人は外の顔かたちを見、主は心を見る。
(1サムエル記16章17節)
(その1)
クリスチャンメタルについて書いていますが、このシリーズは単なる音楽の趣味について語っているのではありません。また特定の音楽的嗜好を読者に押しつけようとするものでもありません。むしろ、ふだんヘヴィーメタルを聴かない人々、あるいはメタルというジャンルについて特定の固定観念を持っておられる方々にこそ読んでいただきたいと思っています。それは以下のような理由によります。
私たちはいろいろな事物の好みを「感覚」で判断することが多いです。分かりやすい例が食べ物です。甘いものに目がない人もいれば、辛いものが大好物という人もいます。そういった好みは各人の味覚に基づいており、それ自体悪いことは何もありません。
けれども、そういった感覚的好みが文化的な価値判断につながっていくと問題が生じます。たとえば、納豆を食べられない外国人に「こんなものは人間の食べるものじゃない」と言われれば、日本人の多くは気分を害するでしょう。けれどもその同じ日本人が昆虫を食べる文化を持つ人々に対して同様のことを言うかもしれません。
あるものに対する私たちの感覚的反応は文化的に形づくられたものであって、必ずしも普遍的なものではありませんし、変化することがありえます。英語で”acquired taste” という表現がありますが、最初は生理的に受け付けないものでも、時間をかけて慣れるにつれて好きになることはよくあります。
繰り返しますが、あるものに対して好き嫌いを感ずること自体は問題ではありません。けれども、私たちは自分の感覚だけに基づいて他者の文化の価値を論ずるべきではないと思うのです。それが極端な形で現れると、肌の色によって人を差別するような重大な問題につながりかねません。
なぜこのことを書くかというと、これはキリスト教会の中で繰り返し起こってきた問題だからです。礼拝で用いる音楽のスタイルは昔から多くの論争を引き起こして来ました。 また多くのクリスチャンが、様々な文化表現(音楽、美術、建築など)をそれが自分にとって感覚的に合わないという理由だけで「これは霊的に危ない」とか「異教的だ」と評価するのも耳にしてきました。私は「霊的な感覚」というものも否定しませんが、自分にとって感覚的に「気持ち悪い」というだけの理由でそれを「悪魔的」と断定するのはあまりにも短絡的にすぎると思います。
音楽に関して言えば、今日の多くのクリスチャンが慣れ親しんでいる「キリスト教音楽」は、近代以降の西洋古典音楽にルーツを持つものです。西洋音楽の伝統がすばらしいキリスト教音楽を生み出してきたことは疑いありません。しかし、そのようなスタイルの音楽「だけ」が正統的なキリスト教音楽であると考えるべき理由は何もありません。中世の教会音楽や東方教会の音楽は、今日のいわゆる「キリスト教音楽」とはかなり異質な響きを持っています。
マショー作曲『ノートルダム・ミサ曲』より「グロリア」
東方正教会の聖歌
これらは歴史的にはまだ比較的新しいものです。初期キリスト教会の賛美歌、あるいはさらに遡って古代イスラエルの賛美歌などは、今日の私たちの耳には間違いなく「異教的」に聞こえただろうことは想像に難くありません。逆に、聖書時代の人々が今日のキリスト教会の「伝統的賛美」を耳にしたら、何と思うでしょうか? おそらく新奇で「異教的」に聞こえることでしょう。
かつてギターやドラムは「悪魔の楽器」と呼ばれ、教会から排斥された時代がありました。けれども今日では多くの教会で当たり前のように「コンテンポラリー・スタイル」で賛美歌が歌われています。全ての教会がそうすべきだと言うのではありません。しかし伝統的なスタイルに加えて新しい音楽の形式が教会で受け入れられるようになったのは喜ばしいことだと思います。
そもそもキリスト教会では昔から、その時代に一般社会で流行していた音楽を取り入れて賛美歌を作ることが行われてきました。たとえばルネサンス期には「ロム・アルメ(武装した人)」という世俗流行歌のメロディを取り入れたミサ曲が盛んに作曲されました。
デュファイ作曲『ミサ・ロム・アルメ』より「キリエ」
これはある意味で当時の「コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージック(CCM)」と言えるかもしれません。
今日ヘヴィーメタル形式の音楽で礼拝を行っている教会はまだ少数ですし、将来的に増えてくるかどうかは分かりません。しかし海外ではそういう教会はすでに存在します(たとえばこちらやこちらを参照)。礼拝スタイルだけでその教会がどのようなところか判断することはできませんが、少なくとも、メタル形式の音楽を礼拝に取り入れることそれ自体に悪いところは何もないと思います。
もちろん、誰も聴きたくない音楽を無理に聴く義務はありません。けれどもここで一歩進んで、自分の好みの枠を超えて、多様なスタイルに耳を開いてみることには、大きな意味があると思います。
私は世界のいろいろな変わった食べ物を味わうのが好きですし、音楽もグレゴリオ聖歌からヘヴィーメタルまでいろいろ聴きます。もともと変化や多様性を好む性格であることもありますが、最初は違和感のあるものでも、とにかく体験してみることで自分の中にある偏見や壁を壊し、神の造られた人々の多様性を評価できるようになりたいという思いから、積極的にいろいろなものにチャレンジするようにしています。ある意味でこれは自分の狭量な心を広げて、さまざまな人々を受け入れることができるようになるための「霊的修練」の一つとさえ言えるのではないかと思っています。
これは音楽だけの話ではありません。私たちは神が世界でしておられるみわざを、本当に狭い視野でしか見て(聴いて)いないことが多いのかもしれません。そんな多様性に思い切って心を開くとき、初めて聞こえてくる神の声もあるのではないかと思うのです。
メタル風にアレンジされた賛美歌「Wonderful God」
(続く)