力の支配に抗して(1)

当ブログではこれまでもシモーヌ・ヴェイユについて何度か取り上げてきました(たとえばこの記事)。

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シモーヌ・ヴェイユ(1921年)

私はヴェイユの専門家ではなく、彼女が書いたものをすべて読んでいるわけでもありませんが、暇を見ては少しずつ読んできました。その中で最も好きな作品はと問われれば、躊躇することなく挙げたいのが、「『イリアス』あるいは力の詩篇」です。これまで、冨原眞弓訳(みすず書房『ギリシアの泉』所収)、Mary McCarthyによる英訳(こちらで読むことができます)、そして最近出た今村純子訳(河出文庫『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』所収)といろいろな訳で読んできましたが、読むたびに感動を新たにする珠玉の小品です。

このエッセイは、タイトルからして素晴らしいです。このような、直截的かつ詩的な表題を自分もいつか書いてみたいと思います。そして開口一番、単刀直入に主題が述べられます。

『イリアス』の真の英雄、真の主題、その中枢は、力である。

(以下、引用は特に断りのないかぎり冨原訳「『イリアス』あるいは力の詩篇」より行います。表題および引用文におけるギリシア語のカナ表記は原文に従います。)

『イーリアス』はいうまでもなく世界文学の古典中の古典、ホメーロスによる長編叙事詩です。トロイアの王子パリスに奪われた絶世の美女ヘレネーを取り戻すべく攻め寄せたアカイア勢による、10年にわたるトロイア包囲戦の終わり頃に起こった出来事を描いたものです。

ヴェイユは『イーリアス』を愛読し、つねにそのギリシア語原典を持ち歩いていたそうです。「『イリアス』あるいは力の詩篇」は、ナチスドイツがポーランドに侵攻し、フランスにも迫ろうとする1939年の末に書かれました。この論文が当時の政治状況を意識しながら書かれたことは明らかです。

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ポーランドへ向かうドイツ軍兵士を見守るヒトラー(Photo via Wikimedia

『イーリアス』の物語はアカイア側のアキレウス、そしてトロイア側のヘクトールの両勇士をはじめとする兵士たちの血で血を洗う戦いを中心に展開していきますが、ヴェイユは叙事詩の真の主人公はアキレウスでもヘクトールでも、いやどんな人間でもなく、「力」だというのです。なぜなら、アカイア勢であれトロイア勢であれ、すべての人間は力の支配下にあるからです。

かくも情け容赦なく、力は蹂躙する。かくも情け容赦なく、力はこれを所有する者あるいは所有していると思っている者を陶酔させる。力をほんとうに所有する者はだれもいない。

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この論考におけるヴェイユのきわめて重要な洞察は、力はそれを受ける者だけでなく、それを行使する者も等しく支配する、という点にあります。

これが力の本性である。人間を「もの」に変容するという力が有している権能は二重であって、二側面から作用する。力は、異なったふうにではあるが、力を蒙る魂も力を操る魂をもひとしく石化させる。(中略)その神秘がなんであれ、石化の二重の特性は力にとって本質的なものであり、力と接触させられる魂は、一種の奇蹟にでもよらぬかぎり石化を免れえない。このような奇蹟は稀れなうえ、持続しない。

力は敗者だけでなく勝者の人間性をも破壊し、「もの」化します。したがって、戦いの勝敗は人間の悲惨さという点においては何の意味も持ちません。たとえ本人たちが気づいていなくても、力の前には勝者も敗者も等しく無力です。剣の柄に触れる者も刃に触れる者も、どちらも力による穢れを免れることはできないのです。

力が弱者だけでなく強者をも貧しくするという思想は、たとえばポール・トゥルニエなどにも見ることができます。そして、このような力の支配は、戦場だけでなく、人間社会のいたるところに――会社で、学校で、家庭で、そして教会でも――存在します。人が他者を力(物理的な暴力とは限りません)によって支配し、コントロールしようとするとき、「強者」の側も知らないうちにその力の影響を受けているのです。

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工場で働いたヴェイユの身分証明書写真

ヴェイユはヨーロッパ文学の源流たる『イーリアス』の中に、力の支配についての最も雄弁な表現を見出しました。けれどもヴェイユは、そのような陰鬱な力の支配の中で、ときおり一瞬現れては消える人間の魂の燦めきに目を留めます。それは、人々が正義と愛を示す瞬間です。

『イーリアス』の最終歌である第二十四歌に、トロイアの王プリアモスが夜陰に乗じて敵将アキレウスを訪れる場面があります。老王はアキレウスに殺された息子ヘクトールの遺骸を引き渡してくれるよう、アキレウスに嘆願するために、莫大な贈り物を携えてやってきたのです。息子への愛ゆえに身の危険も顧みず訪れた父王の姿に感動したアキレウスは、王の願いを聴き入れ、ヘクトールの遺体を引き渡します。ここで仇敵同士であった二人の間に不思議な親愛の情が生まれます。『イーリアス』全巻はヘクトールの葬儀をもって閉じられますが、アキレウスとプリアモスの交流は、ホメーロスの長大な叙事詩のクライマックスと言っても過言ではない、感動的な場面です。

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アキレウスに嘆願するプリアモス

『イーリアス』にはこのような美しい場面がそこかしこにちりばめられていますが、そのような束の間の人間性の輝きもまた、たちまちのうちに力の支配に呑み込まれてしまいます。普遍的な力の支配と、その中で奇跡的に現れる魂の輝きは、ヴェイユが『重力と恩寵』の中で語る、重力と真空、またその真空を満たす恩寵の概念を思い起こさせます。

おのれの手中にある力を行使しつくさずにいる、それは真空に堪えることだ。(中略)恩寵は充たす。ただし、恩寵を迎えいれる真空のあるところにしか入り込めない。かつ、この真空を生みだすのもまた恩寵である。(冨原眞弓訳『重力と恩寵』)

『イーリアス』の全篇には、このような力の支配に対して、滅ぼされていく正義と愛を惜しむまなざしがあり、心やさしさから生ずる苦渋があふれています。それは勝者にも敗者にも分け隔てなく向けられています。それはヴェイユの比類なく美しい表現によれば、「万人の上に陽光のごとく等しく拡がる」苦渋なのです。

この苦渋、すなわち人間の悲惨さをありのままに語ること、自己欺瞞によって力の支配を正当化しないこと、「力をけっして讃美せず、敵を憎まず不幸な人びとを軽蔑しないこと」こそが求められています。なぜなら、「力の支配を知り、しかもこれを尊重しないすべを知らないかぎりは、愛することも義しくあることも不可能である」からです。

ヴェイユによれば、この真理を表現しえた文学こそ第一級の文学であり、ヨーロッパ文学においてその系譜は『イーリアス』からアイスキュロスやソポクレースなどのギリシア悲劇へと受け継がれていき、「その最後にして驚嘆すべき表現である」福音書の受難物語に至るのです。

(続く)

付録1:土井晩翠訳『イーリアス』(青空文庫)。『イーリアス』の邦訳は何種類か出ていますが、これはオンラインで読める戦前の格調高い韻文訳です。旧字旧仮名で初めは取っつきにくいですが、七五調のテンポに乗ることができれば、意外とすらすら読めます。文語訳聖書がお好きな方には気に入るかも知れません。

付録2:オラトリオ「シモーヌの受難 La Passion de Simone。現代フィンランドを代表する作曲家カイヤ・サーリアホによる、ヴェイユの生涯と思想をテーマにした2006年の作品。サーリアホは若いときからヴェイユの著作に親しんでおり、1981年に作曲の勉強をするためドイツに渡った時にもフィンランド語訳の『重力と恩寵』を携えていたそうです。私が所有しているCDはオーケストラ版ですが、こちらはアメリカで初演された室内楽版です。