5月2日から今日(5日)にかけて、以前の記事でもお知らせした帰国者クリスチャンのためのカンファレンス、GRC18に参加してきました。
GRCは海外で信仰を持って帰国した日本人クリスチャン、また帰国者クリスチャンを積極的に受け入れようとする日本の教会のクリスチャン、日本に遣わされている海外からの宣教師など、さまざまな立場の人々が集って信仰を強めあい、互いの交流を深める貴重な場となっています。私自身も、集会や多くの方々との再会と新しい出会いを通して、たくさんの恵みをいただきました。
今回のGRCの全体テーマは「Dwell: 主は私達と共に住む」でしたが、その中で2回の聖書講解と分科会を担当させて頂きました。今回は3日朝の第1回聖書講解の内容に多少手を加えたものを掲載します。この日のテーマは「ただ中に住む神」ということでしたが、私たちが神の国の民とされたということはどのような意味があるのか、ということについてお話しさせていただきました。(このメッセージは以前別の記事でお分かちしたものと内容的に重なる部分が多いですが、次回掲載予定の2回目のメッセージとのつながりの中で読んでいただきたいので、あえて掲載することにしました。)
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「イエスは主」
だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。(使徒2:36)
(今回のGRCでは、各集会の主題聖句をただ読み上げるのではなく、いろいろなパフォーマンスを織り交ぜながら創作的な聖書朗読がなされました。これが本当に素晴らしかったです。この時は各国語によって使徒2:36が読まれました。)
この集会に来られた方々の中には、クリスチャンになって間もない方もかなりおられるのではないかと思います。私たちが初めて教会に足を踏み入れたとき、そこで話されている言葉がまるで外国語のように聞こえて理解できないという経験をしたことはないでしょうか。たとえクリスチャンたちが私たちと同じ言語で話していたとしても、そこで使われている用語は、クリスチャン独特の意味合いが含まれているので、キリスト教に馴染みのない人には何を言っているのか分からないことがあります。そのような教会用語の中には、「肉」や「油注ぎ」といったことを考えることができるかもしれません。
そんなクリスチャン用語の一つに「主」があります。クリスチャンはよく「主」という言葉を使いますが、この言葉は一般の社会ではあまり耳にすることがありません。私はクリスチャンになりたての頃、その意味がぴんときませんでした。どうやらクリスチャンはこの言葉を神さまについて使っているらしい、時にはイエスさまについても使っているらしい。聖書の中にも「主」という言葉が何度も出てくるし、おそらく神さまやイエスさまの別名なのだろう、くらいの理解しかありませんでした。けれども、聖書を学んでいくうちに、「主」という言葉の持つ意味の深さに気がつかされてきました。特に、イエスさまが「主」であるとはどういうことなのか、それが私たちの信仰生活にとってどういう意味を持っているのか、そのことについて今日は学んでいきましょう。
今日お読みした箇所は、キリスト教会最初の説教のクライマックスにあたる部分です。ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が注がれて、教会が誕生しました。集まってきたユダヤ人たちに対してペテロが語った説教は、使徒の働きに描かれている、初代教会の活動の基盤となる、いわば基調メッセージです。この中に、教会があらゆる時代に宣べ伝えるべきメッセージのエッセンスが含まれているのです。少し前の部分からペテロの演説の内容を概観してみましょう。
イエスさまが昇天されたのち、聖霊が注がれるという約束を待ち望んで、弟子たちは祈っていましたが、その祈りがペンテコステの日に応えられました。弟子たちは聖霊に満たされて、いろいろな国の言葉で神さまのみわざを語り告げたと言います(使徒2:1-4)。この不思議な現象に驚いたユダヤ人は、彼らの元に集まってきました。そこには、国外に居住していて、五旬節の祭りのためにエルサレムを訪れていたユダヤ人たちも多くいました。ところが中には、使徒たちは酒に酔って訳の分からない言葉を語っているのだ、とあざ笑う人々もいたのです(13節)。
これに応えてペテロは話し始めます。彼はまず、人々が見聞きしているのは、酒によるのではなくて、神さまが旧約聖書のヨエル書の預言の通りに、聖霊を注がれたのだ、と説明するところから始めます(15-21節)。人々が見聞きしている不思議な現象は、聖霊によって引き起こされたものだ、ということです。ところで、ヨエル書によると、このようなできごとが起こるのは「終わりの時」のしるしです(17節)。弟子たちに聖霊が注がれたのは、救いの歴史の最後のステージがはじまったしるしだというのです。それはいったいどういうことなのでしょうか?
ペテロは続けて22節から、ユダヤ人たちにイエスさまのことについて語っていきます。神さまがイエスさまを通して力あるわざと不思議としるしをなされたというのは、イエスさまが旧約聖書で約束されていた救い主メシアである、ということの証しでした。けれども、神の民であるユダヤ人たちはイエスさまを受け入れずに十字架につけて殺してしまいました。ところが神さまはイエスさまを死からよみがえらせたのです。ペテロはイエスさまの復活について、詩篇16篇を引用しながら、それが旧約聖書の預言の成就であることを論じていきます。
ここでのペテロのポイントは二つあります。第一に、詩篇の作者であるダビデは聖徒が死を乗り越えることができると歌っていますが、彼自身は死んで葬られました。したがって、この詩篇は、ダビデ以外の誰か、すなわち彼の子孫であるキリストすなわちイエスさまを指している、というのです。
第二のポイントは、そのようにしてよみがえったキリストはダビデの子孫、すなわちイスラエルの王なる方だ、ということです。よみがえったのはただの人ではなく王である、というのは、後から見るように大変重要なポイントです。
さて、イエス・キリストが復活したというのは、キリスト教の中心的なメッセージですが、そのことはどうしたら分かるのでしょうか? また、使徒たちはそれをどのように当時のユダヤ人に説明したらよいのでしょうか? イエスさまの墓が空であったことは、福音書に書かれていますが、ユダヤ人たちの多くはそれは弟子たちがイエスの遺体を盗んでいったからだ、といううわさを信じていたかも知れません。マタイの福音書にもそのようなうわさがあったことが書かれています(マタイ28:11-15参照)。
イエスさまが復活したことはどうして知ることができるのでしょうか? ペテロの答は、それは聖霊が下ったことによって分かる、というものでした。この説教はそもそも、弟子たちに聖霊が注がれたことについての話でしたが、ペテロがそれに続けてイエスさまの復活について話したのは決して話が脱線したのでもなく、無理矢理イエスさまの話にこじつけたのでもなく、ちゃんとした理由があってのことだったのです。弟子たちが聖霊に満たされたできごと、エルサレムのユダヤ人たちが否定することのできない不思議なできごとは、イエスさまが確かに死からよみがえったことの証拠だったのです。
そして、イエスさまが復活したというのは、ただイエスさまは神さまだから死ななかった、とか、イエスさまは永遠のいのちを与えることのできるお方だ、ということ以上の意味があります。イエスさまが死からよみがえったということは、父なる神さまがイエスさまを天に引きあげ、ご自分の右の座に着かせたということとつながっています。そのイエスさまが聖霊を注がれたのです(33節)。
そして、イエスさまが父なる神さまの右の座に着かれたということは、何を意味しているのでしょうか? それは、イエスさまが全宇宙を治める王として即位された、ということなのです。ペテロはこのことを、詩篇110篇1節を引用して説明しています(34-35節)。
『主はわが主に仰せになった、
あなたの敵をあなたの足台にするまでは、
わたしの右に座していなさい』
この箇所は新約聖書の中で最も数多く引用される旧約聖句ですが、それだけこの箇所が初代教会の人々にとって重要な意味を持っていたということです。聖書が書かれた古代中近東においては、「右に座」は権威と名誉あるポジションを表しています。イエスさまが父なる神さまの右の座に着くということは、神さまからいっさいの権威を委ねられて、世界を治める王となった、という意味なのです。
ペテロの結論は36節にあります。
「だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。
つまり、ペテロがイスラエルの人々に対して伝えたかったメッセージの中心は、「十字架に架けられて殺されたイエスさまはよみがえって、父なる神さまによって主またキリストとされた」ということです。これこそ福音、「よい知らせ」の中心なのです。
現代の私たちには、「主」や「キリスト」と聞いてもぴんとこないかも知れません。最初にお話ししたように、イエスさまの呼び名くらいにしか思わないかも知れませんが、これらはどちらも「王」「支配者」という意味合いがあります。「主」という言葉は旧約聖書で神さまを指す呼び名として使われましたが、ギリシア語のキュリオスという言葉はローマ皇帝にも使われていました。また「キリスト」という言葉はヘブル語のメシアのギリシア語訳で、本来は「油注がれた者」という意味ですが、当時のユダヤ教ではイスラエルを解放してくださる王を意味していたのです。つまり、イエスさまが「主」であり「キリスト」であるとは、イエスさまは天から世界を統べ治めておられる王なる方だということです。
「イエスは主である」――これが、誕生したばかりのキリスト教会が最初に世界に発信したメッセージでした。そしてこのメッセージは、使徒の働きの中で何度も繰り返されていきます。最初の異邦人クリスチャンとなったコルネリオに対してペテロは「すべての者の主なるイエス・キリスト」について語っています(10章36節)。またパウロとシラスはピリピの看守に対して「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」と語りました(16章31節)。テサロニケでパウロたちに反対したユダヤ人たちは、クリスチャンたちは「イエスという別の王がいる」と言っている、と彼らを非難しました(17章7節)。使徒の働きはパウロがローマ帝国の首都ローマで福音を宣べ伝えているところで幕を閉じますが、そこで彼は「はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた」とあります(28章31節)。つまり、パウロは神さまの王国について語り、そして父なる神さまの右にあって支配される方、主でありキリストでもあるイエスさまについて宣べ伝えたのです。
この福音のメッセージ、「イエスさまが主、キリストすなわち王である」というメッセージは、初代教会の時代だけのものではありません。21世紀の私たちにも語られているメッセージです。多くの教会で告白されている使徒信条では、イエスさまは「全能の父なる神の右に座したまえり」と言われています。これは使徒信条の中で、イエスさまについて現在形で書かれている唯一の部分です。イエスさまは今この瞬間も、天の父なる神さまの右の座に着いておられ、統べ治めておられる王なのです。
私たちはこのことについて、ふだんどれだけ意識して生活しているでしょうか。多くのクリスチャンにとって、イエスさまは2千年前に私たちの罪のために十字架にかかってくださった後、しばらく地上からいなくなり、将来いつの日かまたやって来られて、私たちを神の国に迎え入れてくださるお方、というイメージしかないかもしれません。十字架の贖いも再臨も大切な聖書の真理ですが、私たちが毎日この地上で生きていく上で最も大切な、いま現在イエスさまは私とどういう関係を持っておられるのか、ということについては、漠然とした意識しかないかも知れません。イエスさまがいま現在天におられる王であり、私たちはそのよい知らせ(福音)を告げ知らせ、聖霊の力をいただいて、教会という共同体を通して、そのご支配をこの地上に現すべく召された存在なのです。
私たちと共におられるイエスさまは、全宇宙の王なるお方であり、その偉大な王が私たち一人ひとりを愛し、気にかけて守ってくださっています。このGRCを通して、私たちが「イエスさまは私の主である」ということをさらに実感することができるよう、祈り求めていきましょう。

宿泊部屋からの眺め