進化(深化)する信仰(1)

先進的な仕事をする学者や思想家はたくさんいます。しかし、すぐれた思想家が必ずしもすぐれた書き手であるとは限りません。逆に、たとえその道の専門家でなかったとしても、現代の重要な思想を自らの人生経験のうちに内面化して、平易な文章をもって表現することに長けた人々もいます。キリスト教界で言えば、最先端の神学をより身近で親しみやすい形で一般のクリスチャンに紹介する、そんな人々の役割はたいへん重要なものだと考えています。なぜなら、神学は象牙の塔に閉じこもるのではなく、教会に仕えるものでなければならないと思うからです。

私にとってそんな魅力的なクリスチャン著述家の一人が、レイチェル・ヘルド・エヴァンズです。

1981年生まれのエヴァンズは、私よりも一世代下の若い作家ですが、2010年に出た処女作Evolving in Monkey Townを読んですっかり魅了され、以来彼女の本が出版されると欠かさず読んできました。

「モンキー・タウンで進化する」という、福音派のキリスト教会にとってはたいへん挑発的なタイトルを持つこの本は、アメリカ南部のバイブルベルトで超保守的な福音派の若いクリスチャンとして育った彼女が、それまで絶対的な真理として何の疑問もなく受け入れていた信仰の危機を体験する中で、自らの信仰を主体的に問い直し、深めるようになっていく過程を描いた自伝的著作です。

 

monkeytown

(タイトルのMonkey Townとは、スコープス進化論裁判の舞台となったテネシー州デイトンのことで、エヴァンズはその町で育ちました。この本は2014年にFaith Unraveledという散文的なタイトルで再版されましたが、私は旧版のタイトルと表紙の方が気に入っています。)

この本で一躍注目を浴びた彼女は、2012年には聖書の中にある女性に関する命令を可能な限り文字通り実行しようとした体験を綴ったA Year of Biblical Womanhood(「聖書的女らしさ」の一年)を発表、その後一度は幻滅した教会の真の魅力に目覚めていく過程を描いたSearching for Sunday(日曜日を探し求めて)を2015年に出版します(現在彼女は聖公会に属しています)。エヴァンズは神学者や聖職者ではありませんが、一人の信仰者としての信仰の葛藤と喜びを真摯にかつユーモアとウィットを交えて生き生きと伝えるそのスタイルは、専門の神学書にはない親しみやすさを備えており、共感を呼びます。

エヴァンズがこれらの著作を通して一貫して証ししているのは、「真のキリスト教信仰とは何か」を常に問い続ける姿勢です。彼女は自らの信仰を「完成した真理の体系」への原理主義的献身としてではなく、神への信頼に支えられながら、つねに開かれた姿勢で追求していくものとしてとらえています。このような姿勢は、「モンキー・タウン」の副題に要約されています――

“How a Girl Who Knew All the Answers Learned to Ask Questions” (すべての答を知っていた少女が、いかにして質問することを学んだか)

疑問を持つということは、自分の知識や理解の不完全さを認めることであり、新しい知識を学んで変わっていく可能性を受け入れることです。それは信仰を、異なる考えを持った「敵」から守るべき城のように見なすのではなく、遙かな目的地をさして歩き続ける旅としてとらえることです。旅路においては、道の状態も目に見える景色もつねに変化していきますし、さらに重要なことには、歩き続ける私たちも変わっていきます。古今の偉大な物語においては、旅のモチーフがしばしば登場しますが、冒険の旅を終えた主人公は必ず大きな変化を体験します。主人公は危険を伴う旅に出ることによって成長します――エヴァンズの言葉を使えば、「進化する」のです。

その変化は必ずしもすべてが順調に働く方向に向かうものではないかもしれません。むしろ変化したことによって、前より困難な状況に陥ることになるかもしれません。そもそも、疑問を持つこと、変化することを受け入れるという第一歩を踏み出すことには大きな不安が伴います。自分がこれまで安住してきた「確実性」の外に広がる未知の世界に足を踏み入れることになるからです。けれども、そのリスクを冒すことではじめて、成長が可能になるのです。

 

このことは、ラビリンスを歩くことにたとえられるかもしれません。ラビリンスの目的地である中心にたどり着くためには、長い曲がりくねった道を進んでいく必要があります。歩いているうちに、何度も方向転換を余儀なくされます。時には中心に近づいていくかと思うと離れてしまいます。けれども確かなことは、その道を前に進み続けていく限り、いつかは必ず中心にたどり着けるということです。逆に、途中で立ち止まって歩くのをやめてしまえば、いつまでたっても目的地に着くことはできません。これはまさに人生あるいは信仰の旅路のメタファーとして考えることができるでしょう。大切なのは常に前進し続けることです。

すでに自分が正解を知っていると確信している人は、それ以上学ぶことがありません。けれども、疑問を持つ人、問いを発することを恐れない人は、変化と成長の可能性に対してつねにオープンです。そのような人だけが、自らの信仰を深めていくことができるのだと思います。

わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。(1コリント13:12)

わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。(ピリピ3:12)

信仰と疑いについては、こちらこちらの過去記事もお読みください。

(続く)