(前回の記事)
今年に入って、レイチェル・ヘルド・エヴァンズの新刊Inspired(『霊感された書』)が発売されることを知り、早速予約注文して読みました(正確に言うと、多くの部分はキンドル版の音声読み上げ機能を使って通勤途中に聴いたのですが)。

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今回彼女が取り上げた主題は、ずばり聖書です。本書はこんな書き出しで始まります。
昔むかし、あるところに、魔法の本を持った少女がいました。――
本書のメッセージはこれまでのエヴァンズの著作と同じパターンに従っています。彼女が生まれ育った保守的福音派の聖書観は、聖書をそのすべての言葉が直接的に神の真理の声を反映している「魔法の本」と見なすようなものでした。しかし、成長した彼女がその知的視野を広げていくにつれて、いろいろな疑問を持つようになりました。聖書の創造記事の文字通りの解釈は科学と矛盾するのではないか? 旧約聖書の聖戦の記事で、イスラエルの敵を皆殺しにするように命じるような神の描写をどう受けとめたらよいのか? 明らかに女性差別と思えるような箇所についてはどうか?――。
彼女がそのような疑問を持つようになるにつれ、かつてあれほど堅固に思えたその聖書観は揺るがされていきました。「魔法の本」はその輝きを失ってしまったかに見えました。そして彼女の周囲の人々は、難しい質問を連発する彼女を非難し、疑うことをやめて「ただ信じる」ようにと説き伏せようとしました。彼女の信仰は危機に瀕したのです。
けれども、彼女は問い続けることをやめませんでした。
その結果どうなったでしょうか?――彼女は聖書を捨てませんでした。あるいはむしろ、聖書が彼女を捨てなかったと言ってもいいかもしれません。彼女の表現を使えば、魔法の本の「古い呪文は解かれていなかった」のです。
エヴァンズは進化し、生き延びたのです。彼女の聖書観は、さらにニュアンスに富んだ、深みのあるものに変えられました。
たとえば本書にこんな箇所があります:
人は聖書をねじ曲げて、自分が望むどんなことでも語らせることができるのは確かである。そうしてついには聖書が壊れるまでねじ曲げることさえできる。聖書を聖なる書物と見なす人々にとっては、解釈とは取捨選択するかどうかの問題ではなく、どのように取捨選択するか、と言う問題である。私たちはみな選択的に読んでいる。私たちはみな聖書をどのように解釈して自分の人生に適用するか努力している。私たちはみな、何かを見つけようとしてテクストに向かい、それを見いだす傾向がある。だから私たちが自らに問いかけなければならないのはこのことである:私たちはキリストを模範とした愛の先入観をもって読んでいるのか、それともさばきと力、私利私欲の先入観をもって読んでいるのか? 私たちは他者を隷属させようとしているのか、解放しようとしているのか、重荷を負わせようとしているのか、それとも自由にしようとしているのか?
もし奴隷制を支持する聖書箇所を見つけようとするなら、それを見いだすだろう。奴隷制を廃止するための箇所を見つけようとするなら、それを見いだすだろう。女性を抑圧するための箇所を見つけようとするなら、それを見いだすだろう。女性を尊重し、称賛するための箇所を見つけようとするなら、それを見いだすだろう。戦争を行う根拠を探しているなら、そのような箇所はたくさんある。平和を促進する根拠を探しているなら、そのような箇所はもっとたくさんある。時代遅れで見当違いな古代文書を探しているなら、まさにそのようなものを見いだすだろう。真理を探し求めているなら、まさにそれを見いだすだろう。
だからこそ、時としてテクストを読む際に問うべきもっとも有益な質問は「それが何を言っているのか?」ではなく、「私は何を探し求めているのか?」なのである。イエスが「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイ7:7)と言われたとき、このことを知っておられたのではないかと思う。
この世界に暴力をもたらしたければ、武器はいつでも見つけることができる。癒しをもたらしたければ、膏薬はいつでも見つけることができる。聖書を通して私たちは、これまで語られた最も強力な物語のいくつかを委ねられている。私たちがその力をどのように用いるか――善のためか悪のためか、抑圧するためか解放するためか――それがすべてを変えるのだ。(強調は原文)
これは真理を否定した何でもありの相対主義なのでしょうか? 私はそうは思いません。むしろここにあるのは、自らの解釈の避けられない主観性を認め、自分がどのような先入観をもって聖書を読もうとしているのか(あるいは読むべきか)を常に問うていこうとする謙虚な信仰者の姿です。
以前アメリカの神学校で学んでいたとき、そこの新約学の教授(残念ながら彼はその数年後に若くして亡くなってしまいましたが)がこう語られたのを今でも覚えています:
聖書のテクストは霊感されている。けれどもそのテクストについての私の解釈は霊感されているわけではない。
この区別を忘れて、ある特定の解釈を霊感された聖書テクストと同一視してしまうと、多くの問題が生じてきます。私たちは自分の解釈にはつねに何らかの先入観が働いていることを自覚しながら聖書を読む必要があります。
けれども厄介なことに、私たちには自分の先入観が何であるか、それがどのように働いているかを知ることは非常に困難です。私たちは誰でも、自分の読み方こそがテクストのもっとも「客観的」で「ストレート」な読みであると感じるものだからです。それでは、自分の先入観をどうしたら自覚することができるのでしょうか?
私たちの聖書解釈が十字架のキリストに表されている神の愛にもとるように思える場合、私たちは誤った先入観に基づいて聖書を読んでいる。したがって、私たちの解釈をキリストの愛を中心とした読み方に修正する必要がある。そのような「キリスト中心」「十字架中心」「神の愛中心」の読み方は、私たちには偏った「先入観」に基づいた読み方に思える。けれども、実はそれこそが聖書の正しい読み方なのだ――上記の箇所でエヴァンズが言おうとしていることは、こういうことなのだと思います。
私は、基本的に彼女の理解は正しいと思います。聖書が理解できるかと訊ねられたエチオピアの宦官は「だれかが、手びきをしてくれなければ、どうしてわかりましょう」と答えました(使徒8:31)。キリスト者にとって聖書を読む最良の手びきを与えてくれるのは、十字架につけられたイエス・キリストにほかならないのです(1コリント2:2参照)。
前回の記事でも書きましたが、エヴァンズは専門の聖書学者でも神学者でもありません。しかし、本書ではN・T・ライト、ウォルター・ブルッゲマン、ジョン・ウォルトン、ピーター・エンズなど、このブログでも取り上げてきた学者たちの著作から得た洞察が随所にちりばめられています。そしてエヴァンズはそれらを無味乾燥で平板なエッセイで綴るのではなく、物語や劇や詩などの多彩な文学形式を織り交ぜながら提示しており、読む者を飽きさせません。
もちろん、エヴァンズの具体的な主張のすべてに同意する必要はありません。特に福音派の多くのクリスチャンにとっては、彼女の見解の中には受け入れられないものがいろいろあると思います。いずれにしても、前回から語っているように、彼女の信仰は(したがって聖書観も)つねに進化しています。したがって、彼女の現時点での思想を完成したものとして受け取ることは、彼女の意にも反することでしょう。
大切なことは、他から与えられた「模範解答」に満足することなく、つねに自分の信仰を見つめ直し、聖書を読み直し、さまざまな疑問と格闘しながら信仰を深めていく、一信仰者としての彼女の姿勢やプロセスから学ぶことだと思います。学者が書いた専門書は、その時点での著者の理解の「到達点」が完成形で書かれており、そこに至るまでの紆余曲折や信仰の葛藤などが描かれていることは稀ですが、本書にはまさにそのような信仰の道行きが記されています。そしてこの点にこそ、専門家ではないエヴァンズならでは最大の強みと魅力があると思えるのです。