Global Returnees Conference 2018(その2)

昨日の記事に引き続き、GRC18での聖書講解メッセージを掲載します。

集会3日目のテーマは「神の民=家族」でした。前日に行われた1回目の聖書講解は、「福音」とは何か、ということについてのメッセージでした。これは分科会でも取り上げさせていただいたのですが、新約聖書の伝えている「福音」(良い知らせ)とは、「十字架につけられたイエスがよみがえって、全世界を治める王となられたことに関するニュース」です。2回目の聖書講解では、この内容を受けて、それではその「福音」が具体的にどのようにこの世界にインパクトを与えていくのか、ということについてお話しさせていただきました。

「教会を築き上げる」

26  サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間に加わろうと努めたが、みんなの者は彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。 27  ところが、バルナバは彼の世話をして使徒たちのところへ連れて行き、途中で主が彼に現れて語りかけたことや、彼がダマスコでイエスの名を大胆に宣べ伝えた次第を、彼らに説明して聞かせた。 28  それ以来、彼は使徒たちの仲間に加わり、エルサレムに出入りし、主の名によって大胆に語り、 29  ギリシヤ語を使うユダヤ人たちとしばしば語り合い、また論じ合った。しかし、彼らは彼を殺そうとねらっていた。 30  兄弟たちはそれと知って、彼をカイザリヤに連れてくだり、タルソへ送り出した。
31  こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ全地方にわたって平安を保ち、基礎がかたまり、主をおそれ聖霊にはげまされて歩み、次第に信徒の数を増して行った。(使徒9:26-31)

 

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(この朝は使徒9:26-31の朗読に合わせて、その場でその内容がライブペインティングで描かれていきました。感動的な素晴らしいパフォーマンスをしてくださった前木久里子姉に心から感謝します。)

昨日の朝は、よみがえって天の父なる神の右の座に着かれたイエスさまが、全世界を治める王であることを学びました。これが、初代教会が世の人々に語ったメッセージ、「福音」のエッセンスです。

天に挙げられて王座に着かれたイエスさまは、将来この地上に戻ってこられる時まで、何もしないでじっと座って待っておられるわけではありません。イエスさまは王として即位されると、直ちにその王としての支配を、地上に及ぼし始められたのです。どのようにしてでしょうか? それはご自分を主と信じる人々、つまり教会に注がれる聖霊を通してなのです。神の国が地上に訪れるとは、このようにして主の御心が地上で実現していくことに他なりません。私たちが主の祈りの中で「御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るのは、そう言う意味なのです。

クリスチャンとして生きるとは、このメッセージ、「福音」を信じて、聖霊の導きに従って生きていくことです。そのようにしていくときに何が起こるでしょうか? この地上で教会が築き上げられていくのです。

今日開いた聖書箇所の最後の部分、31節にこう書かれていました。

「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ全地方にわたって平安を保ち、基礎がかたまり、主をおそれ聖霊にはげまされて歩み、次第に信徒の数を増して行った。」

使徒の働きに描かれている初代教会は、当時のパレスチナ全域にわたって築き上げられ、聖霊に励まされて前進していったとあります。現代の私たちにとっても大きな励ましになる言葉です。けれども、この節の最初に「こうして」と書かれているのに注目したいと思います。教会が築き上げられ前進していったのは、その前に起こったことがらの結果だというのです。それについて見ていきましょう。

使徒の働き9章のはじめの部分で、初代教会の一つの転機となる重大事件が起こりました。教会の強力な迫害者であったサウロという人物が救われたのです。サウロはパリサイ派の若い教師で、聖書に通じイスラエルの神さまに熱心に仕えていましたが、ローマ人に十字架につけられて殺されたナザレのイエスという男が救い主であるなどというクリスチャンたちの教えはとんでもない異端だと考え、主の弟子たちを激しく迫害していました。そのような迫害の一環としてダマスコに向かう途中に、復活の主イエスに出会って劇的な回心を経験し、すぐさまこのイエスというお方こそが救い主キリストである、と宣べ伝え始めたのです。

ところが、いざ彼がエルサレムに上っていって、弟子たちの交わりに加わろうとしたときに問題が起こりました。教会の最大の迫害者の一人であったサウロが救われたというのは、素晴らしい知らせでしたが、あまりに素晴らしすぎて信じられなかったというのです。26節には「<みんなの者は>彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。」とあります。エルサレム教会の誰ひとりとして、サウロが本当にクリスチャンになったとは信じられなかったと言います。そして彼らはサウロを恐れて受け入れようとはしませんでした。

使徒の働きでは簡潔にさらりと書かれていますので、うっかりすると気づかずに読み飛ばしてしまいがちな箇所ですが、これは初代教会における、大きな危機の一つでした。このサウロはやがてパウロという名前で知られるようになり、特に異邦人に対する宣教活動において偉大な働きをするようになります。けれども、彼の異邦人宣教の働きは決してエルサレムにあるユダヤ人クリスチャンを中心とした働きから独立した別個の運動ではありませんでした。パウロの異邦人宣教の働きを理解せず、疑いの目を向けるユダヤ人クリスチャンたちもいたのですが、使徒の働きにおいても、またガラテヤ書をはじめとするパウロの手紙においても、パウロの宣教活動がエルサレム教会の働きとつながった一つのものである、ということが繰り返し強調されています。

しかし、もしここでエルサレム教会がパウロを受け入れなかったとしたら、どういうことになったか、考えて見てください。もしかしたら、パウロはエルサレムの教会とは交わりを持つことをあきらめ、自分だけで独立した宣教活動を始めていったかもしれません。もしそうなってしまったら、教会はもはや唯一の主イエス・キリストのもとに一致した存在とは言えなくなっていた可能性があったと思いますし、今日のキリスト教も、全く違ったものになっていたかもしれません。この危機を回避できるかどうかは、エルサレムの教会がサウロに対する恐れを克服できるかどうかにかかっていたのです。

ところが、ここにただ一人、サウロを恐れない人がいました。それはバルナバです。彼はサウロを引き受けて面倒を見、エルサレムの弟子たちとの仲立ちをし、彼らがサウロを仲間として受け入れるように説得したのです。その根拠はサウロが「主」を見たこと、「主」が彼に語りかけられたこと、そして彼がイエス様の御名を宣べ伝えたことでした。サウロはエルサレムの弟子たちと同じ「主」を信じ「主」に仕える存在である、だから彼を受け入れるべきだ、ということです。

私たちは時として、自分のよく知らない人、あるいはある固定化されたイメージを抱いている人に対して恐れを抱くことがあります。それは周囲のノンクリスチャンの人々であることもありますが、自分とは異なる信仰的な背景や理解を持つクリスチャンに対しても、同じような恐れを抱いて交わることができない、ということもよくあります。人を恐れている時には、心を開いてその人と交わることができません。けれども私たちは、そのような人に対する恐れを克服する必要があります。どれほど苦手なタイプの人であっても、もし同じ主がその人を受け入れ召しておられるのなら、私たちはその人を主にある同労者として受け入れなければならないのです。そしてそれは、主の愛を受け取ることによって可能になります。1ヨハネ4章18節にはこう書かれています。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。」私たちは愛の力によって、人への恐れを乗り越えるのです。

さて、エルサレム教会はバルナバのチャレンジにみごとに応えました。彼らはサウロを同じキリストの弟子として受け入れました。彼らはサウロとともにエルサレムで伝道したばかりでなく、サウロに対する殺害計画が明らかになったときには、彼を守って逃亡を助けるということまでしたのです。30節ではそのようなエルサレムのクリスチャンたちが「兄弟たち」と呼ばれているのは意味深いことだと思います。彼らはサウロにとって、主にある兄弟姉妹となったのです。

このような経緯を受けて起こった結果が、31節に書かれていることでした。

「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ全地方にわたって平安を保ち、基礎がかたまり、主をおそれ聖霊にはげまされて歩み、次第に信徒の数を増して行った。」

ここで「平安を保ち」と訳されている部分は、新共同訳では「平和を保ち」と訳されています。ここで語られているのは、教会が主にあって一致しているということです。教会のクリスチャンが互いに対する恐れを克服して一つになっていく時に、教会は築き上げられ、前進していくのです。この時に起こった教会の一致は、その後の教会の歴史に計り知れないインパクトを与えました。これによって、パウロの異邦人宣教の働きはエルサレム教会との連携のもとに進められていくようになり、キリスト教が一致を保ちながら、単なるユダヤ人の宗教ではなく、すべての民族に開かれた世界宗教として発展していく基礎が据えられたのです。そのきっかけとなったのは、バルナバという一人のクリスチャンが、サウロに手をさしのべ、教会に招き入れたことでした。

ところで、なぜバルナバはそのようにして、サウロへの恐れを克服することができたのでしょうか? バルナバがこの時、たとえば幻で主が現れたというような方法で直接的に聖霊の語りかけを受けたということも考えられますが、使徒の働きではそのような直接的な聖霊の導きがある時には、はっきりとそのように書かれることが多いので、おそらくそうではないと思います。

使徒の働きによると、「バルナバ」という名前は「慰めの子」という意味ですが、これは彼の本名ではありません。彼の本名はヨセフと言いましたが、人々は彼を「慰めの子(バルナバ)」というあだ名で呼んでいたということです(使徒4章36節参照)。そのようなあだ名がつくほど、人を慰め励ます愛に満ちたバルナバの人格は、聖霊によって練り上げられたものであったに違いありません。ふだんから聖霊によってイエスさまの似姿に作りかえられている(これを霊的形成と言います)人は、いちいち天から声が聞こえてきたりしなくても、日常生活の中で主の御心にかなった判断をし、行動をすることができるのです。もしかしたら、バルナバにもサウロに対する恐れがなかったわけではないかもしれませんが、彼はその恐れを乗り越えて、サウロに愛の手をさしのべました。彼がそうしたときに、教会が築き上げられ、神の国が地上に現されました。クリスチャンが福音に生きるとは、具体的にはこういうことなのです。

バルナバの仲立ちによって、エルサレムの教会もサウロへの恐れを乗り越えることができました。けれども興味深いことに、教会には別の種類の恐れがあったといいます。31節には、教会は「主をおそれ」ていたと書かれています。私たちの主なるイエス・キリストを恐れること、それはクリスチャンにとって健全な恐れです。けれども、もし私たちが主以外のものを恐れているなら、それは私たちにとって偶像となっているのです。なぜなら、私たちは自分が恐れるものに支配されているからです。まことの神さまよりも恐れるものがあるかぎり、私たちの心にも、教会にも平安はありません。けれども逆説的なことに、主だけを恐れる時、主は私たちに「恐れることはない」と言ってくださるのです。昨日学んだことを思いだしてください。イエスさまは全宇宙を統べ治める偉大な王です。この方が私たちと共におられるなら、何も恐れる必要はないのです。

今、主の前に静まって、自分の心を探ってみましょう。私たちは日々いろいろな恐れに取り巻かれています。けれども、今日は一つの種類の恐れにフォーカスしたいと思います。バルナバはサウロに対する恐れを乗り越えて、彼に手をさしのべました。皆さんにとって「サウロ」のような人はいないでしょうか? 皆さんの心の中に、教会を築き上げる妨げとなっているような恐れはないでしょうか? それはある特定の人に対する恐れかも知れませんし、もっと一般的なグループ(たとえば特定の教派や教団)かもしれません。帰国者クリスチャンは日本の教会に対して、日本の教会は帰国者に対して、そのような恐れを抱いているかもしれません。もしそのような恐れがあったら、まずはそのことを否定せず、主の御前に素直に差し出して、その恐れを主に委ねてみてください。

そして思い出してください。イエスさまは私たちすべてを救うために、十字架でいのちを捨ててくださいました。キリストのからだなる教会は本来一つしかありません。もしそれが分裂しているとすれば、それは私たちがそうしているのです。キリストのからだが引き裂かれている最大の原因は、悪魔でも社会でもなく、私たちクリスチャン自身にあるのです。そして、イエスさまはそのことにどれほどの痛みを覚えておられることでしょうか――。

けれども、聖霊は私たちを励まして全き愛を与え、恐れを乗り越える力を与えてくださいます。この朝、主があなたの恐れを取り除き、あなたにとっての「サウロ」に近づくことができるように祈ってみてください。そして、この集会の後、ぜひそのことを実行してみてください。小さなことでも構いません。一言あいさつするだけでも、にっこりほほえみかけてあげるだけでもいいのです。そうした小さな愛の行為が、教会を築き上げる煉瓦を一つ積むことになるのです。そしてもしかしたら、あなたが手をさしのべた「サウロ」は、明日の教会を導く「使徒パウロ」になっていくかも知れません。あるいは、あなた自身が「パウロ」になっていくかも知れません。共におられる主に期待して、そのことを行っていきましょう。

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GRC18speakers

GRC18全体集会講師とその夫人たち。ニュージーランドから来られた渋沢憲一先生ご夫妻(左)と、イギリスから来られた立山仰先生ご夫妻(右)、そして日本から参加した私たち夫婦(中央)です。ご一緒に奉仕し、お交わりをする素晴らしい機会が与えられて感謝でした。