自己肯定感が低くて悩んでいる人は多いと思います。信仰者であっても同様です。自分はありのままで神に愛され受け入れられている、存在しているだけで価値がある、と頭では分かっていても、それを本心から肯定できないことがあります。自分が嫌でしかたがなくて、たとえ神は自分を愛していても、自分は自分を愛することはできない、たとえ神に赦されていても、自分は自分を赦せない――そのように思ってしまいます。そのような時、自己受容の必要性を感じていればいるほど、それができない自分がまた嫌になり、悪循環に陥ることもしばしばあります。
私自身、この問題で悩むことがありました。どうしても自分が好きになれないとき、どうしたらよいのでしょうか? 私が暫定的にたどりついた答えは、「自分が好きになれなくてもいい」というものです。
これは自分を愛さなくてもいいとか、自己受容は必要ないと言っているのではありません。自分を愛して受け入れるために、自分を感情的に好きになる必要はない、ということです。
キリスト教で愛を考えるとき、それは相手に対する好意的な感情とは区別して考えられます。ある人を感情的に好きになることができないことがありますが、だからといってその人を愛せないということではありません。聖書が教える愛(ギリシア語で「アガペー」)は好悪の感情ではなく、その人を無条件で祝福し善を行うという決断であり、それを実践する行為だからです。このことは、「敵を愛せよ」というイエスの教え(マタイ5章44節)に明確に表れています。自分にとって敵と思える人を感情的に好きになることは、ほとんどの場合不可能でしょう。にもかかわらず、その人を愛することは(困難ではあったとしても)可能なのです。
このことは自己受容とどのような関係があるのでしょうか? 私たちが自分自身を愛するときにも、同じアガペーの愛で愛すべきだ、ということです。
28 ひとりの律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」。
29 イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。 30 心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 31 第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。(マルコ12:28-31)
最も大切な戒めは何かと訊かれたイエスは、神への愛と隣人の愛がそれであると答えていますが、その中でレビ記19章18節を引用しつつ、自分自身を愛するように隣人を愛するようにと教えています。ここからしばしば、本当に他者を愛することができるためには、まず自分自身を神に愛された存在として受け入れ愛することができなければならない、と語られます。自己肯定感の低い人はここでつまずいてしまいます。自分を好きになることができないからです。
けれども、ここでは神を愛すること、隣人を愛すること、そして自分自身を愛することのすべてに対して、同じアガパオーという動詞(アガペーの動詞形)が使われていることに注目したいと思います(正確には31節では一つの動詞が「自分」と「隣り人」の両方にかかっています)。他者を愛することとまったく同様に、自分自身を愛することもまた、感情的に好きになるというよりは、自分という存在を無条件で受け入れ、心にかけ、神が望まれるような存在になる助けをすることと言えるのではないでしょうか。
時には自分の罪深さや不完全さ、醜さに嫌気がさして、自分自身をまるで「敵」のように否定し憎んでしまうこともあるかもしれません。けれども、たとえそのような自分であっても、無条件で受け入れ愛するように、神は促しておられるとしたら、どうでしょうか。「あなたの敵を愛せよ」というイエスの命令は、「敵」のように思える自分自身も含む場合もあるのかも知れません。
自分を感情的に好きになる必要はまったくないと言っているのではありません。もちろん、感情的にも自分を愛せるに越したことはありません。しかし私たちは、自分自身が好きになれないとき、そのこともまた、ありのままに受け入れていいのではないかと思います。その上で、たとえ嫌いな自分であったとしても無条件で愛し受け入れる決断をすることが大切であると思います。もちろん、それは簡単なことではありません。他者を無条件で愛するのと同様、自分を無条件で愛することもまた、究極的には聖霊の助けによって初めてできることなのでしょう。けれども少なくとも、そのことができるよう、神の助けを求めつつ、日々努めていく必要はあるのではないでしょうか。
スコット・マクナイトは、クリスチャンの基本的な霊的形成のパターンとして、日々主の祈りとともに、上でも引用した、神を愛し隣人を自分自身のように愛せよという戒め(マクナイトはこれをJesus Creedと呼んでいます)を祈ることをすすめています。私たちが日々、神を愛し隣人を愛することを決意し告白するとき、同時に自分自身も受け入れ愛することを決断し、たとえ不完全であってもそれが実践できるよう、神に祈り求めて行くことは重要であると思います。
私はこのような問題の専門家ではありません。ここに書いたことは、すべての人の役に立つわけではないと思いますし、すぐに自分が愛せるようになるわけでもないかもしれません。けれども、私自身、この小さな気づきを与えられたことで、少なからず心が解放される体験をしました。(逆説的ですが、「自分を無理に好きになる必要はないのだ」と思った瞬間に、自分に対する否定的な思いが不思議と薄れていくのを感じました。)ですので、もしかしたら参考になる人も中にはおられるかもしれないと思い、記事にすることにしました。