創造の神――ジョン・ウォルトン博士来日講演を受けて

前回の更新から間が空いてしまいましたが、ようやく少し時間ができたので、今回のジョン・ウォルトン師の一連の講演その1 その2 その3)を拝聴して考えたことを簡単に書き記しておきたいと思います。

ウォルトン師の講演ではいろいろと興味深い主題が取り上げられていましたが、その中には自分の中でまだ十分に整理し切れていないものや、納得しきれない主張もありました。けれども、少なくとも次の3つの点については、全面的に同意できると思いました。

1.旧約聖書はそれが書かれた古代近東の文化に照らして理解すべきであり、聖書の「字義的」な解釈とは、その文化の中で聖書記者の意図したメッセージを読み取ることである。

2.聖書の記述は科学的知識を教えることを目的としているのではない。したがって現代の科学的知識を聖書テクストに読み込もうとする調和主義(concordism)は避けなければならない。

3.創世記1章の天地創造の記事は物質的な宇宙の起源を説明しているのではなく、すでに存在していた混沌状態に神が秩序と機能を付与し、ご自身が住まわれる聖なる空間とされたこと(宇宙神殿の落成式)について述べている。

この記事では特に最後の点について、さらに考察したいと思います。

ウォルトン師が提唱する「機能的創造論」は、創世記1章の創造記事を理解するのに大変有益であると思います。このような視点を導入することによって、たとえば神の創造行為が開始される前にすでに何らかの物質があったかのように見えること(たとえば2節に出てくる「水」)が容易に理解できますし、物質の起源を説明する科学理論との齟齬を問題にする必要がなくなります。しかもウォルトン師はこのような視点は決してアドホックに導入されたものではなく、当時の文化の流れの中で自然なものであることを、他の古代近東の資料から説得力を持って裏付けておられます。

けれども、創造を機能や秩序という視点から理解することは、創世記の解釈だけに留まらない意義を持っており、聖書の他の部分の解釈に新しい光を当てるものではないかと思います。以下にいくつかの事例を挙げて見たいと思います。

出エジプトと神の民の「創造」

出エジプトはイスラエルの歴史の中で決定的な重要性を持つ救済のできごとですが、これは単なる民族解放ではなく、神の民イスラエルが創造されたできごとであるということができます。神はエジプトの圧制のもとに苦しむイスラエルをモーセを通して救い出しましたが、それは神ご自身が彼らとともに住み、彼らと関係を結ぶためでした:

わたしは幕屋をあなたがたのうちに建て、心にあなたがたを忌みきらわないであろう。わたしはあなたがたのうちに歩み、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となるであろう。わたしはあなたがたの神、主であって、あなたがたをエジプトの国から導き出して、奴隷の身分から解き放った者である。わたしはあなたがたのくびきの横木を砕いて、まっすぐに立って歩けるようにしたのである。(レビ記26:11-13)

神はイスラエルを混沌の象徴である海や荒野を通して導き、シナイ山で律法を授与することによって、神の民に秩序を与え、幕屋を通して彼らと共に住まい、彼らを豊かなカナンの地へと導かれました。ここには天地創造のプロセスとの並行関係を見ることができます。出エジプトを通して、ヤハウェに信頼し主を礼拝する神の民としてのイスラエルが創造されたのです。

捕囚からの解放と神の民の「再創造」

旧約聖書において、バビロン捕囚からの解放は「新たな出エジプト」ととらえられていますが、上のような出エジプトの理解に照らして考えると、これは「神の民イスラエルの再創造」ということができるかもしれません。神はバビロンから民を連れ戻し、約束の地において神殿を再建し、神の民に新たな秩序と機能を付与されました。

実際、イザヤ書においては、バビロンから民を救い出す主が創造の神であることが繰り返し強調されています。そして主の救いのわざが、天地創造を思わせるようなイメージで語られていることに気がつきます。たとえば次のような箇所を考えて見ましょう。

起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。(イザヤ60:1-2)

主はシオンを慰め、またそのすべて荒れた所を慰めて、その荒野をエデンのように、そのさばくを主の園のようにされる。こうして、その中に喜びと楽しみとがあり、感謝と歌の声とがある。(イザヤ51:3)

ここでは、民の救いが暗闇に光が照るイメージで語られ、再建されるエルサレムはエデンの園にたとえられています。

そして、イザヤ書は新しい天と地の創造について語りますが、これは歴史上の捕囚からの帰還を超えた、終末的なビジョンを提示しているようです:

見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。しかし、あなたがたはわたしの創造するものにより、とこしえに楽しみ、喜びを得よ。見よ、わたしはエルサレムを造って喜びとし、その民を楽しみとする。(イザヤ65:17-18)

この後に続く部分(19-25節)の文脈に照らして考えると、ここで語られているのは、現在の天地から断絶した全く新しい天地の出現ではなく、神がもたらす新しい世界秩序ということができるかも知れません。

イエス・キリストにある「新しい創造」

新約聖書が書かれた背景となる文化の流れを、旧約聖書の背景である古代近東の文化と単純に同一視することはできないかもしれません。しかし、機能的創造の考え方は、新約聖書においても大きな意味を持っているように思います。なぜなら、新約聖書で語られる「新しい創造」の概念は、物質的創造という視点からは理解しにくいことが多いからです。

たとえば、パウロの次の言葉を考えて見ましょう:

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(2コリント5:17)

前半部分の原文を直訳すると、「だれでもキリストにあるならば、新しい創造(がある)。」となります。これは物質的創造という観点からはまったく意味をなしません。しかし、機能的創造論の視点から見れば、人がキリストを中心とする新しい秩序に入れられ、新しい機能を持つようになるとき、そこには「新しい創造」があると考えることができます。同様にして、「割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られること(新しい創造)こそ、重要なのである。」(ガラテヤ6:15)という箇所も考えることができます。

また、ヨハネ福音書の冒頭では、キリストの受肉が創世記1章の創造記事と重ねて描かれています:

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。(ヨハネ1:1-5)

「初めに(エン・アルケー)」という書き出しの言葉はヨハネ福音書と七十人訳創世記でまったく同じです。そしてヨハネは創造の「ことば」であり、「光」であり、「いのち」であるキリストが世に来られ、住まわれるできごとについて語ります。

ヨハネはなぜキリストの受肉を天地創造のイメージを用いて表現したのでしょうか? これも物質的創造という観点からは理解困難ですが、神がキリストを遣わすことによって、世界に新しい秩序を与えたと考えるなら、これも「新しい創造」あるいは世界の「再創造」ということができるでしょう。

終末における「新しい創造」

わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。(黙示録21:1)

終末における新しい天と地の出現は、現在の物質宇宙の崩壊と、まったく新しい物質的宇宙の出現としてとらえられることが多いです。しかし、これまで見て来た機能的創造理解に照らして考えるなら、必ずしもそう考える必要はないと思います。終末に起こることは、古い世界秩序に変わってまったく新しい世界秩序を神がもたらされることである、と考えるなら、現在の天地と新しい天地との間に、何らかの物質的連続性があっても不都合はありません。

むしろ、そう考えた方が、たとえばローマ書でパウロが述べている次の箇所は良く理解できると思います:

被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。(ローマ8:19-21)

もし現在の被造物が終末において消え去ってしまうなら、この箇所は意味をなしません。そうではなく、パウロはここで被造物は終末において解放されるというのです。ここでは、終末における連続性が前提されているように思います。

このように考えてくると、終末に到来する「新しい天と地」は、現在の世界とはまったく別の物質的創造というよりは、この世界に神がもたらされる新しい秩序という方が適当かも知れません。そこでは神の聖なる臨在が全世界を満たし、人間を含むすべての被造物がその愛の秩序の中に入れられるのです。

そして、このような新創造の理解は、現在の環境問題あるいはクリエーションケアの問題に教会としてどう関わっていくかということについて、大きな意味を持っています。現在の地球環境がやがては消え去るものと考えるか、それとも終末において保持され造りかえられていくものととらえるかでは、大きな違いが生じてくるように思います。

まとめ:聖書の神は創造の神

以上、ウォルトン師の機能的創造論を手がかりにして、聖書全体をざっと概観してみました。厳密な学問的論証ではなく、荒削りなスケッチに過ぎませんが、さらに追求していく価値のある有用な視点ではないかと個人的には考えています。

私たちは「創造」という概念を機能と秩序からとらえ、物質的枠組みから解放されることによって、創造をこれまでよりはるかに幅広い概念としてとらえることができるようになります。その結果、聖書の至るところに神の創造のわざを見ていくことができるのではないかと思います。

聖書の神は原初にこの世界を創造されただけではありません。神はその後も繰り返し再創造を繰り返し、この世界に新たな秩序をもたらし続けておられます。そして私たちは、現在の世界が世界の最終形ではなく、終末に訪れる新しい創造を待ち望む希望が与えられています。聖書の神は、まさに創造の神と言えるでしょう。

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ジョン・ウォルトン師の来日中には、個人的にお話をする機会も与えられました。この記事に書いたアイデアのいくつかは、その折にウォルトン師ご本人にもお分かちさせていただきましたが、たいへん肯定的なレスポンスをいただく事ができました。お忙しい中時間を取ってくださったウォルトン師に感謝します。

180515JohnWalton