神とともに創造する

前回の記事からずいぶん間が空いてしまいましたが、聖書における創造概念についてもう少し考察を進めてみたいと思います。

ジョン・ウォルトン師の中心的主張は、聖書が語る創造の概念は物質的なものというよりは、機能に中心的な重点が置かれていると言うことです。そのような機能的創造概念が旧新約聖書全体に渡って見られることは、前回も述べたとおりです。

今回考えてみたいのは、そのような創造の主体は誰か?ということです。もちろん、第一義的にはそれは唯一の神であることは言うまでもありません。しかし、同時に、神はその創造のわざ――つまり、世界に機能と秩序をもたらすこと――に参加するように被造物(特に人間)を招いておられるのではないかと思うのです。

ビジネスの世界には「共創(co-creation)」という概念がありますが、これはたとえば企業と消費者といった異なるグループが協力して、新たな価値を創り出していくプロセスを意味します。このモデルでは消費者は企業が「創造」した価値(モノやサービス)の単なる受け手(文字通り「消費する者」)ではなく、企業とともに新たな価値の創出に積極的に関わる主体となるのです。

同じようなことが、聖書の創造についても言えると思います。このような神学的な概念としてのco-creationをビジネスにおける共創と区別するために、とりあえず「共創造」と訳しておきます。共創造の基本的な考え方は、世界に機能と秩序を与える主要な創造者である神がその創造の働きの一部を人に担わせてくださるということです。

ダイアナ・バトラー・バスはその著書Groundedの中で、このような共創造について、「活動的でつねに共にいてくださる神と一緒に世界を創造することは、人間にとって最も重要な召命である」と述べています。それは自然環境をケアすることや、隣人愛によって結ばれる共同体を創り上げることを含んでいます。バスはさらに次のように書いています:

自然と造られた環境を織り交ぜて意味のネットワークを創出するとき、私たちは聖なる住まい――神と、そして私たち自身の住まい――を絶えず創造し続けているのである。(中略)神は人類に園を与えて「触るな」と言われたのではなく、私たちにその園を見守り世話するように、その土を「耕し、守る」ように求められた。神は新しいエルサレムを天から引き下ろして「ショーは終わりだ」と言われたのではなく、愛する民を痛みや苦しみや抑圧から開放された生活に招き、限りない人間の未来に向けて城門を開かれたのである。

ここには、ウォルトン師の創造概念と通じるものを見ることができると思います。もし無から物質を生み出す行為として「創造」を定義するなら、人間を「創造者」とみなすことは当然できません。しかし、もし聖書的な創造概念が世界の混沌に機能と秩序を与えることであるなら、そのような働きに参加することは人間に可能なだけでなく、神によって期待されてすらいる、と言うことができるでしょう。

バスがいみじくも述べているように、聖書のナラティヴの最初と最後に登場する「創造」の物語では、エデンの園(あるいは畑)という農耕的イメージと、新しいエルサレムという都市的イメージが語られていますが、このどちらも人間の「創造的」活動と深く結びついています。

同様にパウロも1コリント3章9節で「わたしたちは神の同労者である。あなたがたは神の畑であり、神の建物である。 」と語っています。「神の同労者」と訳されているギリシア語は「神とともに働く者たち」とも、「神のために共に働く者たち」とも取ることができますが、どちらの立場を取るにせよ、ここでパウロが言っていることは、教会という共同体を立てあげる神の創造的な働きにクリスチャンたちも参加させていただいている、ということです。そのために、パウロがここでも農耕と建築というイメージを用いているのは興味深いと思います。

人間が神から招かれている共創造のわざは、このような人間社会や共同体の創造だけにとどまりません。自然環境を保全しケアすることも、この地球に機能と秩序を与えるという意味で重要な創造行為であると思われます。さらに、文学や芸術などの創作行為も、この世界に美を生み出す創造行為ですが、そのような美が神の美を反映するものとして生み出されていくならば、それは神との共創造行為ということができるでしょう。J・R・R・トールキンは、第一創造者である神に造られた人間が、自分もまた物語等を通して一つの世界(『指輪物語』の中つ国など)を構築していく働きを「準創造sub-creation」と呼びました:

人は準創造者、屈折した光、
唯一の神の純白の光を多様な色に分け、
無数の組み合わせによって、
心から心へと伝わる生きたかたちを創る者。
(杉山洋子訳「神話を創る」より)

このような準創造も、共創造の一種と考えることができると思います。

人間に委ねられた創造的な行為において重要な要素の一つは、聖書で「知恵」と呼ばれるものです。ヘブライ的な「知恵」の概念は思弁的思索というよりは創造的スキルと呼んでも良いような概念を含んでいます:

主は知恵をもって地の基をすえ、悟りをもって天を定められた。(箴言3:19)

そして神から与えられる知恵は人間による低次の「創造」のわざを可能にします。

主はモーセに言われた、「見よ、わたしはユダの部族に属するホルの子なるウリの子ベザレルを名ざして召し、これに神の霊を満たして、知恵と悟りと知識と諸種の工作に長ぜしめ、工夫を凝らして金、銀、青銅の細工をさせ、また宝石を切りはめ、木を彫刻するなど、諸種の工作をさせるであろう。見よ、わたしはまたダンの部族に属するアヒサマクの子アホリアブを彼と共ならせ、そしてすべて賢い者の心に知恵を授け、わたしがあなたに命じたものを、ことごとく彼らに造らせるであろう。」(出エジプト31:1-6)

このような創造力の源としての「知恵」の概念は、新約聖書でも見られます。

神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した(あるいは「賢い」)建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。 (1コリント3:10)

上の出エジプト記の引用からも明らかなように、神の知恵と神の霊(聖霊)は密接な関係がありますが、これは聖書の中で聖霊が創造に深く関わっていることからも理解できます(創世記1:2参照)。そして新約聖書において終わりの時代の神の民である教会が「創造」されたのが、聖霊降臨によってであったことは言うまでもありません(使徒2章)。神の霊は混沌に秩序を与える「創造の霊」です。しかし同時に、神の霊は人間を通して働かれることを忘れてはなりません。人間が神の霊の働きに心を開き、その導きに従うとき、私たちは神がこの世界に秩序をもたらすの創造のみわざに参加させていただくことができるのです。

来たり給え、創造主なる聖霊よ(Veni Creator Spiritus)

繰り返しますが、これは私たち人間が神と同格の意味での創造者であると言っているのではありません。その間には厳然とした区別があります(たとえばウォルトン師が指摘しているように、神以外の存在が「創造」を表すヘブル語バーラーの主語となることはありません)。その意味で、第一創造者である神による創造と、神によって造られた人間が行う「準創造」を区別するトールキンの概念は助けになります。けれども同時に、人間は神と独立にではなく、神と「ともに」創造することを求められている、という側面も見失ってはならないと思います。

また、このような神との共創造は、クリスチャンだけに限られるものではないと思います。キリスト教徒でない人々であったとしても、自然環境をケアしたり、共同体を形成したり、芸術作品を生み出すことはできます。その意味で、神の創造のわざに参加する可能性は、意識しているか否かを問わず、すべての人に開かれています。

けれども、キリスト者のさまざまな創造的行為は、彼らが世界にもたらそうとする機能や秩序が、復活して世界の主となられたイエス・キリストを中心としたものであると意識している点で、ユニークなものと言えるでしょう。それはクリスチャンにとって、やがてキリストにあって万物が一つに集められる(エペソ1:10)日を夢見て、神がキリストの復活を通して始められた新創造のわざに参加する、喜びに満ちた行為なのです。