さいごに残るもの

2018年も終わりに近づきました。この一年は私と家族にとって大きな変化の年になりました。

別れがあり、出遭いがありました。
失ったものがあり、得たものがありました。
引き抜かれ、植えられる体験をしました。
苦しみがあり、喜びがありました。

これまでの歩みを振り返るとき、気づかされることがあります。それは、私たちの目によいと思えることも、悪と思えることも、すべては過ぎ去っていくことです。すべてが私たちの前を幻影のように通り過ぎていったとき、いったい何が残るだろうかと考えさせられます。

折に触れて思い起こす、アビラのテレサによる有名な詩があります:

何事にも心乱されず
何事も恐るまじ
なべては過ぎ去り
神のみ変わり賜わず
忍耐はすべてを得べし
神を所有し奉らば 何事をも欠かず
神のみにて足れり

嬉しいこと、祝福と思えることが人生に起こったとき、それについて神に感謝するのはよいことです。けれども、それらの「よいもの」もまた、過ぎ去っていきます。もし私たちがそれらに固執するなら、それらが失われたとき、私たちの心は引き裂かれます。手放すまいと強く握りしめればしめるほど、痛みは大きくなります。

だとすると、私たちが本当に感謝すべきは、人生に与えられるさまざまな「よいもの」ではなく、「よいもの」も「わるいもの」も過ぎ去った後にもなお残る、神の臨在だけなのかもしれません。

自分が大切にしているあらゆるものが取り去られることを想像してみます。財産、経歴、業績、肩書き、評判、能力、健康、そして愛する人々・・・ 私たちがすべてをはぎ取られ、荒漠たる宇宙のただ中に裸で立ち尽くすとき、そこにもなお神がともおられることを知るならば、そのとき私たちはかつてなかったほどに神に近づくことができるのだと思います。聖書の神は「隠れた所においでになる」神(マタイ6:6)であり、「静かな細い声」(1列王19:12)で語られる神です。私たちが神と出会うのは、荒野においてです。

そしてそのとき、私たちは気づくのかも知れません――究極的には、人生に「よいもの」も「わるいもの」もなく、ただ私たちを神に引き寄せるものと、神から引き離すものがあるだけだと。

*     *     *

Audrey Assadによる “Drawn to You”。この歌は以前も紹介したことがありますが、最近ふたたび耳を傾けるようになりました。美しい映像と歌詞が心に静かに沁みこんできます。

わたしが得たすべてのもの
失くしたすべてのもの
その果てに悟った真実
それは あなたが今も
わたしを引き寄せておられること