ホィートン大学の旧約学教授であるジョン・ウォルトン師が来日し、東京を中心として各地で講演会が行われています。そのうちのいくつかについて、概要を紹介していきます。
まず5月12日(土)に、来日に合わせて発売されたウォルトン師の著書『創世記1章の再発見』(いのちのことば社発売)の出版記念講演会が御茶の水で行われました。この講演会では、同書の基本的内容を分かりやすく一般向けに説明されました。
聖書解釈の原則
はじめにウォルトン師は、聖書を誠実に解釈するにはどうしたらよいかということについて語られました。そこでは、「聖書は私たちのために書かれたものであるが(for us)、私たちに対して書かれたものではない(not to us)」ということが強調されていました(これは同師がいろいろなところで繰り返しておられるキーフレーズです)。旧約聖書のメッセージは時代を超えた普遍性を持っているとはいえ、それは直接的には古代イスラエル人に対して書かれたのであって、現代の私たちに対して語られたものではありません。
ここでウォルトン師は「文化の川(Cultural River)」というメタファーを使って説明されました。私たちは自分たちの生きている地域や時代に特有の文化の流れの中に生きています。その流れに乗ったり逆らったりすることはできても、そこから出ることはできません。そして、現代の私たちは、聖書の時代の人々とは異なる川の流れの中に生きているのです。したがって、現代の私たちが聖書のメッセージを正しく理解するためには、それが書かれた古代中東文化の流れの中に入っていく必要があります。聖書を「字義的に(文字通りに)」読むとは、そのような文化の流れの中から、当時の著者の意図した意味をテクストから読み取ることにほかなりません。これは当然、現代の文化の中で私たちが直感的に読む表面上の意味とは異なってくることがあります。
機能的創造論
それでは古代イスラエルの文化の流れから、創世記1章の天地創造の記事を読むとはどういうことでしょうか? ウォルトン師は、そこで用いられているバーラーというヘブル語(ふつう日本語の聖書では「創造する」と訳されます)は、旧約聖書では神があるものに目的や機能を付与する行為を表している、と論じました。
つまり、ウォルトン師によると、創世記1章で「創造」されたのはこの宇宙を構成する物質ではなく、宇宙に付与された特定の機能や目的だった、ということです。したがって「創造」以前に存在したのは物質の不在ではなく秩序の不在ということです。このことは、2節で神が創造のわざを始められたときに、すでに「地」や「水」が混沌とした状態で存在したことからも裏付けられます。
(ウォルトン師はこの物質的宇宙が神によって無から創造されたこと[creatio ex nihilo]を否定しているわけではないということを強調しておられました。しかし、創世記1章で書かれているのは、そのことではない、ということです。)
ウォルトン師によると、創世記1章で描かれている創造のわざは、無秩序だった宇宙に機能(秩序づけられたシステムにおける役割と目的)を与えること、すなわち宇宙にアイデンティティを与えるものです。したがって、そこで創造されたものを神が「良しとみられた」というのは、完全性や道徳的善を意味しているのではなく、適切に機能しているという意味になります。
ウォルトン師がこのことを説明するために繰り返し用いたメタファーは「家」に関するものでした。「家」は物理的構造としての「家屋」という観点から見ることもできれば、そこに住む人間がつくり出す「家庭」という観点から見ることもできます。近現代の科学主義的世界観が関心を持つのはこの宇宙の「家屋」的側面ですが、古代中東の文化においては、宇宙の「家庭」的側面の方がより重要であった、というのです。つまり、この宇宙は神が住まい、人と交わるために造られた、ということです。それは神学的考察の対象であり、科学的考察の対象ではありません。
聖なる空間(神殿)としての宇宙
それでは、創世記1章によれば、宇宙はどのようなアイデンティティをもつものとして創造されたのでしょうか? ウォルトン師は、それは神の住まい=神殿である、と言います。
ここで、神が創造の7日目に「休まれた」(創世記2章2-3節)ということの意味が説明されました。それによると、これは現代的な意味で活動をやめるということではなく、宇宙が秩序ある安定した状態に入り、それを実際的に動かし始めたという意味です。したがって、創造のクライマックスは6日目ではなく7日目の「安息」であり、これこそが創造の眼目であったということになります。
創造の7日間
最後にウォルトン師は、創世記における天地創造のわざが7日間で行われたことの意味を説明されました。同師は創世記1章における「日」は文字通りの24時間であるとしながらも、それは物質的存在としての宇宙が7日間で造られたという意味ではないと言います(したがって地球の年齢に関する科学理論との齟齬を問題にする必要はなくなります)。そうではなくて、これは宇宙に秩序と目的をもたらすわざが7日間で行われたということなのだ、ということでした。
ウォルトン師はこのことを、神殿の落成式にたとえて説明されました。神殿の建物を建築するのには長い時間がかかったとしても、落成の儀式を通して神がそこに住まい、神殿が神殿として機能し始めるまでは、神殿は「存在」しません。ウォルトン師によると、創世記における7日間の創造記事は、まさに宇宙神殿の落成式としてとらえることができるというのです。
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今回は特にコメントを加えることなく、講演の要旨のみを紹介してきました。この講演を聴いて考えたことについては後日別の記事で書きたいと思いますが、全体として非常に分かりやすく丁寧に説明がなされ、また論争的な態度ではなく、時折ユーモアも交えながら終始穏やかな調子で語られたのが印象的でした。
ウォルトン師の創世記の解釈は、伝統的な福音派の立場から見ればかなり斬新なものに見えますが、その背後にある神学的立場はきわめて伝統的なものであると思いました(たとえば物質宇宙の無からの創造を否定していなかったり、聖書記者の意図した意味を強調したりする点)。したがって、表面的なテクスト解釈の目新しさに拒否反応を示すのでなければ、保守的な福音派の教会でも十分に受け入れられるものではないかと思いました。つまり、釈義と神学を区別する必要があるということです。私たちは特定のテクストの伝統的な解釈に縛られることなく、そのテクストのより正確で適切な意味を常に探究していく必要がありますが、そうすることは必ずしも伝統的な神学的立場を放棄することにはなりません。
一方で、ウォルトン師の聖書解釈は今日のキリスト教会にとってさまざまな実践的利点をもっていると思います。その最大のものは、宇宙の物質的起源に関する科学理論と聖書の記述の齟齬を問題にしなくてもすむようになることでしょう。以前のバイオロゴスについての記事でも書いたように、科学と聖書との(見かけ上の)衝突は現代のキリスト教にとって大きな問題となっていますので、ウォルトン師の働きはこの点において大きな貢献をなすものと言えると思います。(実際、ウォルトン師は私が参加したバイオロゴスのカンファレンスでも講演をされており、私もその場で聴きました。)
この記事を書いているのは5月13日(日)ですが、明日14日(月)の午後には福音主義神学会東部部会の公開講演会、15日(火)の午後には聖契神学校での公開講演会が行われる予定です。
(続く)