今年は5月10日(木)がイエス・キリストの昇天を記念する昇天日(Ascension Day)にあたります。イエスが復活後に天に挙げられたできごとは、新約聖書のメッセージの中で重要な位置を占めています。にもかかわらず、昇天について語られることは意外と少ないように思います。
実際、新約聖書の多くの箇所では、昇天は単にその事実について簡潔に語られるか(ピリピ2:9など)、あるいはすでに天におられるキリストについて語ることによって暗黙のうちに前提されるか(ローマ8:34など)であって、昇天のできごとそのものを具体的に描写しているのはルカだけです。(マルコ16:19は本文批評上の問題があり、いずれにしても昇天に関してはその事実に短く言及しているにすぎません。)
しかしルカ文書においては、昇天の出来事は福音書の末尾と使徒行伝の冒頭に繰り返して描かれており、2部作の中央にあって福音書と行伝をつなぐ重要な役割が与えられていることは疑いありません。
ルカ福音書においては、変貌山上でイエスに現れたモーセとエリヤが、エルサレムでイエスがなそうとしておられる「出発(exodos)」について語ります(ルカ9:31)。またイエスがエルサレムに向かおうと決意したのは「天に上げられる日が近づいた」からであると語られています(9:51)。つまり、ルカにおいては十字架から復活を経て昇天に至る一連のできごと全体が、イエスの地上ミニストリーのクライマックスを形づくっているのです。
これほど重要な主題であるにもかかわらず、昇天について語られることが少ない理由の一つは、昇天の出来事を視覚的にイメージすることが(特に現代人にとって)困難であることが考えられるでしょう。イエスの昇天をルカは次のように語っています:
50 それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。 51 祝福しておられるうちに、彼らを離れて、〔天にあげられた。〕 (ルカ24:50-51)
9 こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。 10 イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて 11 言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。(使徒1:9-11)
このように、ルカの記述によると、イエスは弟子たちの見ている前で天に挙げられ、雲に包まれて見えなったというのです。

ジョット「キリストの昇天」
しかしこの記述を、現代人の宇宙観に照らしてどのように理解したらよいのでしょうか? 今日の私たちは、地球は球体であって、地上から垂直に上昇するなら、大気圏を突き抜けて宇宙空間に達することを知っています。キリストは弟子たちの前から挙げられて、いったいどこへ行かれたのでしょうか? ここから、イエスの昇天がルカの描くとおりに実際起こったのかどうか、ということが(特に福音主義者の間で)問題になります。
けれどもこれは現代人の宇宙観を聖書に読み込もうとすることから起こる問題に過ぎません。私たちは聖書を読む時には、現代の世界観をひとまず脇へ置いて、聖書の時代の人々が持っていた世界観の中に入り込んで、彼らがそのテクストをどう受けとめたか、ということを考えていかなければなりません。
聖書時代の人々は「天」「地」「地下」という三層からなる世界観を持っていました。彼らにとって天は文字通り上方にあり、そこに神がおられるという理解を持っていたのです。ですから、イエスが地上を離れて父なる神のもとへ行く(ヨハネ13:1参照)という行為は、当然文字通りの上昇運動によって描かれることになります。
古代ヘブライ人の宇宙像(© 2012 Logos Bible Software)
それでは、イエスの昇天はルカが描いているようには実際は起こらなかったということでしょうか? その可能性も否定できませんが、必ずしもそうとばかりも言えないと思います。もし父なる神が、復活の肉体を持ったイエスを弟子たちの前から取り去られるとしたならば、さまざまな方法でそうすることができたと思われますが、弟子たちに昇天の意味(つまり、イエスが父のもとに帰ったということ)をもっとも明確に伝える方法は、彼らの世界観に合わせて文字通り上空にイエスを引きあげて、彼らの視界から取り去ることだったでしょう。つまり、神は当時の人々の世界観に適合した方法で、イエスをご自分のもとに迎えられたということも、十分にありうることと思われるのです。
しかし、昇天が実際どのようになされたか、と言うことよりも大切なのは、そのできごとが持っている意味です。多くの人々は、「イエスの昇天」ということを「イエスの不在」と解釈しています。2000年前に地上に人として来られたイエスは、十字架と復活というわざを成し遂げた後、しばらくの間地上からいなくなり、遠い将来地上を再び訪れるまでは、遠い天の王座にじっと座っておられる――そのようなイメージを持っているキリスト者が多いのかも知れません。
けれども、これほど聖書のメッセージからかけ離れた観念もあまりないと思います。イエスの昇天にはもっと積極的な意味があります。だからこそルカは2部作のナラティヴの中心を占める特権的な位置にこのできごとを置いたのです。
イエスの昇天とは、イエスが天にある神の右の座に着かれた、すなわち宇宙の王として即位されたことを意味しています。このことは、新約聖書の記者たちが最も好んで引用した旧約箇所が詩篇110篇1節であったことからも裏付けられます。
主はわが主に言われる、「わたしがあなたのもろもろの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ」と。
イエスが父なる神の右の座に着くイメージは新約聖書の随所に見られます(マタイ26:64、ルカ22:69、ローマ8:34、エペソ1:20、コロサイ3:1、ヘブル1:3、1ペテロ3:22など)。「右の座」とは当時の文化において権威を表すポジションであり、イエスが父なる神から全権を委ねられて王となられたことを意味しています。けれども、イエスは天の王座にあって、再臨までの時を無為に過ごしておられるわけではありません。即位したイエスはただちに地上に対してその統治を開始されたのです。それは、地上にあってイエスを主と信じ従う者たちに聖霊を注ぐことによってでした(このことについてはこちらの過去記事を参照)。
ペンテコステの日の説教の中で、ペテロは詩篇110篇も引きながら、イエスの即位と聖霊の注ぎを直接結びつけて語っています:
33 それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。
34 ダビデが天に上ったのではない。彼自身こう言っている、
『主はわが主に仰せになった、
35 あなたの敵をあなたの足台にするまでは、
わたしの右に座していなさい』。
36 だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。(使徒2:33-36)
教会を通して働く聖霊こそ、イエスが天から統べ治める王となられたことの確証であり、その統治の手段でもあるのです。
ここにおいて、なぜルカがイエスの昇天を2部作の中心に置いたかが明らかになります。イエスの昇天すなわち宇宙の王としての即位こそが、福音書で描かれたイエスの地上での働きのクライマックスであると同時に、使徒行伝で描かれる教会の誕生と拡大の根拠となっているのです。
そしてそれは、使徒行伝の大きな主題である異邦人宣教の神学的根拠でもありました。なぜなら、ユダヤ人だけでなく異邦人もキリストにあって一つの神の民となることができるという初代教会の主張は、イエスが天にあってすべての民族を治める「すべての者の主」(使徒10:36)となられた、という確信から来ているからです。最初の異邦人改宗者であったコルネリウスの家族に聖霊が注がれたできごと(使徒10:44)は、天の王であるイエス自らが、彼ら異邦人をご自分の民として受け入れたことを表しているのです。
イエスの昇天は、イエスがこの地上から取り去られたできごとではなく、この地上を治めるための王座に昇られたできごとであり、教会に存在理由を与えるものでもあるのです。それは憂うべきことではなく、むしろ喜びのできごとでした。その証拠に、ルカはイエスの昇天を目撃した弟子たちの反応を次のように記述して、福音書を締めくくっているのです:
52 彼らは〔イエスを拝し、〕非常な喜びをもってエルサレムに帰り、53 絶えず宮にいて、神をほめたたえていた。(ルカ24:52-53)
おまけ:オリヴィエ・メシアン作曲「キリストの昇天」(管弦楽版)。メシアンの数ある名曲の中でも特に好きな曲の一つです。