するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。(ルカ2章13-14節)
クリスマスに関連して、何年か前に偶然耳にして衝撃を受けた曲があります。それは旧ソ連の作曲家アリフレート・シュニトケによる「きよしこの夜 Stille Nacht」です。同名の有名なクリスマス・キャロルに基づいて作られた曲なのですが・・・まずはお聴きください。
聞き慣れた美しい讃美歌のメロディーが、何度も繰り返されるうちに次第に崩壊していく不気味さに、最初に聴いたときは強烈な不快感を覚えたものです。にもかかわらず、なぜかこの曲は私の中に強い印象を残しました。今年のアドベントになって、その意味を改めて考えてみました。
シュニトケの作品はもちろん本来的な意味での「讃美歌」ではなく、そのパロディです。彼がどのような意図をもってこの曲をつくったのかは分かりませんが、作曲者の意図はともかくとして、私にはこの曲は現代のキリスト教会の現状を鋭く表現しているようにも思えるのです。
今日の教会が抱える課題は山積していますが、その最大のものの一つは、キリストのからだであるはずの教会が分断されていることでしょう。その原因は、各グループが自分たちの捧げる讃美と礼拝、自分たちの語る神学こそ、最も正統的で神に喜ばれるものだと自負しているからかもしれません(こちらの過去記事も参照)。その結果、キリスト教会が全体として調和の取れた証言をイエス・キリストについて行うことが難しくなっていると思います。「キリストは、いくつにも分けられたのか。」(1コリント1:13)というパウロの叫びが聞こえてきそうです。
そういう現状に鑑みたとき、こんにち世界のキリスト教会で捧げられる讃美は、神の耳にはいったいどのように響いているのだろうか、と考えさせられます。それぞれの教会では、美しいメロディを奏でているつもりかもしれません。けれども、お互いを認めることなく、てんでに自己主張を行うばらばらの教会が捧げる讃美は、もしかしたら神の耳には耳障りな不協和音としか響いていないかもしれません。熱くも冷たくもなく、生ぬるいラオディキア教会の信仰がキリストに吐き気を催させたように(黙示録3:16)、そのような教会の「讃美」に主が耳をふさいでおられないと、誰が言い切れるでしょうか?
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1914年のクリスマス、第一次世界大戦で交戦中であったイギリス軍とドイツ軍の将兵たちの間で、非公式な休戦が行われた地域がいくつもあったそうです。それまで殺し合いを演じていた両軍の兵士たちが塹壕から出て、ともにクリスマスを祝いました。

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アドベントは省察と悔い改めの季節でもあります。平和の君であるキリストの降誕を祝うために、互いの神学的武器を下ろし、教団教派の塹壕から出て、一つ心で神に歌うことができたら、どんなに素晴らしいでしょうか。皆が同じ声部、同じ旋律を歌う必要はありません。対話や議論はあってもいいのです(今後もそのような記事を予定しています)。練習には時間がかかるかもしれません。けれども、お互いの存在を否定することなく、辛抱強く相手の声を聴きながら自分の声をそれに重ねていくなら、美しいハーモニーを作り出すことは、不可能ではないと思います。このクリスマスには、そのような「平和」がこの地に少しでも実現することを願っています。
(こちらは不協和でない「きよしこの夜」)