悪魔の解釈学(1)

そこで、兄弟たちはただちに、パウロとシラスとを、夜の間にベレヤへ送り出した。ふたりはベレヤに到着すると、ユダヤ人の会堂に行った。ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。
(使徒行伝17章10-11節)

「神がデスヴォイスで歌うとき」4で取り上げた、1980年代のアメリカで起こった反ロック/メタル運動には、保守的キリスト教会も深く関わっており、今日の日本のキリスト教会にとってもいろいろと意義深い教訓を残していると思います。そこで、キリスト者が一般社会、特に大衆文化の中にある悪魔的イメージをどう捉えるべきかについて考えてみたいと思います。

アメリカの社会学者Deena Weinsteinのヘヴィーメタルに関する先駆的研究によると、メタルの批判者は、ヘヴィーメタルは若者に有害な思想、すなわち自殺教唆、暴力、性的逸脱、悪魔主義等を吹き込んでいる、と主張しましたが、その実例として引用された曲のタイトルや歌詞はしばしば大きくこじつけて解釈されました。

一例として、Ozzy Osborne“Suicide Solution”という曲は、実際にはアルコール中毒を断罪する内容の歌だった(つまり、飲酒は緩慢な形の自殺であるということ)にもかかわらず、批判者たちは曲名だけからこれは自殺を勧める歌であると決めつけ、メタルの有害性を表す「証拠」として繰り返し引き合いに出しました。

またWeinsteinは、1982年にフロリダのバプテスト系の学校で行われた「レコード焼却」集会についてのレポートを紹介しています。その中で、ロックを攻撃する説教者が生徒たちの目の前で燃やした数多くのレコードの中で、Pat Benatar“Hell Is for Children”のシングル盤を取り上げて、「これは若者の間で公然と悪魔崇拝を広めるものだ」と語ったそうです。ところが実際にはその歌は、児童虐待を断罪するものでした。説教者はその曲を聴くことも、歌詞を読むことすらせずに、曲名だけからそれを悪魔崇拝の歌だと誤解していたのです。

当時メタルは保守からもリベラルからも攻撃されましたが、特に保守派にとってメタルの最大の「害悪」は、サタニズムであったことは想像に難くありません。キリスト教の立場からは、そのような憂慮には根拠がありますし、実際ヘヴィーメタルの中には悪魔に関する歌詞やイメージは数多くあります(それらをどう解釈するかについては次回書きます)。

けれどもここで指摘したい問題は、教会がメタルの「悪魔主義」批判として持ち出す根拠があまりにお粗末なものが多いということでした。上に挙げた”Hell Is for Children”はその一例です(Benatarはメタルというよりはハードロックに属するアーティストですが)。このように歌全体のメッセージに注意を払うことなく、その一部(たとえばタイトルやサビの一節、あるいはミュージック・ビデオのイメージ)だけを取り出して都合のいいように解釈することがよくありました。

他によくなされた議論として、ロックやメタルのレコードに隠されているという「悪魔的なメッセージ」に関するものがあります。最も有名な例は、Led Zeppelinの代表曲“Stairway to Heaven” の一部を逆回転すると、サタンを讃えるメッセージが聞こえるというものです。保守的キリスト教会はこれに基づいてこのレコードを攻撃しました。これは現在でもよくなされる主張ですが、ここにはいくつもの問題点があります:

・ほとんどの人は、実際の逆回転した録音を聴いても、主張されるようなメッセージは聞き取れない。そう聞こえるのは、あらかじめ逆回転の「歌詞」を知らされて、そのつもりで聞いた場合だけである。つまり人間の脳は、自分が欲するパターンを「認識する」ようにできているのである。
・ミュージシャンが逆回転したときに特定のメッセージが聞こえるような曲を意図的に作曲/演奏するのはほとんど不可能である。(ただし、意図的にレコードの一部に逆方向のメッセージを録音することはよくありますが、それはこれとはまったく別の話です)
・たとえ実際にサブリミナルなメッセージが存在したとしても、それが聴き手の行動に大きな影響を与えるという科学的根拠はないと思われる(たとえばこの研究)。

したがって、私は個人的にこのような「隠された逆回転メッセージ」の議論は信じていません。特定のレコードのメッセージが悪魔主義的かどうかは、あくまでも作り手が意図し、聴き手が理解できる歌詞の内容によって判断すべきだと思います。この手の主張が根強い理由は、陰謀論を好む大衆心理によるものかもしれません。

1980年代アメリカの反ロック/メタル運動では、このような事例が数多く報告されています(もちろん、すべてではないでしょうが)。しかし、これは単なる過去の歴史的できごとでもありませんし、音楽に関する問題ということだけでもないように思います。アメリカだけでなく日本も含め、現代の保守的キリスト教会でも、聖書解釈や神学的議論、教会での説教などにおいて、次のようなことがしばしば行われているのではないでしょうか?

・象徴的な表現をあえて字義通りに解釈する(ジャンルの混同)。
・一部だけを前後の文脈から切り離して解釈する(コンテクストの無視)。
・最初に結論ありきの無理なこじつけ(eisegesis)。
・疑似科学的な理論に訴える。
・論理より感情に訴えかける議論(陰謀論によって恐怖をあおるなど)。

・権威者のことばを吟味することなく鵜呑みにする。

私は1980年代アメリカでロックやメタルに反対したキリスト教会の指導者たちの動機には良いものもあったと思いますが、その目的を実現するために彼らが取った手段は決して誠実なものとは言えませんでした。そしてその結果、良識ある人々の間で、また特にまじめで理性的な若者たちの間で保守的キリスト教会は大きく評判を落としたように思います。

そして、アメリカの福音派から大きな影響を受け続けてきた日本の福音派において、アメリカの有名な指導者が言ったこと(「このバンド/歌は悪魔的だ」「このレコードには悪魔的なメッセージが隠されている」など)を自分でよく確認もせずに鵜呑みにしてきた部分があったのではないか、反省してみる必要があるのかもしれません(冒頭の使徒行伝の引用を参照)。

聖書の中で、興味深いことに悪魔が聖書を引用したできごとが記されています:

それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。
イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。
(マタイ福音書4章5-7節)

悪魔も神のことばを引用します。けれども、特定の意図に基づいてその意味を歪曲しようとしました。この箇所はテクストに忠実に聖書を読むことの重要性について引用されることが多いですが、「誠実な解釈」の大切さは、聖書を読むときだけでなく、社会や文化を「読む」ときにも言えることだと思います。私たちが相手の主張を正しく解釈して記述することなしに、真実な批判も対話もありえません。論敵の主張を意図的に歪めて解釈しようとする態度は、「悪魔的な解釈学」と言えるのではないでしょうか。

(続く)