『百万人の福音』誌より依頼を受けて、4月号の終末に関する特集用に原稿を書きましたので、同誌の許可を得てここに掲載します。クリスチャンだけでなく、キリスト教に関心のある一般の読者も対象にした雑誌ということで、なるべく分かりやすい記述にするよう心がけたつもりです。ちなみに同特集では、「終末期を知る書籍」の一つとして、私翻訳したヴォーン・ロバーツ著『神の大いなる物語』も紹介されています。
明けの明星を見上げて~聖書に学ぶ、終わりの時代の歩み方
「世の終わり」と聞いて、みなさんは何を思い浮かべるでしょうか? 世界を襲う天変地異、戦争や飢餓、疫病、そして人類滅亡・・・SF映画に出て来るような、おどろおどろしいイメージを思い描く人が多いのではないかと思います。同時に、そのような話はふだんの暮らしとはかけ離れた、現実離れしたことのように感じている人も多いかもしれません。
聖書は世の終わりについて何と言っているのでしょうか? それはいつ、どのようにしてやって来るのでしょうか?
今は終わりの時代
驚かれるかも知れませんが、聖書は、今はすでに終わりの時代であると語っています。紀元一世紀に生きた使徒パウロはその手紙の中で、自分たちは「世の終わりに臨んでいる」と書いています(1コリント10・11)し、ヘブル人への手紙の筆者も、彼らが生きている時代を「この終わりの時」と呼んでいます(ヘブル1・2)。
二千年も昔に書かれた新約聖書の記者たちが、今は世の終わりだと語っているのは、とても奇妙に聞こえるかもしれません。彼らは大きな勘違いをしていたのでしょうか? そうではありません。
先ほどのパウロのことばで、「終わり」と訳されているギリシア語は「テロス」です。これは時間的な終点と言うよりは、「ゴール」「目的」というニュアンスをもつことばです。同じギリシア語を用いて、ペテロも「万物の終わりが近づきました」と語っています(1ペテロ4・7)。
聖書は、世界は神による創造によって始まり(創世記1・1)、やがて終わりを迎えると教えていますが、その「終わり」は単なる時間的終点ではありません。人間の歴史は無意味な偶然に支配されているのではなく、神によって定められた「特定の目的」に向かって進んでいるというのです。神が世界に対してもっておられる目的を最終的に成就される時が、歴史のテロス、「終わり」なのです。
そして、最初期のクリスチャンたちは、その時がすでに来た、と確信していました。なぜでしょうか? それはイエス・キリストが来られたからです。ローマ帝国のもと十字架で処刑されたナザレのイエスが三日めに復活されたとき、歴史は最後の段階に入り、神の目的の最終的成就に向けて動き始めました。陸上競技にたとえるなら、レースの最終コーナーを回ってゴール前の直線コースに入ったようなものです。その意味では、新約時代の使徒たちも、現代の私たちも、同じ「終わりの時代」に生きているのです。
イエス・キリストの復活が、どうして終わりの時代の始まりを意味するのでしょうか? パウロは、キリストの復活は将来起こるすべての人の復活の「初穂」である、と述べています(1コリント15・20、23)。初穂とは、実り始めた作物のうち、最初に収穫されて神に献げられた部分のことです。初穂はやがて来る本格的な収穫を予告し、保証するものです。つまりイエスの復活は、すべての人がよみがえることの約束であり、保証なのです。つまり、聖書の言う「終わりの時代」は二つの復活によって枠づけられた期間と言うことができます。イエス・キリストの復活がその始点であり、すべての人の復活が終点です。この終点において、イエス・キリストは再び地上に来られ(これを「再臨」と言います)、地上に神の聖なるご支配を確立します。新約聖書の表現を使えば、神の国が地上に到来するのです。
このように、聖書が教える「世の終わり」は幅のある概念だということが分かります。約二千年前にイエス・キリストが最初に来られたとき、ある意味ですでに「終わりの時代」が始まりました。けれども、「終わりの終わり」はいまだに訪れていません。私たちはこのような、「すでに」と「いまだ」の間の時代に生きているのです。
世の終わりに関する誤解
将来神の国が完成する「終わりの終わり」は、人々がふつう思い浮かべる「世の終わり」のイメージに近いかも知れません。しかし、聖書の教える「世の終わり」は、一般に考えられているものとは異なる特徴をもっています。
第一に、世の終わりはすべてが滅びてなくなってしまうという意味ではありません。聖書が言う「終わり」とは、私たちが知っている現在の世界のあり方が終わる、という意味です。ヨハネは黙示録の中で「新しい天と新しい地」(黙示録21・1)が訪れることを語っています。(ちなみに、ここで語られているのは、物質から遊離した「霊的世界」のことではありません。聖書は決して物質を下等で邪悪なものとはみなしていません)。今ある世界の終わりは、その後に来るもっとすばらしい永遠の世界の始まりに過ぎないのです。
第二に、世の終わりは破滅的な、恐ろしいものではありません。確かに聖書は、世の終わりにキリストが正しい審判者として来られ、すべての悪を裁かれると教えています。けれども、それはこの世界から一切の悪が滅ぼされ、神の聖なる支配が全世界を満たすということです。そして私たちは、その新しい聖なる世界で神と共に永遠に生きるように招かれているのです。神への背きの罪を悔い改めてイエス・キリストに信頼していく者にとって、世の終わりはすばらしい救いの時なのです。
つまり、聖書の言う世の終わりとは、世界が夜のとばりに包まれる夕暮れではなく、すべてを照らす太陽が昇る夜明けのイメージで語る方がより適切だと思います。私たちは世界の「夜明け前」に生きているのです。
終わりの時代をどう生きるか
それでは、そのような「終わりの時代」を私たちはどう生きていけばよいのでしょうか? 世の終わりについてどのような理解(これを「終末論」と言います)を持つにせよ、それは現在の私たちの生き方に必ず何らかの影響を与えます。聖書的な終末論をもつことは、今を聖書的に生きることにつながっていくのです。
その際注意すべきことがあります。聖書は世の終わり(終わりの終わり)に何が起こるのかについて、具体的な細部までは明らかにしておらず、多くの場合は暗示的な表現に留めています。たとえばヨハネの黙示録は、当時のユダヤ教の黙示文学と呼ばれるジャンルに特有の象徴的表現を駆使して書かれています。そこにある細かい描写をすべて字義通りに受け取ることは、かえってヨハネの執筆意図に反することになります。黙示録に代表される、世の終わりに関する聖書の記述を秘密の暗号のように「解釈」して、現在や近い将来に起こるできごとと直接的に結びつけようとする読み方は、昔からたいへん人気がありますが、そのような読み方では、聖書の終末論の本質を正しくとらえることはできないと思います。
イエス・キリストに目を注いで
では、聖書の終末論の本質とは何でしょうか? その答は、「イエス・キリスト」です。なぜなら、イエス・キリストこそ、世界と人間に対して神が持っておられる究極的な目標(テロス)を体現されたお方であり、終わりの時代を私たちがどう生きるべきかの模範を示している存在だからです。
終末論を考える際、私たちは「今の世界がどう終わるか」よりも、「その後に到来するのはどのような世界か」ということに目を向けなければなりません。それは「神が、すべてにおいてすべてとなられる」(1コリント15・28)世界、すなわち神の聖なるみこころが世界のすべてに及んでいる世界、すべての悪が滅ぼされ、愛と正義といのちがあふれる世界です。つまりそれは、神ご自身のあらゆるよいご性質が完全に反映されている世界なのです。
一方、イエス・キリストは「神の本質の完全な現れ」(ヘブル1・3)であると書かれています。すなわち、私たちはイエス・キリストを見る時に、やがて神が全世界規模で実現しようとされている栄光あるみわざの最初の輝きを目にすることができるのです。
先ほど、聖書的な世の終わりとは世界の夜明けだと書きました。まさにこのイメージを用いて、パウロはこう語っています。
「さらにあなたがたは、今がどのような時であるか知っています。あなたがたが眠りからさめるべき時刻が、もう来ているのです。私たちが信じたときよりも、今は救いがもっと私たちに近づいているのですから。夜は深まり、昼は近づいて来ました。ですから私たちは、闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けようではありませんか。遊興や泥酔、淫乱や好色、争いやねたみの生活ではなく、昼らしい、品位のある生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません。」(ローマ13・11-14)
パウロは、終わりの時代に生きるクリスチャンを、夜明け前のまだ暗い時間に起き上がった人々にたとえています。世の大多数の人々は、もうすぐ夜が明けることを知らず、眠り続けています。
けれどもクリスチャンたちは、暗闇の支配する時はまもなく終わり、朝がやってくることを知っています。なぜなら、彼らは東の空に「輝く明けの明星」であるイエス・キリスト(黙示録22・16)を見たからです。「明けの明星」とは金星のことで、この星が東の空に昇ると、夜明けが近いことが分かります。十字架の死から三日目によみがえったイエス・キリストは、やがて世界の夜明けが近いことを告げ知らせる、明けの明星なのです。
夜明けが近いことを知った私たちは、どうすべきでしょうか? パウロは、私たちは世の人々に先駆けて、昼間らしい生き方をすべきだと言います。この地上はまだ悪と罪と死に満ちており、人々は不安と絶望の中で暮らしています。けれどもクリスチャンは、そのような暗い世にあっても、すでに神の国が到来しているかのようにして、キリストと共に――パウロの表現を借りれば、「キリストを着」て――その価値観を先取りして体現していく存在です。彼らは、この世の悪がどれほど強大に見えたとしても、その支配はまもなく終わり、神の義と愛と聖が支配する世界が到来することを確信しています。なぜでしょうか? すでに初穂であるキリストがよみがえられたからです。
今年も復活祭の季節がきました。教会はなぜイエス・キリストのよみがえりを祝うのでしょうか? それは、キリストの復活は、私たち一人ひとりに死を超えて生きる希望を与えてくれるだけでなく、この世界を支配する悪がいつの日か一掃され、すべてが愛に満ちた神の聖なるご支配に服する日が来ることを証ししているからなのです。復活のキリストは、暗い夜空に輝く明けの明星なのです。