によっては普段は方言で会話していても、祈りになると標準語で神に語りかけるということもあるでしょう。標準語で祈るのはいけないと言っているのではありませんが、時には普段使っていることばで祈ってみると、これまでと違った祈りの体験になるかもしれません。

このようなときに、私たちが自分の心の動きを注意深く見守り、特定の反応の背後にある原因を探っていくならば、もしかしたらそこには受肉の神を受け入れきれない何かがあるのに気づくかもしれません。今年のレントは、ともにおられるインマヌエルの主を遠ざけている部分が自分の内にないか、吟味していきたいと願っています。

そして、パイナップル入りの酢豚を食わず嫌いで敬遠している方も、ぜひ挑戦してみていただきたいと思います。意外とおいしく食べられるかも知れませんよ。

 

 

 

 

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