科学と聖書(5)

その1 その2 その3 その4

使徒行伝には、さまざまな機会に初代教会でなされたスピーチがいくつも収められています。そのうち多くは、まだキリスト教信仰を持たない人々に対して、キリスト教のメッセージを宣べ伝える、いわゆる伝道説教です。これらの説教をじっくりと読んでいくと、それぞれの説教の中で語られている内容には、ある興味深い違いがあることに気づきます。

ペンテコステ(聖霊降臨)の日のペテロの説教(使徒2:14-40)、エルサレム神殿のソロモンの廊におけるペテロの説教(3:12-26)、サンヘドリンにおけるステパノの説教(7:2-53)、コルネリオの家族に対するペテロの説教(10:34-43)、ピシデヤのアンテオケにおけるパウロの説教(13:16-41)、エルサレム神殿の境内におけるパウロの説教(22:1-21)など、使徒行伝の説教の多くでは、イスラエルの歴史(そしてアブラハム、モーセ、ダビデ等、鍵となる人物)について詳しく語られ、十字架につけられて復活したナザレのイエスが旧約聖書が約束していたメシアであると論じられていきます

ところが使徒行伝には、上に挙げたようなパターンとはかなり異なる内容の伝道説教も二つ収められています。

第1回伝道旅行中のルステラにおけるパウロの説教は次のように短く記録されています:

14  ふたりの使徒バルナバとパウロとは、これを聞いて自分の上着を引き裂き、群衆の中に飛び込んで行き、叫んで15  言った、「皆さん、なぜこんな事をするのか。わたしたちとても、あなたがたと同じような人間である。そして、あなたがたがこのような愚にもつかぬものを捨てて、天と地と海と、その中のすべてのものをお造りになった生ける神に立ち帰るようにと、福音を説いているものである。16  神は過ぎ去った時代には、すべての国々の人が、それぞれの道を行くままにしておかれたが、17  それでも、ご自分のことをあかししないでおられたわけではない。すなわち、あなたがたのために天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たすなど、いろいろのめぐみをお与えになっているのである」。18  こう言って、ふたりは、やっとのことで、群衆が自分たちに犠牲をささげるのを、思い止まらせた。(使徒14:14-18)

また、第2回伝道旅行中にアテネのアレオパゴスでパウロが行った説教も、少し長いですが引用します:

22  そこでパウロは、アレオパゴスの評議所のまん中に立って言った。「アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。23  実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。24  この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。25  また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、26  また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。27  こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。28  われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、『われわれも、確かにその子孫である』。29  このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない。30  神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。31  神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」。(使徒17:22-31)

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アテネでのパウロの説教(ラファエロ作)

この二つの説教では、パウロは旧約聖書やイスラエルの歴史については何も語っていません。驚くべきことに、「イエス」や「キリスト」ということばすら、まったく使っていないのです。その代わり彼が語ったのは、天地万物を創造した生ける唯一の神がおられる、ということでした。なぜこのような違いが生じたのでしょうか?

この疑問に答えるには、それぞれの説教の聴衆がどのような人々だったかを考える必要があります。使徒行伝の伝道説教は多くの場合、ユダヤ人あるいはユダヤ教に共感を持ち、それなりの聖書知識もある異邦人(「神を恐れる人々」あるいは「神を敬う人々」と呼ばれました)を対象として語られました。ですから、彼らに対して語られる説教においては、聖書がふんだんに引用され、イスラエルの歴史の中でイエス・キリストがどのような位置を占めておられるのかが詳しく論じられています。

ところが、ルステラとアテネではまったく状況がことなります。それらの場所でパウロが語りかけた相手は、ユダヤ教の背景知識をまったく持たない、純粋な異教徒だったのです。そのような人々に対していくら聖書やイスラエルやキリスト(メシア)の話をしても、まったく理解不能だったことでしょう。そこでパウロは、まず彼らに対して創造主である唯一の神について語り、偶像礼拝をやめてこの唯一のまことの神に立ち返るようにとすすめたのです。

このことは、初代教会の人々が福音を伝える時、聞き手の状況や知識に応じて柔軟にメッセージの内容や語り方を変えていったことを示しています。もちろん、パウロは異邦人に対してイスラエルやイエスについて何も語らなかったというわけではありません(使徒16:31、17:18などを参照)。しかし、特に不特定多数に語りかけるような伝道説教においては、彼は異教徒の聴衆が理解できる内容から語り始めて、その中で興味を持った人々には徐々に聖書の内容を教え、イスラエルやイエスについて語っていったのではないかと思われます。エペソ教会の長老たちに語ったメッセージの中でパウロは、彼らに「神のご計画の全体」を余すところなく伝えたと語りましたが(使徒20:27)、彼はそのために三年の月日を費やしました(同31節参照)。

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さて、ルステラやアテネにおけるパウロの伝道説教を読んで思うのは、平均的日本人のようにユダヤ教やキリスト教の背景知識をほとんどあるいはまったく持たない人々に福音を伝える際には、いきなり聖書を開いてイエス・キリストについて語り始めるのではなく、まずは唯一の創造主なる神について語ることから始めるのが一つの有効な方法かもしれない、ということです。もちろん、使徒行伝のわずか二箇所の内容を単純に一般化することは慎まなければなりませんが、著者のルカが初代教会の宣教活動をこのように繊細に描き分けている意味はよく考えてみる必要があると思います。

イエス・キリストの十字架の話をはじめて聞いた日本人のほとんどは、それが何のことだか理解できないでしょうし、イスラエルの歴史や聖書の話を聞かされても、それが自分の人生と何らかの関係があると漠然とでも考える人はむしろ少数派でしょう。けれども、「宇宙を創造した唯一の神」という話題は、キリスト教に触れる機会のまったくなかった人々にとっても、興味を引くものである可能性があります。現代の日本人に福音を伝えるとき、私たちはシナゴーグのユダヤ人に対するようにではなく、アレオパゴスのギリシア人に語りかけるつもりで語る必要があるのかもしれません

しかし、ここで問題が生じます。

大多数の日本人は、学校教育で進化論を学び、それを生命の起源に関する標準的科学理論として受け入れています。ところが、これまで日本の大多数の福音派諸教会では、進化論は誤った非聖書的思想であるとして退けられてきました。したがって、教会が「創造主としての神」を伝えようとするとき、その「創造」の具体的方法について、理解に大きなギャップが生じることになります。

そこで、教会を訪れたノンクリスチャンは「科学」と「聖書」のどちらを取るかという、二者択一を迫られることになります。その結果、多くの人々が時代遅れの非科学的な宗教としてキリスト教を拒絶するか、たとえ入信したとしても、科学と聖書の教えの「不整合」(と思われるもの)に悩まされることになります。いずれにしてもこれは不幸なことだと思います。ユダヤ教やキリスト教の文化的背景のない日本人にこそ、創造主なる神をまず伝えなければならないのに、その入り口のところで障害にぶつかってしまうからです。

けれども、神が人間をふくめ宇宙のすべてを創造したというキリスト教のメッセージと、地球上の生命は長い時間をかけて進化してきたという科学の主張は、本当に両立しないものなのでしょうか?ここで重要なのは、神が宇宙を創造したという「事実」と、神がその創造をなされた「方法」を混同しないことです。創造主なる唯一の神を認めることはキリスト教の根本的信仰内容ですが、その神が「どのような形で」創造を行われたのかということについての理解には、このシリーズでも述べてきたように、福音主義に立つキリスト者の間でもさまざまな見解があり、この点における意見の違いは、信仰の根幹を脅かすものではありません。

しかし残念ながら、創造の「方法」に関する特定の見解と創造の「事実」をセットにして、クリスチャンはその全体を受け入れなければならないと主張されることがあります。けれどもそうしてしまうと、神の創造に関する理解の幅が不必要に狭められ、特定の創造論を受け入れることのできない人々が排除されることになってしまいます。

私は、日本のキリスト教会が創造主なる唯一の神を証ししていくことはたいへん重要なことだと考えています。しかし、進化論の問題がつまずきとなって、福音を受け入れることのできない人々がいるとしたら、それは大きな悲劇だと言わざるをえません。また、進化論を否定することがクリスチャンになるための(あるいはクリスチャンの正統性を判定するための)「踏み絵」のように使われることも、あってはならないことだと思います。

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私は、「進化論を否定すると現代人には受け入れられないから止めたほうがよい」と言っているのでありません。また創造の「方法」については、人によって異なる種類の創造論が説得力を持つことがあるでしょうし、それはそれでよいと思います。けれどもこの問題については、キリスト教会内でも多様な見解や立場があり、誰もが認める「唯一の聖書的立場」と呼べるものはないこと、クリスチャンになるために必ずしも現代科学の成果を否定する必要はないということを、教会外の人々に対しても明らかにすることが大切だと考えています。キリスト教信仰に興味を持つ人々にとって、聖書と科学の関係について教会が提供する選択肢があまりにも限定されすぎているように感じます。むしろ教会は、さまざまな立場を内包しつつも、一致して創造主なる唯一の神を世に対して証しする存在となっていくべきではないでしょうか。