所属教会で礼拝説教の奉仕をしましたので、多少手を加えたものをお分かちします。
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「王なるイエスの福音」(使徒の働き2章32-36節)
32 「このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。33 それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。34 ダビデが天に上ったのではない。彼自身こう言っている、
『主はわが主に仰せになった、
35 あなたの敵をあなたの足台にするまでは、
わたしの右に座していなさい』。
36 だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。

「全能者キリスト」(ハギア・ソフィアのモザイク)
今年はプロテスタント教会にとって、宗教改革500周年という節目の年です。1517年10月31日にマルティン・ルターがヴィッテンベルクの教会で「95箇条の提題」を掲示したことから、宗教改革が始まったと言われています。宗教改革で起こった重要な変化の一つは、神のことばによる説教が教会の礼拝の中心となったことです。カトリック教会における礼拝の中心は聖体拝領(プロテスタントで言う聖餐式)であり、そのための祭壇が教会堂の中心にありました。ところがプロテスタント教会では説教壇が教会の中心に置かれるようになります。もちろん聖餐も教会にとってなくてはならない大切なものですが、それとともに、神のことばである聖書が語られることが、教会が教会であるためになくてはならないものなのです。
しかしもちろん、教会の説教は宗教改革から始まったわけではありません。その伝統は教会の誕生の時にまでさかのぼります。今日お読みした箇所は、キリスト教会最初の説教のクライマックスにあたる部分です。ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が注がれて、教会が誕生しました。集まってきたユダヤ人たちに対してペテロが語った説教は、使徒の働きに描かれている、初代教会の活動の基盤となる、いわば基調メッセージであるだけでなく、この中に、教会があらゆる時代に宣べ伝えるべきメッセージのエッセンスが含まれています。ですから、少し前の部分からペテロの演説の内容を概観してみましょう。
イエスさまが昇天されたのち、聖霊が注がれるという約束を待ち望んで、弟子たちは祈っていましたが、その祈りがペンテコステの日に応えられました。弟子たちは聖霊に満たされて、いろいろな国の言葉で神さまのみわざを語り告げたと言います(使徒2:1-4)。この不思議な現象に驚いたユダヤ人は、彼らの元に集まってきました。そこには、国外に居住していて、五旬節の祭りのためにエルサレムを訪れていたユダヤ人たちも多くいました。ところが中には、使徒たちは酒に酔って訳の分からない言葉を語っているのだ、と揶揄する人々もいたのです(13節)。
ペテロはこれに応えて話し始めます。彼はまず、人々が見聞きしているのは、酒によるのではなくて、神さまが旧約聖書のヨエル書の預言の通りに、聖霊を注がれたのだ、と説明するところから始めます(15-21節)。人々が見聞きしている不思議な現象は、聖霊によって引き起こされたものだ、ということです。ところで、ヨエル書によると、このようなできごとが起こるのは「終わりの日」のしるしです(17節)。弟子たちに聖霊が注がれたのは、救いの歴史の最後のステージがはじまったしるしだというのです。それはいったいどういうことなのでしょうか?
ペテロは続けて22節から、ユダヤ人たちにイエスさまのことについて語っていきます。神さまがイエスさまを通して力あるわざと不思議としるしをなされたというのは、イエスさまが旧約聖書で約束されていた救い主メシアである、ということの証しでした。けれども、神の民であるユダヤ人たちはイエスさまを受け入れずに十字架につけて殺してしまいました。ところが神さまはイエスさまを死からよみがえらせたのです。ペテロはイエスさまの復活について、詩篇16篇を引用しながら、それが旧約預言の成就であることを論じていきます。
ここでのペテロのポイントは二つあります。第一に、詩篇の作者であるダビデは聖徒が死を乗り越えることができると歌っていますが、彼自身は死んで葬られました。したがって、この詩篇は、ダビデ以外の誰か、すなわち彼の子孫であるキリストすなわちイエスさまを指している、というのです。
第二のポイントは、そのようにしてよみがえったキリストはダビデの子孫、すなわちイスラエルの王なる方だ、ということです。よみがえったのはただの人ではなく王である、というのは、後から見るように大変重要なポイントです。
さて、イエス・キリストが復活したというのは、キリスト教の中心的なメッセージですが、そのことはどうしたら分かるのでしょうか?また、使徒たちはそれをどのように当時のユダヤ人に説明したらよいのでしょうか? イエスさまの墓が空であったことは、福音書に書かれていますが、ユダヤ人たちの多くはそれは弟子たちがイエスの遺体を盗んでいったからだ、といううわさを信じていたかも知れません(マタイ28:11-15参照)。ペテロの答は、それは聖霊が下ってきたことによって分かる、というものでした。この説教はそもそも、弟子たちに聖霊が注がれたことについての話でしたが、ペテロがそれに続けてイエスさまの復活について話したのは決して脱線でも無理矢理イエスさまの話にこじつけたのでもなく、ちゃんとした理由があってのことだったのです。弟子たちが聖霊に満たされたできごと、エルサレムのユダヤ人たちが否定することのできない不思議なできごとは、イエスさまが確かに死からよみがえったことの証拠だというのです。
そして、イエスさまが復活したというのは、ただイエスさまは神さまだから死ななかった、とか、イエスさまは永遠のいのちを与えることのできるお方だ、ということ以上の意味があります。イエスさまが死からよみがえったということは、父なる神さまがイエスさまを天に引きあげ、ご自分の右の座に着かせたということとつながっています。そのイエスさまが聖霊を注がれたのです(33節)。
そして、イエスさまが父なる神さまの右の座に着かれたということは、何を意味しているのでしょうか? それは、イエスさまが全宇宙を治める王として即位された、ということなのです。ペテロはこのことを、詩篇110篇1節を引用して説明しています。
34 ダビデが天に上ったのではない。彼自身こう言っている、
『主はわが主に仰せになった、
35 あなたの敵をあなたの足台にするまでは、
わたしの右に座していなさい』。(使徒2:34-35)
この箇所は新約聖書の中で最も数多く引用される旧約聖句ですが、それだけこの箇所が初代教会の人々にとって重要な意味を持っていたということです。神さまの右の座に着くということは、父なる神さまからいっさいの権威を委ねられて、世界を治める、と言う意味なのです。
ペテロの結論は36節にあります。
「だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。
ペテロがイスラエルの人々に対して伝えたかったメッセージの中心は、「父なる神さまがイエスさまを主またキリストとされた」(そしてそれは、彼らが十字架につけたナザレのイエスその人である)ということです。これこそ福音、「よい知らせ」の中心なのです。当時新しいローマ皇帝が即位した時、そのニュースは「よい知らせ」として帝国のすみずみにまで告げ知らされました。その時使われたことばは、新約聖書で「福音」と訳されているエウアンゲリオンというギリシア語でした。初代教会が宣べ伝えた「福音」も、第一義的には個人の魂の救い(私の罪が赦されて天国に行ける)ではなく、もともとは「イエスが全世界の王となられた」という公の知らせ(ニュース)だったのです。聖書は個人の救いももちろん教えています(ただしそれは「天国」で永遠に暮らすということではなく、復活の肉体をいただいて新天新地で神さまとともに永遠に生きることです)が、それは「福音」の中心ではないのです。
このことは、パウロの書いたローマ人への手紙の冒頭ではっきりと述べられています。
1 キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロから――2 この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、3 御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生れ、4 聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちの主イエス・キリストである。(ローマ1:1-4)
ここでパウロは、彼が宣べ伝えている「福音」とは、人として来られたイエスさまが「死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた」ことだと言います。ここは新共同訳では「死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた」とあり、最近出た新改訳2017では、「死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された」となっていて、これらの方が原文のニュアンスをより正確に反映していると思います。聖書の「福音」とは、もともとは私たち個人の救いについて述べられたものではなく、イエスさまが「力ある神の子」として王座に着かれた、ということについての公の宣言なのです。
現代の私たちには、「主」や「キリスト」と聞いてもピンとこないかも知れませんが、このことばはどちらも「王」「支配者」という意味合いがあります。「主」という言葉は旧約聖書で神さまを指す呼び名として使われましたが、ギリシア語のキュリオスという言葉はローマ皇帝にも使われていました。また「キリスト」という言葉はメシアというヘブル語のギリシア語訳で、本来は「油注がれた者」という意味ですが、当時のユダヤ教ではイスラエルを解放してくれる王を意味していたのです。つまり、イエスさまが「主」であり「キリスト」であるとは、天から世界を統べ治めておられる王なる方だということです。
これこそ、誕生したばかりのキリスト教会が最初に世界に発信したメッセージでした。そしてこのメッセージは、使徒の働きの中で何度も繰り返されていきます。10章36節でペテロは最初の異邦人クリスチャンとなったコルネリオに対して、イエス・キリストは「すべての者の主」であると語っています。またパウロとシラスはピリピの看守に対して「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(16章31節)と語りました。「主」であるイエスさまを信じることが救いの道だというのです。テサロニケでパウロたちに反対したユダヤ人たちは、クリスチャンたちは「イエスという別の王がいる」と言っている、と彼らを非難しました(17章7節)。そして使徒の働きの記述は、パウロがローマ帝国の首都ローマで福音を宣べ伝えているところで幕を閉じますが、著者のルカは次のように語って筆を置いています:
30 パウロは、自分の借りた家に満二年のあいだ住んで、たずねて来る人々をみな迎え入れ、31 はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた。(使徒28:30-31)
パウロがローマで宣べ伝えたのは「神の国」と「主イエス・キリスト」についてでした。つまり、パウロは神さまの王なる支配について語り、そして父なる神さまの右にあって支配される方、主でありキリストでもあるイエスさまについて宣べ伝えたのです。これがパウロのメッセージの中心でした。
そして、王なるイエスさまに関するペテロのメッセージは、最初に語られた聖霊の注ぎということと深く関わっています。イエスさまは天に昇って父なる神さまの右の座に着かれてから、何もしないで将来ふたたび地上に来られる時を待っておられるわけではありません。全世界の王として即位されたイエスさまは、直ちにその支配を地上に及ぼし始めたのです。どのようにしてでしょうか? それは、ご自分を主と信じ従う人々に与えられる聖霊を通してなされたのです。ペンテコステの日に注がれた聖霊は、イエスさまが復活したことの証しであるだけでなく、イエスさまが王として今も地上で活動しておられることのしるしなのです。
だからこそ、教会は宣教の働きを始める前に、聖霊の訪れを待ち望まなければならなかったのです。弟子たちはすでに復活のイエスさまに出会って、イエスさまが確かに約束されたキリストであることを信じていました。けれども、教会の働きというのは、ただ人間が宗教的な教えを宣伝していくという以上のものです。それは、今も生きて天におられるイエス・キリストが、その聖なる支配を地上に現していく、という働きにほかなりません。それは別の言い方をすれば、神の国が地上に訪れ、拡大していくということです。そのためには、弟子たちが聖霊に満たされることがどうしても必要でした。聖霊によらない教会の働きというのはありえないのです。
ペテロのメッセージを聴いたユダヤ人たちは心を刺され、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と訊ねました(使徒2章37節)。彼らはイスラエルに遣わされたメシアであるイエスさまを殺してしまった。しかもそのイエスさまは今も生きていて、世界を治める王となられた。これは彼らにとっては恐ろしい知らせでした。知らなかったこととはいえ、自分たちは神さまに対して大きな反逆の罪を犯してしまったという自責の念に彼らは駆られたのです。
これに対してペテロは、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。」と答えます(38節)。彼らに必要なのは、悔い改めでした。これは単に今まで行ってきた大小さまざまな悪事を悔い改めるというだけではありません。彼らの一番大きな罪は、イエスさまがまことのメシアであり主であることを認めず従わずに生きてきたことです。それを悔い改めるとは、イエスさまを自分の主、王として認め、告白し、このお方に従う生き方を始めるということにほかなりません。
私たちは誰でも、何らかの「王」や「主」に仕えて生きています。それはいろいろな宗教の神であったり、お金であったり、地位や名誉であったり、快楽であったりするかもしれません。イエスさまを信じるということは、これらの偽りの「王」に仕えることをやめて、イエスさまこそ私の主、王なる方であることを告白し、忠誠を誓うことなのです。
イエスさまの聖なるご支配に従うということは、当然道徳的に正しい生活を送るということも含まれますので、そこには様々な罪の悔い改めも含まれてくるわけですが、この肝心なポイント、イエスさまを王と認めて従うと言うことがなければ、どれほど倫理的に正しい生活を送っていたとしても、それは空しいものです。ですから聖書的な悔い改めはまず何よりも、イエスさまを自分の主と信じ告白することから始まらなければなりません。
そして実は、私たちがイエス・キリストを「信じる」ということも、イエスさまが王であるという理解から出てくるものでなければなりません。聖書が教える「信仰」は、ただ正しい教えを頭で信じるということにはとどまりません。新約聖書で「信仰」と訳されることの多いギリシア語ピスティスは、王であるイエスさまに対する「忠誠」と訳すこともできる、いやむしろそちらの方が中心的な意味である、と言えます。私たちは良いことをしたからではなく、ただ神さまの恵みによって、神さまとの生きた人格的な関係に入れられますが、そのようにして神さまに立ち返った私たちは、王としてのイエスさまに忠誠を誓い、この王なる方に忠実に歩んでいかなければなりません。だからパウロは、先ほど引用したローマ書冒頭の続きで、「信仰の従順」について語っています(1章5節)。王なるイエスさまに関する福音は、人々を具体的な従順によって表される信仰へと導くのです。ヤコブもまた、行いのない信仰は死んだものだと語っています(ヤコブ2章26節)。
そして、私たちはそのようなイエスさまに対する忠誠の歩みを自分の力でしていくのではありません。それは神さまから与えられる聖霊の助けによってしていくのです。ですからペテロも、悔い改めてイエスさまに立ち返る人々は「賜物として聖霊を受ける」と語っています。聖霊はまさに王であるイエスさまに仕えるしもべとなった私たちに、王から与えられる「賜物」なのです。
ここまでをまとめますと、初代教会が宣べ伝えた「福音」とは、十字架で殺されたイエスさまがよみがえって天に昇り、全世界の王として即位されたということでした。そして、王位に就いたイエスさまはご自分に従う者たちに聖霊を与え、それを通してご自身の支配を地上に及ぼして行かれると言うことです。そして、私たちはこれに応答して、イエスさまの王権を認め告白して、賜物である聖霊をいただいて、王なるイエスさまに忠誠を尽くして生きていくことが求められているということです。これこそ聖書が教える「福音」であり、「悔い改め」であり、「信仰」なのです。
このように、私たちの信仰理解、福音理解というものは、イエスさまが「王」または「主」である、という理解に基づいています。実際、初代教会の最初の信仰告白の一つは「イエスは主である」というものでした(1コリント12章3節など)。私たちはこのことを常におぼえ、「イエスは主です」「イエスは王です」と告白していく必要があると思います。
しかし、ある人にとっては、このような「王としてのイエス・キリスト」というイメージに違和感を覚えることがあるかもしれません。「王」とか「支配」とか「忠誠」ということばは、多くの人々が持っている、優しく愛に満ちたイエスさまのイメージとはかけ離れた、何か厳しく権威主義的なものがあって、近寄りがたい感覚を生むかもしれません。確かに聖書はこれまで見てきたように、イエスさまがすべての主、王なる方であることを証ししているわけですが、それと同時に、それがどのような種類の「王」なのか、ということも語っています。その点について正確に知ることなしに、「王なるイエスさまへの忠誠」ということを考えると、大きな誤解をしてしまうことになります。それでは、聖書は、イエスさまはどのような種類の王だと言っているのでしょうか?
ルカ22章を開きましょう。これはイエスさまが十字架にかかられる前日の夜に弟子たちと食事をされた、いわゆる「最後の晩餐」について描かれている箇所です。24節から27節までお読みします。
24 それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。25 そこでイエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。26 しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。27 食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている。」
ここでイエスさまはこの世の支配のあり方と、神の国の支配のあり方を対比しています。この世の王や権力者は力と強制と暴力をもって人々を支配しますが、神の国で偉い人間はへりくだって愛を持って他者に仕える人でなければならないと語られます。それはまさにイエスさまが身をもって示してくださった態度でした。神さまが王として支配されるというのは、そういう意味なのです。このすぐ後にイエスさまは十字架にかかって人々のためにいのちを捨て、その究極的なありかたを見せてくださいました。
このすぐ後に、イエスさまは続けてこう言われます。
29 それで、わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、30 わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう。(29-30節)
これは世の終わりに完成する神の国で、王として統べ治めるイエスさまの支配に弟子たちも参加させていただくと言うことについて語ったものですが、ここで描かれている「王権」も、すぐ前に見た箇所の文脈の中でとらえる必要があります。つまり、弟子たちが王座に着いてイスラエルをさばく(治める)というのも、自己犠牲的な愛の奉仕を表していることばなのです。
このように、私たちが忠誠を誓うべきイエスさまは愛に満ちた真実なる王であることが分かります。聖書は私たちと神さまとの関係を、王としもべの関係だけでなく、父と子の関係にもたとえていますが、この二つのイメージは相反するものではなく、両立するものです。私たちは王である神さまの子ども、王子であり王女なのです。神さまは私たちがしもべとして仕えるべき主君であると同時に、愛する父親でもあります。そしてイエスさまは父なる神さまから王権を委ねられて、その右の座で統べ治めておられるのです。
これでもうお分かりだと思いますが、これまで語ってきた「王なるイエスさまの支配」というのも、まさにこのような種類の「支配」であることを忘れてはなりません。イエスさまが王であるという聖書のメッセージを、この世的な「王」や「支配者」の概念でとらえてしまうと、恐ろしい誤解をしてしまうことになります。実際、歴史上、教会がそのような勘違いをしてしまったために、人々に対して暴力的な支配を及ぼした、悲劇的な例はたくさんあります。けれども私たちは、天の父なる神の右の座から、聖霊を通してこの地上に行使されるイエスさまの「支配」は、まさに十字架で示されたような、愛の力にほかならないことを忘れてはならないのです。
このことは、ペンテコステの日に起こったできごとからも裏付けることができます。使徒の働き2章に戻りますと、ペテロの説教を聴いて悔い改め、バプテスマを受けた人々は3000人もいたことが41節に書かれています。この日エルサレムに、イエスさまを王といただく、熱烈な忠誠心に満ちた3000人の集団が突如誕生したのです。これはものすごい政治的なポテンシャルを持った団体でした。けれども、彼らは「イエスは王である。ローマ帝国を打倒せよ!」と叫んで暴力的な革命運動を始めたわけではありませんでした。実際この時代には、ローマに対する武力闘争を展開する過激なユダヤ人グループも存在しましたが、クリスチャンたちはそうしなかったのです。また、エルサレムの他のユダヤ人たちに、自分たちの運動に加わるように、力づくで強制したわけでもありませんでした。そうではなくて実際に起こった事は、42節以降に書かれています。
42 そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。43 みんなの者におそれの念が生じ、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって、次々に行われた。44 信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、45 資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。46 そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、47 神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである。(42-47節)
イエスさまの王なる支配を人々が受け入れ、この王に忠誠を誓ったとき、そこに出現したのは、聖霊に満ちて互いに愛しあう、うるわしい共同体だったのです。このような共同体に人々は自然と惹きつけられ、救われる人々が日々起こされていきました。王なるイエスさまへの忠誠に生きるとは、聖霊の助けをいただいて、神を愛し隣人を愛するという二大律法に生きることでもあります。このような愛の交わりが地上に広げられていくことが、神の国の訪れなのです。
ペテロが語ったこの福音のメッセージ、「イエスさまが主、キリスト、すなわち王である」というメッセージは、初代教会の時代だけのものではありません。21世紀の私たちにも語られているメッセージです。多くの教会で用いられている使徒信条では、イエスさまは死からよみがえって昇天された後、「全能の父なる神の右に座したまえり」と言われています。これはイエスさまについて現在形で書かれている唯一の部分です。イエスさまは今この瞬間も、天の父なる神さまの右の座に着いておられ、統べ治めておられる王なのです。
私たちはこのことについて、ふだんどれだけ意識して生活しているでしょうか。多くのクリスチャンにとって、イエスさまは二千年前に私たちの罪のために十字架にかかってくださり、しばらくいなくなって、将来いつの日かまたやって来られて、私たちを神の国に迎え入れてくださるお方、というイメージしかないかもしれません。十字架の贖いも再臨も大切な聖書の真理ですが、私たちが毎日この地上で生きていく上で最も大切な、いま現在イエスさまはどこで何をしておられて、私とどういう関係を持ってくださるのか、ということについては、漠然とした意識しかないかも知れません。イエスさまがいま現在天におられる王であり、私たちはその王の忠実なしもべとして、そのよい知らせ、つまり「福音」を告げ知らせ、聖霊の力をいただいて、その愛に満ちたご支配をこの地上に現すべく召された存在なのです。今週も主でありキリストであるイエスさま、王なるイエスさまに信頼し、このお方に忠実に仕えていきましょう。