昨日の投稿に続き、ホィートン大学の旧約学教授であるジョン・ウォルトン博士の来日講演会の内容を紹介します。5月14日(月)は福音主義神学会東部部会の主催で行われた、春期公開研究会での講演「創世記1章は何を語っているのか?~機能的コスモロジーの再発見~」に出席しました。
タイトルを見て分かるように、この講演は12日(土)に行われた講演会と同じ主題について行われました。しかし、神学会での講演ですので、前回よりも専門的な内容に踏み込んで話がなされました。そこで、この記事では、前回と重なる内容は割愛して、前の記事で詳しく触れなかった内容について、ポイントごとに紹介したいと思います。
古代近東文化
前回の記事でもお伝えしたように、ウォルトン師は聖書が書かれた古代近東の文化の流れは現代の私たちが生きている文化とは異なることを強調しています。今日はこれに関して3つの例を挙げておられました。
まず、古代イスラエル人は現代の私たちとは異なる宇宙論を持っています。(これはこのブログでも度々強調してきました。)聖書時代の人々は、自分たちが住んでいる世界について、地は平らで固定されたものであって、その上を固いドーム状の天がおおっている、等々の理解を持っていました。これは当時のエジプトやバビロニアの宇宙論とそれほど変わらないものですが、現代の科学的宇宙論とは明らかにかけ離れています。
次に、古代イスラエル人は啓蒙主義以降の現代人のような「自然/超自然」という二項対立の考えを持っていませんでした。彼らには、神がまったく関わらない営みとしての「自然」という概念そのものがありませんでした。すべては(私たちの目に「自然」と見えることも含め)、神のわざと考えられていたというのです。(ただし、ウォルトン師の著書の中では、これは自由の余地のないマイクロマネジメントを意味する訳ではないとも書かれています。)
最後に、古代イスラエル人の生理学は現代人のそれとは異なっていました。例えば、彼らは意識の所在は脳ではなく心臓や肝臓や腎臓といった内臓にあると考えていたというのです。
これらすべての領域において重要なことは、神はそのような古代近東の文化を修正したり、現代科学に照らしてアップグレードしたりしておられない、ということです。基本的に旧約聖書の宇宙論や「自然」観や生理学は、周囲の古代近東文化と同じであり、神はその中で聖書を書き記させた、とウォルトン師は主張します。
聖書と科学
現代的な洞察や文化的枠組み(たとえば科学理論など)を聖書テクストの中に読み込もうとする立場を「調和主義(Concordism)」と言います。この立場を取る人々は、神は人間の聖書記者の科学知識を超えた意味をテクストに込めることができたと考えますが、ウォルトン師はこのような立場に反対します。調和主義では、テクストの「真の意味」を知るための情報源として一般啓示から得られる科学知識を重視しますが、これを聖書テクストに読み込むのは危険だと言います。なぜなら、科学理論も時代によって変わっていくものだからです。
したがって、ウォルトン師は聖書の啓示は科学的な啓示ではない、と言います。そして、もし聖書が科学的な主張をしているように「思われる」場合は、それが聖書と現代科学が対立しているかのような印象を与えないように、注意深く考えなければならない、というのです。
秩序、非秩序、無秩序
創世記の創造記事の分析において、ウォルトン師は秩序の問題を詳しく説明されました。創世記1章2節に出てくる「トーフー」というヘブル語(新改訳2017では「茫漠」と訳されています)は「非秩序(non-order)」を表していると言います。これは創造以前のデフォルト状態であり、これ自体が悪や人格を持ったものではないと言います。
神の創造とは、非秩序の世界に「秩序(order)」をもたらす行為です。また秩序は神から使命を与えられた人間によって作られることもありますが、誰の主体的な行為にもよらずにひとりでに出来上がることはないそうです。
このようにして確立した秩序が何者かによって崩壊させられると、その結果生じる状態は「無秩序(disorder)」と呼ばれます。神によってもたらされた秩序を人間が無秩序状態にすると、その報いとして非秩序状態が訪れるといいます。ウォルトン師はこの例として、人間の暴力によって悪が増大した(無秩序)結果、洪水が訪れた(非秩序)できごとを挙げておられました(創世記6章以降)。
いずれにしても、ウォルトン師によると、創造とは神が非秩序の世界に秩序をもたらす働きである、と定義することができます。これは前回見た「機能的創造論」とおおむね同じことを言っているわけですが、ウォルトン師は現在では「機能」よりも「秩序」の概念を用いるほうが良いと考えているそうです。
宇宙のアイデンティティが物質的起源ではなく機能や秩序にある、という考え方は、旧約聖書だけのものではありません。ウォルトン師は、古代シュメールやヘレニズム期のエジプトのテクストにも似たような特徴があることを示しておられました。
創造の目的
前回と同じく、神殿としての宇宙観や安息の概念についても語られましたが、その中で神の創造の目的について語られていた部分を最後にまとめたいと思います。ウォルトン師によると、神が創造の際に世界に付与した「秩序」とは、時間や天候や食物のような、人間のための秩序でした。つまり、この宇宙は人間が生きることができるように造られた、というのです。しかし、神の創造の目的はそれだけではなく、神ご自身がそこに住み、人間と関係を持つことであったといいます。そして、ウォルトン師はこの主題こそ、聖書全体を貫くテーマであるというのです。このような神の目的(秩序ある世界の創造と、そこにおける神の臨在と人との交わり)がクライマックスに達するのは、黙示録21章に描かれている、新天新地の創造である、ということでした。そこではもはや「海」(非秩序の象徴)がなくなりますが(1節)、最終的なポイントは、「神が人と共に住み、人は神の民とな」ることにあるのです(3節)。
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今回は最後に質疑応答の時間も持たれました。ギャップ理論についての質問(ウォルトン師はいくつかの理由から受け入れないそうです)や、聖書の中にある異なる文化的流れの問題について等々、興味深い質問がなされていました。
この日の夜は聖契神学校の学生に向けて、「旧約聖書と古代中東」と題して特別講義がなされましたが、バベルの塔やヨシュア記10章についてのケーススタディはたいへん興味深かったです。
(続く)