悪魔の解釈学(3)

さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。 するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。
‭‭(ルカ福音書‬ ‭15章1-2‬ ‭節)

その1 その2

ヘヴィーメタル(あるいは大衆文化一般)における悪魔のイメージをどう解釈するかについて、これまでいくつかのポイントについて考察してきました。最後にもう一つの重要なポイントについて触れたいと思います。

神がデスヴォイスで歌うとき」の5でも少し触れましたが、1982年にイギリスのヘヴィーメタルバンド、Iron MaidenがアルバムThe Number of the Beast(邦題は「魔力の刻印」――これに限らず海外ポピュラー音楽の楽曲の邦題は不正確な訳が多いので注意が必要です)を発表したとき、アメリカのモラルマジョリティを代表とする保守系団体が同バンドを悪魔主義と非難して反対運動が巻き起こりました。黙示録13章に出てくる「獣の数字」にまつわるタイトルとともに、その大きな原因となったのは、悪魔を描いたアルバムジャケットでした(画像はウィキペディアを参照)。

このアルバムの禍々しいアートワークは、当時の保守的なクリスチャンを戦慄させるに足るものでした(アナログレコード時代のジャケットの大きさを考えると、そのインパクトはCDとは比べものにならなかったと思います)。ここでは、このアルバムの内容自体の是非について論じることはしませんが、私がこの絵に描かれている悪魔の姿を見て思ったのは、「はたして悪魔は実際このような姿をしているのだろうか?」ということです。

このアルバムアートにおける悪魔の表象はじつに陳腐です。ここでは悪魔は赤肌で角と尻尾をもち、三叉の槍を手にした典型的な姿で描かれています。しかし「雲の上にいる白ひげの老人」という神のイメージが問題をはらんでいるのと同様、このような悪魔の通俗的イメージも大きな誤解を招くものです。聖書は悪魔がこのような姿をしているなどとは一言も述べていません。それはみな後世に生まれてきたイメージです。

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通俗的な悪魔のイメージ

けれどもそれより重要なポイントは、ほんものの悪魔はこのような「いかにも邪悪な」姿では現れない、ということです。その反対に、パウロはサタンは光の天使に偽装すると言っています(2コリント11:14)。

この意味で、The Rolling Stonesが1968年に発表した “Sympathy for the Devil”(邦題「悪魔を憐れむ歌」)に登場する悪魔の描写は、より本質を突いているように思います。この曲で1人称の語り手である「悪魔」は、自分は「金持ちで趣味のいい男だ(I’m a man of wealth and taste)」と自己紹介します。そしてサビの部分ではこう語りかけます:

Pleased to meet you
Hope you guess my name
But what’s puzzling you
Is the nature of my game

(お会いできて光栄です
私の名前はお分かりでしょうな
だが私のゲームの性質には
当惑しておいでのようで)

(ちなみに、この歌はミック・ジャガーがミハイル・ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』にヒントを得て作曲したと言われています。内容的には風刺と言えるものであり、題名から想像されるような悪魔礼拝の歌ではありません。むしろ、この世の悪に対する悪魔の関わりと人間の道徳的責任について、いろいろなことを考えさせてくれます。この曲の解釈については、この本にあるHarold Pennerの “The Nature of His Game: A Textual Analysis of ‘Sympathy for the Devil'”を参照してください。)

ここでいう悪魔の「ゲームの性質」は、パウロが「悪魔の策略」(エペソ6:11)と呼ぶものに通じると思います。悪魔はそのゲームをストレートにプレイすることはしないので、人間は惑わされてしまいます。サタンはいかにも悪魔らしい邪悪な格好をして襲ってくるのではなく、策略と偽装をもって巧みに近づいてくるのです。

ところで、新約聖書で「悪魔」や「サタン」ということばがどのように使われているかを見ていくと、興味深いことに気づきます。多くの場合、「サタンに仕えている」とされる人々は、今日の悪魔崇拝者のようにサタンをサタンとして礼拝している人々ではなく、正統的な宗教の枠内にありながら神の意志に逆らって行動している人々のことを言っているのです。

たとえば、イエスによる受難の予告を否定したペテロは「サタンよ、引き下がれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と叱責されています(マルコ8:33ほか)。同様にイエスをメシアと認めないユダヤ人たちに対しては「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって・・・」と語られています(ヨハネ8:44)。黙示録2章9節や3章9節に出てくる「サタンの会堂に属する者」という表現も、文脈から分かるように悪魔礼拝者のことではなく、イエスをキリストと認めないユダヤ教主流派のことです。そしてもちろん、イエスを十字架につけるようにピラトに求めたのは、そうすることによって神に奉仕していると信じていたユダヤ人たちでした。

つまり、聖書がもし「悪魔主義者」について語っているとすれば、それはサタンを公然と礼拝する人々のことではなく、自分では神に仕えていると思いながら実はそうでない人々のことなのです。彼らは悪魔のゲームに翻弄され、その策略にとらえられている人々です。

さらに興味深いのは、そのようにして悪魔に欺かれている人々の目には、まことの神に遣わされたイエスの働きは「悪魔的」に見えることです。イエスを信じないユダヤ人は、その働きを悪霊のかしらベルゼブルによるものだと非難し(マタイ12:24ほか)、イエスは悪霊に憑かれていると言いました(ヨハネ8:48)。そして、彼らはイエスの十字架を神からののろいと受けとめていたのです。

これらすべては何を意味しているのでしょうか? この世界における悪魔の働きは、いかにも悪魔的に見えるものとは限らないということです。大衆文化における、いかにもそれらしい悪魔のイメージの多くは、人々にショックを与えるための芸術的表現であって、ほんとうの悪魔礼拝とは関係ありません。時には、堕落した社会や教会に対する風刺や建設的批判の役割を果たすことすらあります。したがって、キリスト教会はそれらにいちいち目くじらを立ててヒステリックに攻撃するのではなく、それらのイメージが何を伝えようとしているのかを考える必要があります。逆に、「いかにも悪魔的」なイメージに振り回されることによって、それよりもっと深刻で巨大な悪の働きから目をそらされてしまうこともありうるのではないかと思うのです。

そもそも、この世界における最も巨大な悪はどのような種類の人々によってなされるのでしょうか? ヘヴィーメタルに熱中して、悪魔を描いたTシャツを着ている貧しい若者でしょうか、それとも巨万の富を持って巨大企業や政府を動かし、経済的搾取や環境破壊や戦争を引き起こし、余暇には正装してクラシックコンサートに行くような人々でしょうか? ヘヴィーメタルでは戦争を引き起こす権力者への怒りが歌われることが多いですが、教会と結びついてメタルを悪魔呼ばわりしたのは、まさにそのような人々だったのです。つまり、ミック・ジャガーが歌うように、悪魔は “a man of wealth and taste”  のように見えることが多いのだと思います。

これは音楽だけの話ではありません。ハロウィーンの飾り付けや、「悪魔的」なキャラクターや「魔法使い」が登場する映画や小説(『指輪物語』やハリーポッター等)など、「分かりやすい」悪魔のイメージを教会が取り上げて攻撃することは簡単です。しかし、実際にはキリスト教会は、子どもっぽいナイーヴさで悪魔の策略に乗せられているだけなのかもしれません。教会が戦うべき相手は、もっとほかのところに――もしかしたら教会の内側にも――あるのかもしれないと思うのです。

私は大衆文化にあるすべての悪魔的イメージが中身のない見せかけだと言っているのではありません。けれどもキリスト教会は、カテゴリカルにすべてを否定したり肯定したりするのではなく、個別のケースを吟味して、本当に危険なものとそうでないものを見分ける識別力と知恵を身につけていくことこそ、一番必要なのではないかと思います。

このシリーズで何度も繰り返してきたように、私はクリスチャンがすべてのヘヴィーメタルを受け入れるべきだと言っているのではありません。どのジャンルにも良いものと悪いものがあり、それを見極めることが大切だと言っているのです。世の中には、クラシックは良い音楽でロックやメタルは悪い音楽というナイーヴな二分法を持っている人々もいますが、クラシックを聴いていれば良い人間になるわけでないことは、次の動画を見れば明らかです。

ヒトラーの誕生祝いにベートーヴェンを
演奏するフルトヴェングラー

もちろん、この一例をもってクラシック音楽は邪悪だと断定する人は誰もいないでしょう。私自身、クラシックもよく聴きます。それなのに、ことヘヴィーメタルに関してはそうした乱暴な議論がキリスト教会に横行しているのは、憂うべきことだと思います。

前にも述べたことですが、特定の音楽スタイルそれ自体が道徳的に良かったり悪かったりするわけではありません。大切なことは、それを人間がどう用いるかです。この点を見誤って、「あの人はヘヴィーメタルを聴いているから罪深い人間だ」「私はクラシックしか聴かないから大丈夫」というようなナイーヴな思考法に陥ると、私たち自身の道徳的責任を音楽に転嫁することになってしまいます。

音楽に限らず、「○○は悪魔的」という固定概念で十把一絡げにある種の文化やライフスタイルを拒絶することは、いちいち自分の頭で考えなくても済むため、いちばん楽なのです。しかしそうすることは、自らの内側に潜む罪性に対して盲目になり、ある種の人々を教会から遠ざけ、そして――ちょうどイエス時代のパリサイ人がそうであったように――この世の意外な領域で神がなさっておられるみわざを否定してしまうことにもつながるのではないかと思います。

もしそうなってしまったら、教会は霊的怠慢のそしりを免れないのではないでしょうか。私たちはこのようなナイーヴで短絡的な思考法を捨て、より成熟した態度で文化に接していく必要があるのではないかと思います。